③西洋的「絶対神」の排他的独善性と東洋的「人格神」の包括的多様性
「一神教」の絶対性は「集合論」的「二分法」の論理を持つ~有神論と無神論(反神論)、選民と異教徒、正統と異端といった二分法は共存できないものであり、「一神教」の絶対性から生じます。
正統と異端~「三位一体論」とは、父なる神・子なるイエス・聖霊は一体であるという考えです。アタナシウス派が唱え、325年のニカイア公会議で正統な教義と認められました。これに疑義を唱えたアリウス派は異端とされ、ローマ帝国周辺のゲルマン民族に布教していきました。
三位一体論には、イエス自身がゲッセマネの祈りで神に痛切祈祷を捧げているように、「神が自分自身に祈るのか」といった問題や、神が十字架につくという「天父受苦説」といった問題がありますが、これは「罪人を救えるのは全知全能である神のみ」という贖罪論的要請から生まれたもので、イエス自身の言説にあるものではありません。
ニカイア公会議で採択され、コンスタンティノポリス公会議で修正されたものを「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と言います。これによってイエス=神という図式が確立され、さらにイエスにおいて神性と人性はどのように統合されているのかというキリスト論の問題が起こり、カルケドン公会議において、イエスにおいて神性と人性は一体不可分という「カルケドン信条」が採択されました。かくして、このニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条を受け入れるものが正統、疑義をさしはさむのが異端とされてきました。キリスト教における正統か異端かは、実はイエスの言説に合致するかどうかではなく、宗教会議で神学的に決定されてきたのです。
ちなみに、エフェソス公会議でもキリスト論が問題となり、イエスにおける神性と人性を分離し、マリアを「神の母」ではなく、「人の母」としたネストリウス派が異端とされたので、ネストリウス派はシリアから東方に伝わり、唐代中国に至って景教(秦教)と呼ばれるようになり、大秦景教流行中国碑(大秦=ローマ)に記録されているように、祆教(けんきょう、ゾロアスター教、拝火教)、摩尼教(マニ教、明教)と共に西方伝来の三夷教として栄えます。
「三位一体論」と「キリスト論」がキリスト教を排他的独善性へと追いやった~「イエス=神」にすると宗教融和は出来なくなます。また、「父性原理」「厳愛」に対する補完作用から「母性原理」「慈愛」を代表する「マリア信仰」が生れました。
三位一体論~アレクサンドリアの司祭アリウスはオリゲネスの従属説を徹底させ、キリストの人間性を重視して神と同一視することを否定し、神の唯一性・超越を強調します。4世紀にアリウス主義が隆盛になると、三位一体論が最も激しい対立を生み出し、325年のニカイア会議において、キリストは神ではなく、「神に類似」とするアリウスが異端とされ、キリストは「神と同質」とするアタナシウスが正統とされて、三位一体論の教理が確立しました。
ニカイア信条の三位一体論はカッパドキアの三教父と呼ばれるバシリオス、ニッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスによって完成され、東方教会にも受け入れられますが、さらに381年のコンスタンティノポリス会議で、子は「生まれ」、聖霊は「出る」とするカッパドキアの教父の説が取り入れられてニカイア・コンスタンティノポリス信条が決議されました。
かくして、キリストの完全な神性についての教義確立によって三位一体論争は終息し、次にキリストにおける神性と人間性との関係というキリスト論の問題に移行します。
キリスト論~アリウスは、子は神以下の被造物であるから人間性との統合は容易であるとし、アタナシウスは、キリストは神にして同時に人間であり、両者の結合から一人格をなすと主張していました。これはアレクサンドリア学派とシリアのアンテオケ学派との間で論争となり、アレクサンドリア学派のアポリナリオスはキリストの肉体は人間の肉体であったが、霊(ヌース)は神の霊(ロゴス)であったとしましたが、これだと神性は完全に保たれても人性は部分的となり、完全な人間性を備えていないので人間を救済できないとして、コンスタンティノポリス会議で異端とされました。
一方、キリストの神性と人性を明確に区別するアンテオケ学派のネストリウスは、キリストは道徳的服従の完成した模範としてキリストの神性に対する信仰を弱め、神と人とが機械的に連結しているとすると共に、マリアに対する「神の母」という伝統的な呼称を退けたため、431年のエフェソス公会議で排斥されます。最終的に451年のカルケドン公会議で、人間の霊を持たないキリストは真に人間とは言えず、また機械的に連結しているキリストは結局神ではなく、神を背負った人間でしかないとして、アポリナリオスもネストリウスも異端とされ、キリストが「一つのペルソナ(位格)の中に二つの性質」を持つものとして両極端を排斥したカルケドン信条を決議し、キリスト論論争に一応の決着をつけます。
このニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条によって古代におけるキリスト教の教義が確立し、カトリック教会統一となります。
ローマ・カトリック~「ペテロの後継者」ローマ教皇を中心とするキリスト教の最大教派。「カトリック」は「普遍」という意味です。聖母マリア信仰を持ちますが、これは旧約の「裁きの神」の系譜と「天の父」「神のひとり子イエス」といった男性原理・父性原理に対して、女性原理・母性原理でこれを補おうとしたものと考えられています。
後にヨーロッパでプロテスタント運動が起こり、人口の3分の1を失ったため、ローマ・カトリックは失地回復の新天地としてアジアや中南米に盛んに宣教を行い、特に明・清代の中国ではカトリック系修道会であるイエズス会がイタリアの大学で近代科学を学んで、まず西学としてこれを伝え、その天文暦学・地理学・医薬学・兵器などの威力を知らしめた上で、自らを西方の儒者である西儒として、西学の背景としてのキリスト教を西教(天主教=カトリック。プロテスタントは基督教と表記します)として教えたため、爆発的に広がりました。清朝黄金時代を現出した康熙帝に至っては、自らユークリッド幾何学を学んで、皇子達に講義するほどで、キリスト教に対する理解もあり、そのまま行けば、人口1億人のキリスト教国家が誕生する可能性がありました。
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルやヴァリニャーニらもイエズス会で、セミナリオ(小神学校)、ノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)などを設置して、ラテン語、日本語、哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させており、当時の日本の人口約1,000万人のうち、40万~60万人がキリスト教徒となったとされます。やがて、ザビエルは日本人の深層心理にある中国崇拝に気がつき、中国でキリスト教が広まれば日本伝道は容易になると考えて、中国伝道に出発しますが、その途上で没します。
ところで、イエズス会が中国の祭天の儀や孔子礼拝、祖先崇拝の儀式(典礼)を尊重したのに対し、同じくカトリック系修道会であるドミニコ会やフランシスコ会が「これは偶像崇拝である」とローマ教皇に訴えたため、中国の伝統文化を真っ向から否定することとなり、「典礼問題」が発生しました。かくして、康熙帝はイエズス会以外の布教を禁止し、続く雍正帝のキリスト教の全面禁止となり、中国のキリスト教化は挫折します。キリスト教中国となる次のチャンスは、清朝末期の洪秀全による太平天国運動ですが、これも清朝の利権につられた英米軍によってつぶされ、やがて、太平天国運動に革命運動を学んだ毛沢東によって、中国は唯物無神論的共産主義の国となります。
東方正教会~ギリシア正教とも言います。ロシア正教、ウクライナ正教のように伝わった国の名前が付きますが、日本ではハリストス正教会と言います。「正教」(オーソドックス)は「正統」の意味です。
ニカイア、コンスタンティノポリス、カルケドンなど、主要な公会議は全て東方で行われているように、元々ギリシア以来の豊かな精神的伝統を持つ東方教会の方が、現実的で実際的な西方教会よりも権威がありました。この東方教会の伝統はローマ、第二のローマであるコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、ビザンチウム、現在のイスタンブル)に次ぐ第三のローマとしてモスクワを位置づけ、東ローマ帝国を継承したモスクワ大公国により、ロシア正教に受け継がれています。ロシア正教にはローマ・カトリックの制度的信仰ともプロテスタントの倫理性とも違う、素朴で情緒的な信仰があり、トルストイの童話やドストエフスキーの内面をえぐるような作品にもロシア正教の世界が伺えます。
日本ではなじみが薄いようですが、明治維新以後、プロテスタントと共にロシア正教が浸透し、ローマ・カトリック、プロテスタントに次ぐ第三教派を形成しました。ローマ・カトリックが典礼問題を起こして、その排他的独善性が問題になったのに対し、ロシア正教は鐘が無ければ寺の梵鐘を使い、乳香が無ければ線香を使うなどして、キリスト教の定着という点で画期的な成果を収めました。また、トルストイやドストエフスキーの小説を通して、文学から知識人に浸透したという特徴もあります。与謝野晶子が日露戦争で戦地に向かった弟に対する思いを歌った詩「君死に給ふことなかれ」も、トルストイが英紙「タイムズ」に発表した日露戦争批判の長大な論文への「返歌」だとされます。しかしながら、世界初の共産主義革命であるロシア革命により、ロシアからの人的供給が絶え、日本におけるロシア正教の勢力は激減します。
東洋的「自然」は「調和」「共生」の母体~「人格神」との「人格的交わり」は東洋で育まれ、「人類は一家、世界は皆兄弟姉妹」といった家庭的・家族的価値観も生じやすいのです。西洋では「神と人との断絶」「絶対なる神と塵芥に等しい人間」という神観・人間観が強く、峻烈な「正義」観が形成されやすいのですが、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教も同じ神を信じる「三兄弟」(長男・次男・三男)みたいなものなのです。
「オスマン文化の発展と成熟を支えた要因の一つは、東西交易の繁栄であった。オスマン帝国は、北のアナトリア、南のシリア・エジプトという、当時のユーラシアの東西交易の二大センターを押さえていったため、一五世紀から一六世紀後半にかけて、屈指の経済大国であった。
東西交易は、豊かな税収をもたらす。そしてこの国際貿易の重要性が、オスマン帝国を、異国からの商人・旅人たちを歓迎する開かれた帝国にしたのである。
異国から来た人々にも開かれたオスマン帝国の社会は、西欧人が創り出したイメージとは反対に、同時代の西欧と比較しても、はるかに開かれた社会であったといえよう。
近代西欧を見なれた我々にとって、西欧社会は開放的で合理的な社会だというイメージが定着している。そして、キリスト教も、合理的で寛容な宗教というイメージされがちである。これに対し、イスラム世界は閉鎖的で非合理的な社会であり、イスラムは不寛容な宗教だというイメージが強い。しかし、歴史的現実においては、少なくとも中世から初期近代までは、実態はむしろ逆であった。
中世西欧がキリスト教によって、厳しくしばられた社会だったことはよく知られていよう。しかも当時のキリスト教は、異教徒に対しては非常に不寛容であった。一一世紀末から、十字軍運動の開始と表裏をなして、外でのムスリムへの敵意は、内ではユダヤ教徒に向けられた。キリスト教徒民衆が蜂起してユダヤ教徒を虐殺する事件も見られるようになり、ユダヤ教徒を隔離するゲットーの形成も進んでいった。
一五世紀以降になると、特に、キリスト教徒によるムスリムに対する失地回復運動である、レコンキスタの進んだイベリア半島において、その動きはさらに活性化された。それまではムスリムの支配の下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒(セファルディム)も、厳しく迫害されるようになった。
この時、迫害に耐えかねたセファルディムが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。オスマン帝国も、彼らをあたたかく受け入れた。オスマン帝国臣民となったセファルディムたちの期待は、裏切られなかった。彼らは、近代に入るまで、安全な生活を楽しんだ。
ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュクに生まれ、ユダヤ人差別のことをまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。
最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリアとバルカンを中核に、現在のイランとモロッコを除く中東のほぼ大部分におよんでいた。
現在この地域は、民族紛争と宗教紛争の巣窟と化している。民族紛争のるつぼとなってしまった旧ユーゴスラヴィア、アラブ人とクルド人の抗争の場と化したイラク、宗派紛争の代表例となってしまったレバノン、そしてイスラエルとパレスチナ人の闘争の続くパレスチナ。これらはすべて、かつてはオスマン帝国の領土の一部であった。
それにもかかわらず、少なくとも前近代のオスマン帝国は、決して激しい宗教紛争・民族紛争のるつぼではなかった。確かに当時も差別と反目もあったであろう。小さな紛争もまたあったであろう。しかし、そのような火種が果てしない紛争の連鎖へと拡大していくことを、防ぎうるような仕組が成立していたのである。
それは、民族も宗教も異にする多種多様な人々を、ゆるやかに一つの政治社会の中に包み込む、統合と共存のシステムであった。
そこでは、イスラム教徒だけではなく、キリスト教徒もユダヤ教徒もが、独自の宗教を信奉することが尊重されていた。町々には、イスラムのモスクのほかに、キリスト教会やユダヤ教のシナゴーグがそびえ立っていた。
また、支配者の言葉であるトルコ語だけではなく、言語を異にする諸民族は自らの母語を使って生活し、著作し、出版することに何の差しつかえもなかった。
民族紛争と宗教紛争の活断層のような地域をおおいながら、オスマン帝国が驚くほど長期にわたって存続しえた秘密の一半は、このゆるやかな統合と共存のシステムにあった。
そのシステムがいかに優れていたものであったかは、オスマン家の支配が六百数十年も続いたことが証明している。ビザンツ帝国が一千年続いたといっても、内部では多くの王朝が交替している。
イスラム世界の歴史においても、これほどの超大国で長期に存続しえたのは、アッバース朝の五〇〇年だけである。一四世紀イスラム世界の大歴史哲学者イブン・ハルドゥーンが「国家の寿命は、通例三代一二〇年をこえない」と喝破したほどに有為転変の激しいイスラム世界では、オスマン帝国は稀有の例外となっているのである。」(鈴木董『オスマン帝国』)
参考文献:
『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)
『日本人のための宗教原論』(小室直樹、徳間書店)
『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『オスマン帝国』(鈴木董、講談社現代新書)