『ひなの春』

『ひなの春』

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学び
「ひな。かつ丼くったやろ」

木村センセの声は、いつものように少し笑っていた。
ひなはプリントから顔を上げ、むっとしたように言い返す。

「だから、くってへんてー」

そのやり取りは、リバティの教室の風景の一部だった。
小1からずっとここにいるひなにとって、
センセの「かつ丼」は、がんばってる子にだけ飛んでくる“合図”だと知っている。
だから、ひなは否定しながらも、どこか嬉しそうだった。

ひなの勉強が変わったのは、ほんの一週間前のことだ。
理由は誰にもわからない。
ひなの中で、何かが静かに動いたのだ。

そういえば──
「私、城北高校へ行きたいねん」
と、ひながつぶやいたのはその少し前だった。

その声は、いつもの調子とは違っていた。
ふざけていない。
誰かに聞かせるためでもない。
自分の胸の奥から、そっとこぼれたような声だった。

センセはその瞬間、
ひなの中に“芽”が生まれたのを感じた。

ひなは、この春から中学2年生になる。
小1の頃のひなは、自由奔放そのものだった。

机の上を歩き、
紙ヒコーキをセンセめがけて飛ばし、
「よく飛んだ!」と満面の笑みを浮かべる。

そのHさんが、今のひなだ。

勉強なんて、ひなにとってはただの背景だった。
やらされるもの。
退屈なもの。
自分とは関係のないもの。

センセは、そんなひなを急かさなかった。
叱らなかった。
ただ、ひながひなでいられる場所を守り続けた。

「いつか、この子は動く」
そう信じていた。

でも、その“いつか”がこんなに長いとは、
センセ自身も思っていなかった。

そして今。
ひなは机に向かっている。

鉛筆を握りしめ、
プリントに向かい、
眉間にしわを寄せて問題を解いている。

間違えても、投げ出さない。
時間がかかっても、席を立たない。
ひなの背中からは、
これまで見たことのない静かな熱が立ちのぼっていた。

センセは、その姿を見ながら思う。

──ああ、やっと来たんやな。

長い時間がかかった。
本当に長かった。
でも、ひなは自分の足でここまで来た。

「ひな。かつ丼くったやろ」

センセがもう一度言うと、
ひなは照れ隠しのように、
プリントに顔を近づけたままつぶやいた。

「……くってへんて」

その声は、
小1の頃の無邪気さと、
今のひなの決意が混ざり合ったような、
不思議にあたたかい響きだった。

ひなはまだ、城北高校に届くかどうかはわからない。
道のりは長い。
これからもっと苦しい日もある。

でも、センセはもう心配していなかった。

ひなは、自分の未来を見つけた。
その未来に向かって歩き始めた。
それだけで十分だった。

「もう大丈夫やな」

センセは心の中でつぶやいた。

ひなの春は、
ようやく始まったばかりだった。
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