プロセという生き方

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法律・税務・士業全般
プロセという言葉が好きだ。それを呟く時、裁判官の元で判決文を書いていた日々が蘇る。「またプロセよ」。秘書のリズがファイルを手渡しながら言う。中の書類には鉛筆書きの文字がぎっしりと詰まっている。目をこらして読み進むうちに原告の声が高らかに聞こえてくる。「公民権法第7編における人種差別であるとして訴える」。

プロセ(Pro Se)とはラテン語でon behalf of oneselfという意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語でもある。弁護士が悪徳だのと何だのと悪態をつきながら、なおかつ弁護士への依存心が強い。それが私のアメリカ人観だ。そんな中で敢えて弁護士に背を向け、独力で法の世界に挑むプロセ達もいるのだ。

私の同僚はプロセを敬遠しがちだった。弁護士が作成した書類とは異なりプロセの書類は読みにくい、或いは法的議論の的が外れているといった諸々の理由からである。その一方で、「専門家顔負けの議論力だ」と舌を巻かせるプロセ達がいたのも事実だ。

訴訟の世界を去ってから、私はプロセなる言葉に別の視点から愛着心を抱くようになった。日本での女性起業家の増加について読むたびに、実は彼女達だってプロセじゃないかと愉快に思うのだ。

昨今の日本でも、組織のしがらみを拒み独り立ちをする女性は氷山の一角に過ぎず、それをはるかに上回る数の「職場の花」がオフィスの隅で溜息をついているのだろう。それでも過去に比べれば、カイシャという組織に見切りをつけ独力で生きる選択をする女性が増えたのは確かだ。彼女達は、「弁護士なんて必要ないさ」と自力で道を拓こうとする原告達と共通点があるように思えてならない。

そして忘れてはならないのは、親という名のプロセである。子育てほど、「我が道を行く」という気概が必要とされる役目も無いだろう。「子供を預けて働くか」にしろ、「受験をさせるか」にしろ、それぞれの岐路に十人十色の意見が飛び交い、いかなる選択をしても必ず批判をする人達がいる。

最終的には、我が子を誰よりも知り誰よりも愛する親自身が、最良と信じる道を選び取って歩んでいくしかない。子供を明るい未来へと導こうとする時、要求されるのは優しさよりもむしろ凛とした強さである。

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