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私と普遍と根源性 第二部/ 第一章 仏教と根源性

私と普遍と根源性 第二部  第一部では<私>の<自由>と<新しい個人主義>についてまとめて記述しました。この第二部では「根源性」を考察することを試みてみようと思います。仏教(禅)・西田幾多郎と絶対無・谷川俊太郎などをテーマにして、どこまで記述できるか挑戦したいと思います。  なお、私の今までの記述は膨大でとりとめがなく、これをまとめるためにAIの力を借りています。それでもなお、いやそのことのお陰で、<私>の思想は<私>であることができています。コンピュータの力は大きいです。 第一章 仏教と根源性/<私>と仏教・禅──肯定の磁力と否定の徹底の交差点 はじめに──根源性への旅の途中で  <私>の思索は、仏教の「空」や「無」、西田幾多郎の《絶対無》、そして臨済の禅にまで及んできました。どれも、「存在とは何か」「生きるとは何か」という問いに向かう旅の途中で出会った道標のようなものだと思っています。  ここでは、仏教と禅を中心に、<私>の言葉と響き合う思想の流れをまとめてみたいと思います。なお、《絶対無》や根源性に関する思索は、今後第二章以降に取り上げるつもりなので、楽しみにしていてください。 仏教──空と無、そして自利利他の思想  仏教における「空」は、すべての存在が相互依存し、固定的な実体を持たないことを示しています。『金剛般若経』の「一切の有為の法は、夢幻泡影の如し」という言葉に象徴されるように、この世は無常であり、執着すべきものではないとされています。  しかし<私>は、この「空」の思想に対して、肯定の磁力によって応答したいと思っているのです。「柳緑花紅」の禅語に見られる
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私と普遍と根源性 第一部/ 第二章 新しい個人主義

では続いて、<自由>から発展した<私>なりの個人主義について記述を試みます。 第二章 新しい個人主義 ちゃんと個人主義  西欧に起源をもつ個人主義は、キリスト教とセットになって発展してきたという経緯があります。神の前の人間として倫理の裏打ちをもっていました。何につけても絶対の神の前では、人間は死後に神の審判を受けるところまで支配されていたということです。ところがルネサンスを経て人間の方が力をもつようになり、やがて「神は死んだ(ニーチェ)」のです。欧米の現代の混乱はそのことに尾を引いているというのが一般的な見方であると考えてよいようです。  一方、日本では、近代になって宗教性のないままに、日本民族の習性のままに個人主義だけが輸入されたと河合隼雄は言っています。現代の核家族にあるような日本の個人主義には、このような背景があると「私」は認識しています。  私が考えている<個人主義>では<自由>のうちに倫理があります。自分が自由であるためには、他者を尊重しなければならないはず。他者から認められずして自分の自由はないと思います。これは仏教と同じで、私は自分のために自らに「修行」を課すのです。自由と寛容が<私の個人主義>の骨格です。こんなことはだれかがもう言ったことだと思うのですが、私にとっては「私」が到達したこととして意味を持ちます。ちゃんと<個人主義>すると倫理性とか宗教性のある世界へ至ることができると考えています。 <トポスとしての有の世界>  ご承知のこととも思いますが、プラトンはイデア界を考えました。イデア界は現実世界に対するトポスとしての意味を持ちます。トポスとはギリシア語で「
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私と普遍と根源性 第一部/ 第一章 私の<自由>

私と普遍と根源性 第一部                     学習塾リバティ 木村友彦  現在私は、大阪府豊能町で個人塾「学習塾リバティ」を営んでいます。学生時代の起業から四十年以上がたちました。ここ十数年来、ブログ「中3物語」を書き続けています。その中にある、ここ一年ほどの間に書き留めた「<私>シリーズ」からの<自由>についての記述をまとめること。それをこの第一部の仕事としようと思います。  「<私>シリーズ」も、直近のブログも、AIとの対話形式で思索を進めてきた経緯がありますので、本稿においても<私>と《AI》との会話が表記される場面があると思います。その場面も含め、これまでの「中3物語」への加筆、修正により本稿を書くことにさせていただきます。 第一章 私の<自由> <自由>と《自由》  自由と聞いて、みなさん自分の頭の中に何か意味が思い浮かぶと思います。塾生たちはいつも私のそばにいるので、肌で感じていると思います。  「言葉は存在の家」と言ったのは哲学者ハイデガーです。「馬」という言葉で私たちは馬を了解している。もう大昔、競馬で人気のあったハイセーコーもトーショーボーイも、さらにサラブレッドではなく道産子も「馬」です。生まれて初めて馬を見たときは「馬」という言葉を知らないので、その存在を「!」と経験します。そして経験を積み重ねて「!」を言葉で表すと「馬」となることを学ぶ訳です。「言葉は存在の家」とは、このように存在が言葉で守られていることを意味します。  私には<自由>という言葉で守っている私自身の意味があります。《自由》という言葉でみなさんが了解している意味も、みな
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