蘭学:江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学問・文化・技術の総称。幕末の開国以後は世界各国と外交関係を築いたため、「洋学」の名称が一般的になりました。蘭学者の先駆的存在としては西川如見がおり、著書に長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』があり、ヨーロッパの天文学にも深い関心を寄せています。さらに8代将軍徳川吉宗は洋書の禁を緩め、青木昆陽と野呂元丈に蘭語習得を命じており、青木はオランダ語の辞書や入門書を残し、野呂は図鑑の抄訳を著していますが、この2人は共に「蘭学の先駆者」と呼ばれ、後に書かれた杉田玄白の『蘭学事始』においても2人の功績が記されています。
杉田玄白:江戸中期の蘭学者・蘭方医、『蘭学事始』(らんがくことはじめ)。前野良沢(まえのりょうたく)らとドイツ人クルムスの解剖医学書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚き、これを翻訳して『解体新書』を刊行し、日本の蘭学発展に多大な影響を及ぼしました。晩年には翻訳のいきさつや苦労を『蘭学事始』にまとめています。
三浦梅園:『玄語』。天文学に関心を持ち、遊学先の長崎で西洋の自然科学的知識を積極的に受容しました。懐疑的態度から世界のあり方を問い、気や理などの朱子学の用語を用いて自然に備わった「条理」を探求し、条理学を構築しました。
条理:天と地、陰と陽、動物と植物というように、あらゆる存在は対立する概念を持ち、1つに全体はその対立する2つの部分から成り立つという筋道。
反観合一(はんかんごういつ):分かれた2つの部分の統合として全体を捉える方法。
帆足万里(ほあしばんり):豊後国日出藩家老として財政改革に成功したのみならず、三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人とされます。自然科学、特に物理的な知識をまとめた『窮理通(きゅうりつう)』は日本における自然科学史に画期的な文献とされ、明治年間にオランダのフルベッキが『窮理通』の説を聞き、江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたと言います。
渡辺崋山:三河国田原藩家老、蘭学者のリーダー的存在にして文人画家、『慎機論』。江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まった勉強会「尚歯会(しょうしかい)」を高野長英らと共に主導し、「蘭学にて大施主」(藤田東湖)と呼ばれたほどですが、日本来航を企図したモリソン号を幕府が異国船打払令により砲撃したこと(モリソン号事件)を批判して『慎機論』を著したことがきっかけで、蛮社の獄で自殺に追い込まれます。画家としては、中国王維を源流とする南宗画の流れを引く南画の谷文晁(たにぶんちょう)らに学び、さらに洋画の陰影を施した筆運びや遠近法などを取り入れて、独自の画風を確立しています。
シーボルト:オランダ商館医として長崎出島に赴任したドイツの医師・博物学者。長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴らに講義をし、論文を書かせ、日本で初めてのドクトルの称号を授与しています。帰国の際に幕府禁制の日本地図を所持していたとして、国外追放処分となります(シーボルト事件)。
高野長英:鳴滝塾のエース。モリソン号事件を批判して『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著したため、蘭学者の弾圧である蛮社の獄で自殺に追い込まれます。
二宮敬作:日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られ、『ライプツィヒ版ドイツ百科事典』に日本人としてはただ一人だけ「日本の俊才、二宮敬作伝」と記されています。
伊藤玄朴:天然痘の予防接種である種痘法を実施して近代医学の祖とされ、官医界における蘭方医の地位を確立したとされます。種痘所頭取に適塾(適々斎塾、大阪大学の前身)を開いた緒方洪庵を推挙しています。
適塾の三傑:大村益次郎、橋本佐内、福澤諭吉。適塾25年の歴史で3千人の入門者があったとされますが、その筆頭に挙げられる3人です。大村は日本陸軍の創設者、橋本は福井藩の名君松平春嶽のブレーン、福澤は慶應義塾の創設者です。