初めて手にした定期券に誇らしささえ感じた12歳の春。あの日を皮切りに電車通学の日々が始まった。車内も一つの小さな社会であり、おのずから人間観察の機会もあれば新しい出会いもあった。だが私がこよなく愛していたのは車窓越しに眺める景色である。夕暮れ時の商店街。線路沿いの道に並ぶ自転車。ベランダにはためく洗濯物。絵葉書を飾るような美しい景色とはかけ離れた日常の風景に心を惹かれた。
もう10年以上も日本に足を踏み入れていない私は、それだけの期間、電車にも乗っていないことになる。(アムトラックに乗ったことはあるが、あれは異なるものとしか思えない。) それでも悲しい時には、心の中で切符を買い小さな旅に発つことにしている。プラットホームへと続く懐かしい階段を上り、やつれた表情で週刊誌を読むサラリーマンや、流行の服に身を包んだ女子大生の傍に立つ。やがて各駅停車が滑り込む。ドア近くの手すりにもたれて立ち、ガラス越しに広がる世界を見つめる。
そこには無数の物語が眠っている。あの団地で洗濯物を取り込む主婦は、夫と子供の世話だけで人生が終わるのかと溜息を洩らしているかも知れない。あの雑居ビルの一角にある事務所では、ネクタイを緩めた中年男性が窓際に立ち、子供を連れて家を出た妻に電話をかけようかと思いあぐねているかも知れない。そして踏切の前でコートの襟を立てる青年は、不採用通知が溜まる中、今日も失敗に終わった就職面接に落胆し、そろそろ郷里へ帰ろうかと自問自答を繰り返しているかも知れない。
やがて主婦は家族の好物である炊き込みご飯を作る為に台所に立つ。中年男は受話器を握り締めながら、息子が興奮気味に語るサッカーの試合について聞き入る。そして青年はアパートに帰り、母から届いた宅急便を開く。それぞれの主人公が、時には唇を噛んだり涙をこらえたりしながらも、ドラマに欠ける日常の中で拾い集めたささやかな喜びや感動を後生大事にポケットにしまい込んでは明日への希望へと繋ぎ、人生という名の旅を続けているのだ。
悲しみに心を覆われる時、私はつい自分を悲劇の主人公に見立て自作自演をしてみたい誘惑にかられる。そんな自分の肩をそっと叩くように、「旅に出ようか」と心の中で呟く。薄明るい改札口を抜けて現実の世界に戻る頃には、少しだけ、そう、ほんの少しではあるけれど悲しみが薄らいでいるような気がするのだ。いつかは我が子も親には打ち明けられない悩みを抱え、自室に閉じこもり涙を流す日が来るのだろう。そんな時は敢えてドアをノックしようとはしない。でも遠くから祈るように呟きたい。「電車に乗ろうよ」と。母として、人生の先輩として。
追伸:もう何年も前に書いたエッセイが出てきました(笑)。