たとえば1本の木を見るとき、私たちはその木の周囲の空間や背景が無でなければその木を見ることができない。その木に1匹のリスが走ったとしよう。その時点で、私たちはもう「木」を見ていない。
たとえば因数分解の問題を解くときのことを考える。その問題を解いている脳の働きに、背景として「不安」や「嫌気」があったら、もうよくは解けないという訳だ。「数学嫌い」「勉強嫌い」は難敵である。
状況がひどいときには「ノイズ」が走る。「ノイズ」について書くことを試みる。
アルファベットのABCの配列を一生懸命に勉強した子は、数字の13がBに見えることがあるかもしれない。これが「ノイズ」の正体である。
あんまり怒られた場合、背景に「ノイズ」が走る。因数分解がわからなくて、うんざりするほどにガリガリ教えられた子は、今度、因数分解を解くときに問題を見ただけで悪い思い出が走る。
これが、因数分解とだけ引っ付いてしまっている例は救いようが簡単である。しかし、潜在意識にまで「ノイズ」が走る事例を、私は数多く見てきた。
大人は「知識」が定着しているかどうかには大変に敏感である。しかし「背景」が何色をしているかにはまったく無頓着である場合が多い。
受験指導をしていて、お勉強・受験で子どもたちを育てることをしていて、「知識」とは関係のない、心の負の領域から指導しなければならないことが多いことを大変に残念に思う。
このことは、声を大にして訴えるべきことだ。
「背景」がバラ色。
BGMが心地よい。
それだけで成績を上げることはたやすい。
それだけで立派な大人になれると思う。
それこそが教育の目的のようでもある。