●いわゆる「ヒューマニズム」には「人間主義」「人文主義」「人道主義」の3つの側面があります。
「まとめて言えば、我らのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、我ら一人一人の市民は人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期すことが出来ると思う。」(ペリクレスの演説)
「人間主義」~「人本主義」「人間中心主義」とも言われます。「人間性の肯定」「生の謳歌」「理想主義」など多様な側面を持ちます。ただ、そのままでは「欲望中心主義」「本能主義」にも陥りかねず、古代ギリシアではこういった欲望・本能・感情を「理性」で制御することを理想としました。しかしながら、ギリシア神話のモチーフでは人間には如何ともし難い「運命」に挑んだり、それに翻弄される人間の「悲劇」がよく描かれているように、単なる「人間中心主義」「理性中心主義」では限界があることも事実です。キリスト教思想史でも、啓蒙思想の影響から一時期、楽観的な自由主義神学が一世を風靡したことがありますが、第一次世界大戦・第二次世界大戦という「人類レベルでの原罪の認識」に直面して、思想的に一気に深化することとなりました。かくして起きたのが「キェルケゴール・ルネッサンス」です。
【ポイント】
「人間主義」は「ニーチェ的ニヒリズム」(これは多くの若者を引きつけ、現代思想にも大きな影響を及ぼしましたが、ギリシア的運命論・悲劇的人間観そのものです)ではなく、「キェルケゴール的実存主義」(「神と我」の実存主義、あるいは内なる神たる「良心」を基とした良心的実存主義)を通過して「本物」となります。
「人文主義」~中世の「神本主義」(偏狭な教会中心主義)が人間性を抑圧し、科学的合理性を損い、現実逃避の側面も持っていたことに対し、これに反発したルネッサンスではこうした状況を打ち破る新たな範を古代ギリシア・ローマに求め、ギリシア・ローマの古典研究(人文学)から「ギリシア精神の復興」が叫ばれました。現在でもギリシア・ローマの古典は西洋における「教養」の中心的位置を占めており、「知的伝統の核」となっています。しかしながら、この結果、こうした古典語に基づく「教養」「知的伝統」は一般庶民のあずかり知らぬ所となったことも事実です。これに対して、同じく「古(いにしえ)」に範を求める「東洋の教養」では「歴史」や「詩歌」が中心となっており、これらは小学生でも学び、暗唱するものとなっています。また、ギリシア精神が著しく「個人主義」的で、これはヘレニズム時代に至って強化され、近代思想に至っては確固たる原理になってしまいました。キリスト教的実存主義でも「神と我」「我と他者」といった段階からいきなり「我と社会」に行ってしまい、「親を通して神の愛を知る」「子を通して神の痛みを知る」「夫あるいは妻を通して神と出会う」といったいわゆる「家庭的実存主義」は確立されていません。これに対して、東洋の伝統では「人倫」(親子、夫婦、兄弟姉妹といった人間関係の在り方)が重視され、「真情」「深情」「志」が尊ばれるなど、「家庭主義」「心情主義」的内容となっています。
【ポイント】
「人文主義」は「東洋の教養」(歴史、詩歌)や「東洋の伝統」(家庭主義、心情主義)を融合してこそ「生きた物」(誰にでも分かる当たり前の真理、ためになる話)となります。
「人道主義」~英語ではhumanismよりもむしろhumanitarianismと表現されますが、日本語では「ヒューマニズム」を「人道主義」ととらえることが多いでしょう。理性に基づく理想の実現を目指したフランス革命において、自由・平等・博愛の3つがスローガンとして掲げられたように、「博愛主義」は「理想主義」の延長にあるものです。まさにプラトン思想の中心概念イデアideaの追求こそが、イデアリズムidealismに他なりません。ただし、中世「神本主義」→近世「人本主義」→近代「物本主義」という流れの中で、究極の「唯物無神論」として登場した「共産主義」に対してすら、戦争に反対して投獄されたとか、権力批判や弱者救済を訴えているなど、「人道主義」的評価(実際、戦前の「共産主義者」は正真正銘のマルキストというよりは単なる唯物論的ヒューマニストが多かったのです)がなされたりするので、注意を要します。フランスの権威ある雑誌『ル・フィガロ』1978年11月18日号によると、たくさんの人をギロチン台に送ったフランス革命の流れを汲むロシア革命以来、わずか60年で、共産主義によって1億5000万人の人々が殺されたと言われるので、その非人間性は明らかです。これは、「社会正義」の実現においては、資本家や搾取する人々を憎悪し、彼らの「人権」「人間性」を顧慮することがなかったため、暴力革命が肯定されたからです。プラトン思想でも知情意が調和した個人の理想状態を「正義の徳の実現」としましたが、「理想主義」の持つ「正義」(こうあるべきだという基準)論は、その「正義」の実現を阻むものに対する「憎悪」やそれを受け入れない者に対する「排除」を伴いやすいのです。こうした傾向は宗教的狂信主義にも多分に見られるもので、相手の思想・信教の自由を無視した「客観主義」を指します。逆に相手の思想・信教の自由を尊重する立場を「主観主義」と言います。
【ポイント】
「人道主義」は「主観主義」(相手の思想・信教の自由の尊重)に基づく「共生・共栄主義」でなければ、「憎悪」の感情に根ざした「正義」論をふりかざす「客観主義」(客観的正義を他者に押し付ける)に陥りかねません。
●コスモポリタニズムは「世界市民主義」ですが、実際は「荒野にたたずむ個人主義」に近いのです。
「世界市民主義」~アレクサンダーによってギリシアの「ポリス」(都市国家、独立共同体)世界とペルシアに代表される専制君主的「オリエント」世界が融合した結果、ヘレニズム文明が誕生し、個人が個々の所属「ポリス」を超えて「世界」の中に立つ「コスモポリタン」(世界市民)という考えが出てきました。この魅力は御し難く、カント以来、盛んに叫ばれてきた「世界国家」「世界帝国」「世界連邦」などもこの発展型です。市場経済に根ざした「グローバリズム」にも似た所がありますが、いわゆる「世界主義」が「政治」に基づく「上」からの一体化であるのに対し、こうした「国際主義」は国家・企業・個人がプレイヤーとなる普遍市場主義であり、「経済」に基づく「下」からの一体化であると言ってよいでしょう。ちなみにEU(欧州連合)の場合、「市場統合」(1993年完成)→「通貨統合」(1999年完成)→「政治統合」(今後の課題)の三段階を経て完成されますが、これを「グローバリズム」(地球規模の市場の実現)→「インターナショナリズム」(「国際法」の発達、国家の主権譲渡)→「コスモポリタニズム」(「世界法」に基づく「世界裁判所」、NGOやNPOといった国家以外の構成要素も持つ「世界議会」、「世界軍」「世界警察」を伴った「世界政府」が必要となります)になぞらえると、EUもそうであるように、第二段階の途中で困難が生じ、第三段階への移行に至ってはどれだけ時間がかかるか分かりません。したがって、ヘレニズム時代においても「都市国家」を超えた「世界国家」が十分できていないまま、いきなり「個人」が「世界」に投げ出されてしまったので、いきおい「個人主義」にならざるを得ず、しかも「国家」の庇護なき「荒野にたたずむ個人主義」となってしまったのです。
【ポイント】
「コスモポリタニズム」の実現は「インターナショナリズム」の充実を土台としてなされます。例えば、今日の国際情勢では「国際連盟」→「国際連合」→「世界連邦」という構想が打ち出されていますが、その実現のためには「国際連合」の整備、成熟が必要不可欠のプロセスとなります。