眠れない夜に迷い込む、ちょっと不思議なお話です。
注文を決められない人に、店番の女の子が出すのは、料理と、一冊の本のひとこと。
読み終えるころ、あなたも自分の一品を選びたくなるかもしれません。
眠れない夜は、歩くことにしている。
悩みがあるわけではない、と思う。
ただ、電気を消すと、暗い天井のあたりに、何かが浮かぶ。
かたちのない、名前もない、何か。見きわめようとすると、すっとぼやけて、それでいて、消えてはくれない。
それを眺めているうちに、目だけが、冴えていく。
だから歩く。歩いているあいだは、考えなくて済む。
その夜は、いつもより遠くまで来てしまった。
知らない角を曲がると、灯りがひとつだけ残っていた。
木の扉に、大きな硝子が嵌まっている。
その向こうに、天井まで届く本棚が見えた。手前に、小さなカウンター。
硝子の内側に、手書きの札が一枚、貼ってある。
瞳の本棚。
吸い込まれるように、押していた。
「いらっしゃい」
カウンターの中に、星と月で刺繍されたセーラー服の女の子がいた。
こんな時間に、と思ったけれど、こんな時間に歩いている私に言えたことではない。
勧められるまま、カウンターの椅子に座る。
湯呑みが、ことりと置かれた。
「まずは白湯ね。夜中の身体にはね、冷たいお水って、急ぎすぎなの」
両手で包むと、指先から、夜が少しゆるんだ。
「で、はい、メニュー」
女の子はカウンターの中からではなく、すぐ脇の本棚から、薄い一冊を抜いて差し出した。
受け取る。表紙に、手書きで「品書き」とある。
色のちがう栞紐が、七本、頁のあいだから覗いていた。
「栞、七本も」
「よく開く頁なの」
開くと、見開きに品の名が並んでいた。
どれも少しずつ変で、どれが何なのか、分からない。
視線が、列をひとつずつ降りては、隣へ移る。どこにも、とまれない。
「決められない?」
「どれが何なのか、分からなくて」
「ん。なにか、悩みごとでも?」
「……いえ。悩みとか、ないんです。ただ、眠れなくて」
女の子は、怒るでもなく、ふうん、と言った。
「じゃあ、決めなくていいよ。今夜は、あたしが選ぶから」
そう言って、その一冊を静かに閉じ、もとの段に戻した。
あたしは瞳。この本棚の、店番みたいなもの。名乗りながら、もう背中を向けて、何かを作り始めている。
・・・
最初に出てきたのは、細長いガラスの器だった。
「雨上がりのパフェ」
寒天、あんこ、クリーム、果実。層がきれいに澄んでいて、降りやんだあとの空気の匂いがした。
「匙、銀のと木の、どっちがいい?」
「……違いが、あるんですか」
「ぜんぜん違うよ。気分が」
私は、木を選んだ。
瞳は満足そうにうなずいて、本棚から一冊抜き、開かないまま、表紙に手を置いて言った。
「この棚のオーナーはね、こう言うの。雨は、やむまで雨でいい。」
匙を入れる。層が崩れて、順番に溶けた。
やまない雨に傘を探すことばかり考えていた気がする、と思った。
甘さが引いたあと、少しだけ、呼吸が深くなった。
・・・
二杯目は、珈琲だった。
「星月ブレンド」
夜空みたいに深い色で、カップの底に、店の灯りが一粒、星のように映っていた。
「そのカップね、兄が蚤の市で掘ってきたの。底に星が映るのは、この子だけ」
瞳が並べた本の背には、彼女と同じセーラー服の絵が描いてある。
「あ、これ、あたしの物語。兄が書いてるの。ちょっと照れるんだけど」
そう言って、照れたわりには迷いなく頁を開いた。
「当ててるんじゃなくて、思い出してるだけ。」
占いの本らしい。当てる、ではなくて。
カップの底の星を揺らしながら、自分の中にも、思い出されるのを待っている何かがあるんだろうか、と考えた。
考えても、分からなかった。分からないまま、もう一口、飲めた。
・・・
三品目は、両手で持つ大きさだった。
「てんびん座のハンバーガー」
持ち上げると、両手のあいだで重さが釣り合う。
瞳は今度の一冊から、短い問いを読んだ。
「その値札は、誰がつけた?」
一口かじって、手が止まった。
美味しくないのではない。ただ、今夜の私の身体が、これを欲しがっていなかった。
皿の上に戻すと、瞳は気にするふうもなく、すっと下げた。
「ん、見立てちがい。今夜のじゃなかったね」
見立て、と思った。
この子は、注文を取っているのではなくて、見立てている。
・・・
「じゃあ、こっち」
四品目は、小さな鉢だった。
三十一文字のあんみつ。みそひともじ、と瞳が言い直した。
黒蜜が、求肥の白に細く渡してある。
「千年前の人もね、眠れなかったんだよ」
今度の本は、ずいぶん古い歌の本だった。
「ながながし夜を ひとりかも寝む」
千年前の誰かが、長い長い夜をひとりで持て余している。
黒蜜は、思っていたより深い味がした。
千年、誰かがこの夜を順番に受け取ってきて、今夜は私の番らしい。
そう思うと、ひとりの夜が、少しだけ、ひとりではなくなった。
ふと、壁の時計を探した。見当たらなかった。
「あの……ラストオーダーとか、は」
「ないよ、そんなの。朝が来たら、そのまま開店しちゃうし」
・・・
五品目が置かれたとき、窓の外がいちばん暗かった。
「月光のオムライス」
卵の黄色が、皿の上で月みたいに照っていた。湯気が立っている。
瞳は、恋の歌の棚から一冊を抜いて、低い声で読んだ。
「その人の前でだけ、自分の声が少し変わる。」
匙が、止まった。
誰、というのではない。
ただ、自分の声が変わる瞬間というものを、私の身体は知っていた。知っていたことを、いま知った。
卵の温度が喉を通って、胸のあたりで、何かが浮かびかけて、沈んだ。
瞳はこちらを見ていたけれど、何も訊かなかった。
「……訊かないんですね」
「訊かないよ。それは、あたしのじゃないもん」
・・・
六品目は、小さくて、黒かった。
「真夜中のプリン」
カラメルが、皿の上で、小さな夜になって沈んでいる。
瞳が選んだのは、薄い一冊だった。火曜日のパン、と背に書いてある。
その隣の棚の隙間に、黒い封筒が一通、差してあるのが見えた。
瞳は封筒には触れず、本だけを開いた。
「動けない、ではなく、動かない。」
匙が、カラメルの黒を割った。
苦くて、甘かった。
眠れない、と私はずっと言ってきた。眠れない夜に歩く、と。
でも、本当は。
匙を持ったまま、しばらく動けなかった。
動けなかったのか、動かなかったのか、それを考え始めたら、天井に浮かんでいたものの輪郭に、初めて指がかかった気がした。
瞳は、何も足さなかった。
皿の上で、カラメルだけが静かに光っていた。
・・・
七杯目が出てきたとき、窓の藍色が、底のほうから薄くなり始めていた。
細いグラスのソーダだった。中の色が、見る角度で変わる。
朝のいちばん最初の光が硝子に触れて、色は決まらないまま、きれいだった。
「これだけ、メニューに名前がなかったでしょ」
「ええ。……何ていう飲み物なんですか」
「まだ、ないの」瞳は笑った。「名前はね、作ったひとがつけるの」
名前のないソーダを、名前のない何かを抱えた私が飲んでいる。
炭酸が、夜のあいだ胸に溜まっていたものを、小さくほどいて昇っていった。
可笑しくなって、少しだけ笑った。
たぶん、今夜はじめて。
・・・
窓が白くなった。
会計を、した。
「ちゃんと、お代は取るんですね」
「ここ、商売だもん」
瞳は、悪びれもせずに笑った。
扉に手をかけて、振り返った。瞳はカウンターの中で、グラスを拭いている。
「あの」
自分の声が、店に入ったときと少し違う場所から出た。
「てんびん座のハンバーガー、ひとつ。持ち帰りで」
瞳は一瞬だけ目を丸くして、それから、何も訊かずに包み始めた。
もう一度、財布を開いた。
温かい包みを受け取る。
なぜそれを選んだのか、自分でも全部は分かっていない。
分かっていないまま、なぜかそれを選んでいた。
扉を開けると、朝の空気が入ってきた。
「またね。眠れない夜に」
背中で、瞳の声がした。それから、独り言みたいに続くのが聞こえた。
「さて。お店を、開ける時間」
通りに出る。街が起き始めている。
包みは、両手のあいだで、ちゃんと釣り合っていた。
音声取り込み機能がないためYouTubeで1静止画のみ
♪眠れない夜は、てんびん座のハンバーガー
眠れない夜は 歩くことにしてる
悩みはないはず ただ目が冴えてく
知らない角を曲がれば ひとつだけの灯り
木の扉の硝子越し 本棚が見えた
まずは白湯ね、と 笑う店番さん
星と月の刺繍の セーラー服の子
品書きの頁には 栞が七本
どれも少し変で どれも選べない
「決めなくていいよ 今夜はあたしが選ぶから」
外れた皿は下げて 見立てちがい、って笑う
かたちのない何かに 名前はまだなくていい
ゆっくり 夜をほどいていこう
雨上がりのパフェ 星月ブレンド
三十一文字のあんみつ 月光のオムライス
真夜中のプリンは 苦くて甘い黒
それから名前のない ソーダがひとつ
てんびん座のハンバーガー 今夜は無理でも
朝になったら言えるかな 持ち帰りで、って
分からないままでいい 手が選ぶ日が来る
包みは両手で ちゃんと釣り合ってる
「決めなくていいよ いつでも棚にあるから」
効かなかった一皿も 取り置きしてあるから
窓が白んできたら 帰りぎわにひとこと
「またね 眠れない夜に」
さて お店を開ける時間
さて お店を開ける時間