お坊さんでも、大切な人の死は悲しい

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コラム
父が亡くなった時、私は最期に会うことができませんでした。
訃報を知らされたのは、父が息を引き取ってからしばらく経った後のことでした。
慌てて駆けつけましたが、父はすでに葬儀場へ向かうところで、その姿を見ることは叶いませんでした。
後から聞いた話では、日付が変わる頃に容態が急変し、家族は病院へ駆けつけ、午前1時頃に亡くなったそうです。
そして私に連絡があったのは、その更に後でした。
なぜその時に連絡をくれなかったのか。
なぜ私だけ父の最期の場にいなかったのか。
母や兄への複雑な思いが湧き上がり、自分の生い立ちまで恨めしく感じました。
けれど、それ以上に大きかったのは父への後悔でした。
もっと話したかった。
もっと会いたかった。
もっと親子として過ごしたかった。
何かしてあげたかった。
そして、自分でも意外だったのは「甘えたかった」という気持ちでした。

私はこれまで、一人で子どもを育て、仕事をし、何とか生きてきました。
誰かに頼るより、自分で何とかすることばかり考えてきたように思います。
それでも心のどこかでは、父に甘えたかったのです。
認めてもらいたかったのかもしれません。
話を聞いてほしかったのかもしれません。
その機会が永遠になくなってしまったのだと思うと、悲しみがあふれました。
娘や息子に気付かれないよう、シャワーを最大限に出して声を隠しながら泣きました。
ただただ泣きました
葬儀.png

お坊さんをしていると、

「死を受け入れられるのでしょう」
「悲しみを乗り越えられるのでしょう」
と言われることがあります。

それが故に心無い対応をされることもあります。
(これは、そのうちに書きます)
確かに、人は必ず死を迎えることを知っています。
父が亡くなったという事実も受け入れています。
けれど、受け入れることと悲しくないことは違います。
大切な人の死は、お坊さんであっても悲しいのです。

仏教には「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉があります
愛する人と別れなければならない苦しみ
これは誰にも避けることのできない苦しみだと説かれています。

つまり、悲しむことは弱さではありません。
人として自然なことなのです。
むしろ、悲しいということは、それだけ大切な存在だったということ。
涙が出るのは、それだけ愛していたということです。

私自身、父の死を受け入れていないわけではありません
けれど、父に対する思いはたくさん残っています。
もっと話したかった。
もっと会いたかった。
もっと親子として時間を過ごしたかった。

その思いは今も消えていません。
そして、消さなくていいのだと思っています。

仏教は「悲しみをなくしなさい」とは教えません。
悲しみを抱えながらも生きていくこと。
その中で故人を思い、感謝し、ご縁を大切にしていくこと。
それもまた供養なのだと思います。

もし今、大切な人を亡くして悲しんでいる方がいたら、お伝えしたいことがあります
無理に元気にならなくていい。
無理に前を向こうとしなくていい。
悲しい時は悲しんでいい。
泣きたい時は泣いていい。
その涙は、あなたがその人を大切に思っていた証だからです。
悲しみがあることは、決して悪いことではありません。
私もまだ父を思い出して泣くことがあります。
それでもいいのだと思っています。

大切な人を愛したからこそ生まれた悲しみなら、その悲しみもまた大切に抱えて生きていきたいと思うのです。
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