ある女性がいた。
名前は『佳奈』
特別な人ではない。
どこにでもいる、ひとりの妻であり、母であり、
ただ「家族を大切にしたい」と思っていただけの人だった。
朝。
「挨拶は、俺が仕事行ってる間に死んどけ」
それが、彼の「おはよう」だった。
夜。
玄関のドアが開く音が、恐怖の合図になる。
「まだ生きてたんか」
笑いながら言うその声に、心が凍る。
食卓に出したご飯を、彼は一瞥した。
「こんなまずいもん、食えるか」
おかずも、ご飯も、味噌汁も、ひとまとめに床へ叩きつけられた。
器が割れる音が、胸の奥で響いた。
『何がいけなかったんやろ。』
『私、どこで間違えたんやろ。』
母が亡くなったあと、佳奈を守る人はもう誰もいなかった。
ただ、生きているだけで、罪を問われるような毎日。
息をしているのに、息ができない。
一睡もできない。
普通のことが、こんなに体力を
使うんだって始めて知った。
それでも、どこかで声がした。
「佳奈、生きなさい」
その言葉が、暗闇の中で唯一の光だった。
けれど、外での彼は、まるで別人だった。
愛想よく笑い、誰にでも感じよく接する。
その姿を見た友人たちは、
「そんなこと言う? あんなに感じのいい旦那さんが?」
と信じてくれなかった。
言葉を失い、誰にも助けを求められなかった。
けれど、ただひとり
DV相談員さんだけは、私の話を最後まで聞いてくれた。
「それは、DVです」
静かに、でも確かにそう言ってくれた。
その一言で、
「壊れていたのは、私じゃなかった」
と気づけた。