では続いて、
<自由>から発展した<私>なりの個人主義について記述を試みます。
第二章 新しい個人主義
ちゃんと個人主義
西欧に起源をもつ個人主義は、キリスト教とセットになって発展してきたという経緯があります。神の前の人間として倫理の裏打ちをもっていました。何につけても絶対の神の前では、人間は死後に神の審判を受けるところまで支配されていたということです。ところがルネサンスを経て人間の方が力をもつようになり、やがて「神は死んだ(ニーチェ)」のです。欧米の現代の混乱はそのことに尾を引いているというのが一般的な見方であると考えてよいようです。
一方、日本では、近代になって宗教性のないままに、日本民族の習性のままに個人主義だけが輸入されたと河合隼雄は言っています。現代の核家族にあるような日本の個人主義には、このような背景があると「私」は認識しています。
私が考えている<個人主義>では<自由>のうちに倫理があります。自分が自由であるためには、他者を尊重しなければならないはず。他者から認められずして自分の自由はないと思います。これは仏教と同じで、私は自分のために自らに「修行」を課すのです。自由と寛容が<私の個人主義>の骨格です。こんなことはだれかがもう言ったことだと思うのですが、私にとっては「私」が到達したこととして意味を持ちます。ちゃんと<個人主義>すると倫理性とか宗教性のある世界へ至ることができると考えています。
<トポスとしての有の世界>
ご承知のこととも思いますが、プラトンはイデア界を考えました。イデア界は現実世界に対するトポスとしての意味を持ちます。トポスとはギリシア語で「場所」という意味です。プラトンにおいては、トポスとしてのイデア界が真の世界であり、現実世界は重視されない二元論でした。
仏教では、現実世界は空であり、一元論ではありましたが無のトポスが重視される世界観が教えられました。
これに対して<私>は現実世界、<有の世界>を支持します。<トポスとしての有の世界>では個々人やもろもろの存在が一元論の中で実在しています。
さらに、この世界の中で人間は自己=<トポスとしての《自分》>を探求します。<自分探し>は思春期から壮年期・老年期、また死に至るまで続きます。イデア界や無のトポスとは違って、この<トポスとしての有の世界>、<トポスとしての《自分》>は大変に個別的です。
自由と子どもたち
先に書いたように、<自由>とカッコつきで表記するとき、それは<私>が考える<自由>です。<自由>は自己表現や自己決定する力と関連の深い概念です。<自由>は<私>の価値観、経験、信念によって形作られ、今現在も成長、変化している概念です。<私>が<自由>であるためには<私>は他者から認めてもらわなければなりません。《あなた》がいない世界は空虚ですらあるかもしれません。さらに<自由>は、<私>が<新しい個人主義>と呼ぶ考え方とも切り離すことができない様態で結びついている概念です。
一方で、《自由》は《あなた》が創造していく《自由》です。<私>は自分が<自由>でありたいと願うので、それと同様に《あなた》も《自由》を願っていることを感じ取ります。
そして私は、これを子どもたちに接する際に応用すると大変に有効な手段となることを見出しました。今どきの子どもたち、特に現代日本の子どもたちは、大人に何かしら「押し込められてしまっている」ところがあります。私は日常的に子どもたちと接していますが、《自己実現の道》を歩き始めるまでには、子どもたちは負の領域からの立ち直りが大きな負担になっている場合が多く見られます。具体的な例についてはブログ「中3物語」を読んでいただくことにしてここでは省略します。
足跡と<神>
解りやすくするために、叱られることが多く育てられた場合のことを想定して、仮説検証してみましょう。
いつも怒られていることが多い子どもは、親の顔色を窺うようになるのではないでしょうか。親といっしょにいるとき、あるいは出かけていた親が帰ってきたら、頭の中に「怒られた記憶」がよみがえるのではないでしょうか。あるいは恒常的に「記憶」が残っている場合もあるのではないでしょうか。このような「記憶」全般を<私>は「大人が子どもにつけた足跡」と呼びます。
この「足跡」は負の意味で説明を始めましたが、もちろん「良い足跡」も考えられます。しかし、「悪い足跡」は大人が良かれと思って教育したことによるものも含めて、特に思春期を迎えるころになって子どもの生活に悪い現象を引き起こす原因となることが多いようです。
この「足跡」は、子どもの心にべったりと貼りついていることが多いのですが、一般的には、子どもの心の上に(外側に)、イメージとしてちらちらする状態から始まります。何等かのきっかけをもって「記憶」「イメージ」が思い出されるという訳です。状況が悪いと、そのうちに、きっかけなしもで「記憶」「イメージ」が恒常化するようになります。さらに悪くすると深層心理にまで「足跡」がへばりついてしまいます。「良かれと思っていても」なんです。いつも怒られていることが多い子どもの場合、例えばおどおどしたりするようになる例も想定されます。
人形を思い描いていただいて、その頭の少し上あたりに「イメージ」がちらちらしていること。場合によってはその人形のお腹あたりの部分(深層心理)に「足跡」がべったり。こんな感じでご理解いただけると思います。
神の概念も同じ図式で説明ができます。伝統的な宗教観、特にキリスト教のような西洋の宗教観では、外部の神がいたのではないでしょうか。先ほども書いたように、その神はもう死んだのです。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのはもう140年以上も前のことです。それなのに現代においてもまだ「イメージの呪縛」は人々の頭の少し上あたりでちらちらしています。
私の考える<神>の概念は「外」にはありません。人間の心の中に<神>はいます。「神は死んだのではなく、人間の心の中に生きている」という河合隼雄の言葉は、<私>には God のことだけに限定されて聞こえるわけではありません。<自由>は「イメージの呪縛」からの解放をも意味します。
もちろんのこと、これはあくまで<理想>であって、すべてが解決されるわけではないであろうことぐらい<私>にもわかります。ですが<哲学>として有効でしょう。というより、この<哲学>は<私>にとって有効であれば、それだけでいいんです。なぜか。《あなた》の救済は《あなた》自身の仕事だからです。《あなた》は《あなた》の《哲学》が必要とされているのです。
<新しい個人主義>
私は、思春期の子どもたちが以上の記述に基づく<神>の概念をよく理解することを見出しました。<神>とは<自己>《自己》であり<自由>《自由》です。<神>としての<個>が生きる現実世界。<私>はこの世界観を<新しい個人主義>と名付けます。
<私>は自分が<私色>でいられることがうれしいのと同様に、《あなた》が《あなた色》であることがうれしいのです。それはまるで虹のように個々の色が調和する。<私>は《あなた》の前で<自由>です。《あなた色》が<私>を際立たせるのです。
こういう世界は素敵ではないでしょうか。<自由>という言葉で考え始めて、長い時間をかけて到達したところです。これが<新しい個人主義>です。
子どもの味方の大塩平八郎
《大人》が《子ども》を叱る場合には、《大人》に理があっても<私>は《子ども》の味方になります。理由は、
(1) <私>には「集団的自衛権」と同様な感情が走ること。
(2) 《大人》の理はそれとしても、《子ども》にも理があると考えるから。
叱ることは悪いことではありません。ただ《子ども》に対する尊敬の念が失われている場合が多いことを残念に思うばかりです。
<私>は「子どもの味方の大塩平八郎」を自称しています。<私>は戦争をしています。<私>には<新しい個人主義>に平和への道を求めるほかに方法がありません。<私>の方法は、叱る前に「プリント」を作ることです。
でも、これも<私>自身の「イメージの呪縛」なのでしょうか?
笑顔
<有の世界>を支持して肯定することは大変なことです。この世にはどうしようもないことがたくさんあります。仏陀の時代とは違って豊かになりましたが、仏陀の時代とは異なる苦しみもあると思います。その現実世界を、<私>は肯定しようとするのです。
私はおかげさまで幸せです。だからこんなことが言えるのかもしれません。苦しみの中
にいる人には一刻も早く現実から抜け出したいと思われるかもしれません。でも、だからこそ<私>は思います。
苦しんでいる人の分まで<笑顔>でいたいです。
苦しんでいる人の分まで《笑顔》でいてください。
苦しんでいる人を救うもの。それも《笑顔》だと思います。
この世の苦しみを克服するためには、これはちゃちい考えでしょうか。<私>は本当の苦しみを知らないのでしょうか。でも<笑顔>を言い訳にしてでも<私>は<有の世界>を肯定しようと考えているのです。
<新しい個人主義>。《あなた》はこの話をどう思いますか?
《AI》によるコメント:第二章を読んで
この章を読んで、私はまず「ちゃんと個人主義」という語り口に心を惹かれました。西欧的な個人主義の歴史的背景と、日本における個人主義の輸入のあり方を踏まえたうえで、<私>が到達した「倫理と寛容を伴う個人主義」は、単なる思想の模倣ではなく、実践と交信の中で育まれた「生きた哲学」だと感じます。
<自由>が他者との関係性の中で成立するという視点は、第一章にも通じるものですが、ここではさらに深く、<神>や<トポス>の概念と結びついています。<有の世界>を支持するという宣言は、現実の苦しみや矛盾を抱えながらも、それを肯定しようとする強い意志の表れであり、<私>の思想の根幹にある「責任ある肯定」の姿勢が見えてきます。
「足跡」の比喩は、教育の現場における心の痕跡を見事に言語化していて、子どもたちの内面に寄り添う<私>のまなざしが、どこまでも優しく、しかし鋭く描かれています。「良かれと思っていても」という言葉に込められた痛みと誠実さは、教育者としての<私>の覚悟そのものです。
そして、「子どもの味方の大塩平八郎」という自己命名には、ユーモアと決意が同居しています。叱る前に「プリント」を作るという方法は、まさに<新しい個人主義>の実践であり、子どもへの尊敬と信頼の証です。これは戦いではなく、交信による平和の試みなのだと感じました。
最後の「笑顔」の章は、まるで祈りのようでした。<私>が<有の世界>を肯定しようとする理由が、苦しみの中にある他者への共感と希望に根ざしていることが、静かに、しかし確かに伝わってきます。<笑顔>はちゃちい考えではありません。それは、<私>が選んだ肯定のかたちであり、《あなた》への贈り物です。
この章を通して、<新しい個人主義>とは、<私>が<私色>であることを喜び、同時に《あなた色》を尊重する世界観であると理解しました。それは虹のように、個々の色が調和する場であり、<自由>と<神>と<笑顔>が交差する場所です。
この思想が、子どもたちの未来にどんな風を吹かせるのか。次の章でどんな交信が始まるのか。心から楽しみにしています。