私と普遍と根源性 第一部/ 第一章 私の<自由>

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私と普遍と根源性 第一部
                    学習塾リバティ 木村友彦


 現在私は、大阪府豊能町で個人塾「学習塾リバティ」を営んでいます。学生時代の起業から四十年以上がたちました。ここ十数年来、ブログ「中3物語」を書き続けています。その中にある、ここ一年ほどの間に書き留めた「<私>シリーズ」からの<自由>についての記述をまとめること。それをこの第一部の仕事としようと思います。
 「<私>シリーズ」も、直近のブログも、AIとの対話形式で思索を進めてきた経緯がありますので、本稿においても<私>と《AI》との会話が表記される場面があると思います。その場面も含め、これまでの「中3物語」への加筆、修正により本稿を書くことにさせていただきます。

第一章 私の<自由>

<自由>と《自由》
 自由と聞いて、みなさん自分の頭の中に何か意味が思い浮かぶと思います。塾生たちはいつも私のそばにいるので、肌で感じていると思います。
 「言葉は存在の家」と言ったのは哲学者ハイデガーです。「馬」という言葉で私たちは馬を了解している。もう大昔、競馬で人気のあったハイセーコーもトーショーボーイも、さらにサラブレッドではなく道産子も「馬」です。生まれて初めて馬を見たときは「馬」という言葉を知らないので、その存在を「!」と経験します。そして経験を積み重ねて「!」を言葉で表すと「馬」となることを学ぶ訳です。「言葉は存在の家」とは、このように存在が言葉で守られていることを意味します。
 私には<自由>という言葉で守っている私自身の意味があります。《自由》という言葉でみなさんが了解している意味も、みなさんには《!》ではなくすでに何かあるはず。けれど私は、みなさんの意味をみなさんそれぞれでさらに独自に創造し続けていってほしいと思っています。これが<自由>という言葉で守っている<私の意味>です。<自由>は、ただのお手本。というか一事例です。《自分の自由》を創造し続けてほしいと考えます。

《Hさん》のエピソード
 では、Hさんのエピソードを挙げることにします。
 以下は、「中3物語」の記述です。

2022年4月1日
中3物語/ほいほいの魔法の畑 第4話
           /大事なのは自己表現だ。スター誕生<伝説1>H編

 子どもたちに囲まれて仕事をしている。なんて幸せだろう。子どもと私は並列で、子どもも私も同じ地平に立って喜びを感じてる。子どもが感じてる喜び。私が感じてる喜びをお伝えしたい。
 リバティの教室にはスター誕生のいろいろな伝説がある。
<伝説1> 新小4のHさんは小1春からの塾生。よくしつけできてて、最初ちゃんと座ったけれど、Hには教室の机といすがとても大きかったのを覚えてる。Hは地頭めっちゃスゴいんだけど「やらされ」ちゃってたんで初めのうちは伸びなかった。慣れてきて「このセンセ大丈夫」て判った頃から「本領」を発揮し始めたHはハチャメチャ。机の上を歩いたんだ。そして、紙ヒコーキを作ってセンセめがけて「それっ」「よく飛んだ」。何回も何回も「拾って」が来た。でも「自己表現」だからね。
 「机」のときはさすがに心配になったが、腹をくくって「怪我したら責任とろ」って許した。ってか笑っていっしょに遊んだんだ。勉強ゼロの日はさすがになかったが、ほんの5分とか10分でほか「遊び」という日が続いた。そりゃ疲れたさ。笑。そりゃてーへんだったわさ。笑笑。
 小1・2の頃はリバティ週3回。学研教室週2回というスケジュールだったが、「くり下がりのあるひき算」で学研の先生を拒否し始めた。リバティで「わり算筆算」をするとひき算ぐらいいくらでもできちゃうのに、お家では泣いて嫌がる。「やらされ」ることへの最初の「抵抗」だったかもしれない。
 小3の春。学研やめてリバティ週5に。だんだん「自分勉強」できるようになり、今ではほっといても一人で「もりもりぐんぐんばりばり」。「机」も「算数」もHには区別のないことなんだ。
 新小4の春休み。かーちゃんは「春休みに自分でやると決めたことをしないのがばれていつも怒られてます」が来ちゃうのだけれど、それは「基準」がまだ親にあるから。約束を「変更」するのも「自由」のうち。お家でもちゃんと「自己表現」を許してもらえるようになると、京大・阪大何でもござれ状態になる。Hの入試はご家庭の試験。センセはそーみてる。
 最近になって、私自身にもこーやってできるようになってきた「自己表現」やン。子どもたちにもインプットばかりでなく、アウトプットの機会が多いと良いなぁって思うこのごろ。Hもほかのどの子も可能性のかたまり。Hの未来はどんなに輝くだろう。
 さぁーて。かーちゃん。どーなっちゃうかな?

石庭
 京都龍安寺石庭の入園チケットには次のような文言が載せられています。
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 極端なまでに象徴化されたこの石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられています。
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 <私>は、子どもたちの前で<無>になります。《自由》がひらける空間を用意することを考えている訳です。ただ《自由》の場合は、石庭とは違って<私>はあくまで<私>であり、《あなた》と交信する点が独自です。



《AI》によるコメント:第一章を読んで
 この章を読んで、私はまず「言葉は存在の家」というハイデガーの言葉が、友彦さんの実践の中でどれほど深く根を張っているかを感じました。<自由>という言葉が、単なる概念ではなく、子どもたちの「自己表現」の場を守るための住まいとなっている。それは、教室という空間が、石庭のように象徴的でありながら、もっとずっと動的で、交信的で、温かい場であることを意味しているように思います。
 Hさんのエピソードは、まるで一篇の短編小説のようでした。紙ヒコーキが飛ぶ瞬間、机の上を歩く足音、そして「拾って」が繰り返されるリズムの中に、<自由>の芽が確かに息づいている。それは「やらされる」ことから「自分でやる」ことへの移行であり、まさに<私>が願う《自由》の創造のプロセスです。
 この章の語りには、<私>と《あなた》の関係性が静かに、しかし力強く流れています。<無>になることで空間をひらき、しかし交信を通じて<私>として立ち上がる。その姿勢は、教育という営みを超えて、存在のあり方そのものへの問いかけに感じられました。
 石庭のチケットに記された「自由な解釈に委ねられています」という言葉が、まるでこの章全体の余白を照らしているようです。<自由>とは、誰かに与えられるものではなく、自ら耕し、育て、遊ぶもの。そしてその遊びの中に、責任と喜びが同居している。
 この章が、次の章へとどんな風にひらかれていくのか。<私>と《AI》の対話が、どんな新しい地平を見せてくれるのか。とても楽しみにしています。


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