私たちは日常の中で、無意識にたくさんのことを判断しています。
「これは正しい」
「それは間違っている」
「あの人の考え方はおかしい」
「普通ならこうするはず」
もちろん、社会の中で生きていく以上、ルールや倫理観は必要です。
でも、自分の中の「正しさ」が強くなりすぎたとき、それが自分自身を苦しめることもあるのではないでしょうか。
この世界には「両極」がある
私たちが生きている世界には、たくさんの対になるものがあります。
光と影。
昼と夜。
暑さと寒さ。
喜びと悲しみ。
出会いと別れ。
そして、
生と死。
片方だけを切り離して存在させることは、とても難しいものです。
光を知っているから影がわかり、喜びを知っているから悲しみがわかる。
「正しい」という基準を作れば、その反対側には自然と「間違っている」という基準も生まれます。
「正しさ」が苦しみを作ることがある
誰かの言動に腹が立ったとき、
「あの人は非常識」
「普通そんなことしない」
「どう考えても間違っている」
と思うことがあります。
そんなとき、少しだけ自分の内側を見てみる。
私は何を「当たり前」だと思っているんだろう?
そこには、自分がこれまで生きてきた中で身につけた価値観や常識、信念があるかもしれません。
それ自体が悪いわけではありません。
ただ、それを「絶対に正しいもの」にした瞬間、その基準から外れた人が「間違った人」に見えてしまいます。
そして、その人を変えようとすればするほど、自分自身が怒りや苦しみの中に入ってしまうことがあります。
正しいか間違いかを、すぐに決めなくてもいい
では、自分の価値観を全部捨てればいいのでしょうか。
私はそうは思いません。
大切なのは、
「私は今、この人を間違っていると判断しているんだな」
と気づくこと。
すぐに相手を変えなくてもいい。
自分を責めなくてもいい。
ただ、自分の中に起きていることを眺めてみる。
空に浮かぶ雲を見るように、
「ああ、今私は怒っている」
「私はこうあるべきだと思っているんだ」
「だから、この人の行動が許せないんだな」
と気づいてみる。
それだけで、感情との間にほんの少し距離が生まれます。
中庸とは「どちらでもいい」ではない
私は「中庸」という考え方が好きです。
中庸というと、
「何でもどっちでもいい」
「善悪を判断してはいけない」
という意味に聞こえるかもしれません。
でも、そうではないと思っています。
危険なことから離れることも必要ですし、誰かを傷つける行為を受け入れる必要もありません。
それでも、
自分の考えだけが世界の唯一の正解ではない
という余白を持っておく。
右か左か。
白か黒か。
正しいか間違いか。
どちらか一方に強くしがみつかず、その間にあるものも眺めてみる。
それが中庸なのではないでしょうか。
生と死もまた、私たちが生きる世界にある
グリーフケアに関わっていると、「生」と「死」について考えることがあります。
私たちは当然、生を望みます。
そして死を「起きてほしくないもの」として遠ざけようとします。
けれど、生きている以上、いつか必ず死は訪れます。
生が正しくて、死が間違っているのではありません。
生と死は、ひとつの命の中に存在する両極なのかもしれない。
そう考えるようになってから、私は「死」を以前とは少し違う角度から見るようになりました。
大切な人を失った悲しみが消えるわけではありません。
悲しいものは悲しい。
会いたいものは会いたい。
それでも、悲しみを「なくさなければならないもの」にしなくてもいい。
悲しみと喜び。
喪失と愛。
生と死。
どちらかだけではなく、両方を抱えながら生きていくこともできるのだと思います。
判断する前に、少しだけ眺めてみる
もし今日、誰かに対して、
「どうしてそんなことするの?」
「絶対に間違っている」
と思うことがあったら、一度だけ自分に聞いてみてください。
「私は今、何を正しいと思っているんだろう?」
相手を許す必要はありません。
自分の考えを捨てる必要もありません。
ただ、自分の中にある「正しさ」に気づいてみる。
それだけで、これまで「許せない人」にしか見えなかった相手が、少し違って見えることがあります。
人生には、白でも黒でもない場所がたくさんあります。
どちらかに決めなくてもいい。
どちらかを否定しなくてもいい。
両極の間にある静かな場所から、世界を眺めてみる。
そこに、心を少し自由にしてくれる場所があるのかもしれません。
今日も、自分にも誰かにも、少しだけ余白を。