そんなある日——。
店では珍しく、大規模な貸切パーティーが開かれていた。
地元の有力者ばかりが集まる特別な夜。
こういう日は、新しい客に顔を覚えてもらう絶好のチャンスでもある。
美月は鏡の前で笑顔を作ると、フロアへ向かった。
『今晩は』
席についた瞬間、相手の顔を見て思わず声を上げた。
『あっ……先生!』
『やっぱりそうだ』
川崎先生が嬉しそうに笑った。
『マンションを案内した美月ちゃんだよね』
『そうです。びっくりしました』
『いやあ、こっちのほうが驚いたよ。こんな豪華な店で働いていたなんて』
『先生こそ。夜のお店とか来るんですね』
『ほとんど来ないよ。仕事ばかりでね。設計屋なんて貧乏暇なしだ』
川崎先生は気取ったところがなく、一緒にいると不思議と安心できた。
『またいらっしゃる時は、美月を指名でお願いしますね』
『ははは、営業上手だな』
先生は目を細めながら、美月の話をずっと楽しそうに聞いていた。
それから川崎先生は、いつしか店の常連になった。
美月だけではなく、蘭子ちゃんや麻衣ちゃんも指名してくれた。
仕事帰りに食事へ行き、深夜にはバークレーへ流れる。
先生はいつも静かに笑っていた。
まるで、自分だけ時間の流れが違う人みたいだった。
『女性とこうやって飲むこと、今までほとんどなかったからさ』
先生は照れながら言った。
『なんだか青春を取り戻したみたいだよ』
一枚のマンション広告。
たったそれだけの偶然から始まった出会い。
けれど今思えば、あれは偶然なんかではなかった。
その年の夏——。
写真週刊誌『F』で、“銀座のママ特集”が組まれた。
それが、美月の人生を動かすきっかけになる。
今日は年に一度の夏祭りイベント。
浴衣姿の女性たちで店内は華やぎ、男たちはみな上機嫌だった。
『先生来てくれて助かったぁ。今週ノルマ厳しくて大変なの』
『いやあ、美月ちゃん浴衣似合うな』
『また適当なこと言って』
『本当だよ。特に素足が色っぽい』
『もう、酔ってるでしょう』
二人で笑っていると、先生が一冊の週刊誌をテーブルへ置いた。
『今日ね、これを見せたくて来たんだ』
『え? なになに』
ページをめくった瞬間、美月は息をのんだ。
そこには、艶やかな着物姿の女性。
“銀座の名門クラブを率いるママ”
そんな文字が並んでいた。
『綺麗……』
思わず漏れた。
『実は、その人——俺の姉なんだ』
『えっ!?』
美月は先生の顔を二度見した。
『ほんとに? 全然似てない』
『よく言われる』
先生は少し寂しそうに笑った。
『うちは複雑でね。子供の頃に両親が離婚したんだ』
『……』
『姉とはずっと離れて暮らしてた。だから銀座でママをやってるなんて、この週刊誌を見るまで知らなかった』
先生は記事を静かに見つめていた。
『苦労したんだろうな。今も母親の面倒を見ながら頑張ってるらしい』
その横顔は、どこか誇らしそうでもあり、遠い人を見つめるようでもあった。
『いいなぁ……銀座』
気づけば、美月はぽつりと呟いていた。
『私、一度も行ったことないんです』
『俺もないよ』
『でもなんか特別な響きがありますよね』
銀座。
その言葉だけで、胸が少し熱くなる。
『先生、今度東京行くんですか?』
『ああ。一回、姉に会ってみようと思ってる』
『じゃあ、銀座どんな所か見てきてくださいよ』
『興味あるの?』
『あります』
美月はグラスを見つめながら小さく笑った。
『最近、この店にいると苦しくなるんです』
『苦しい?』
『女同士の争いとか、足の引っ張り合いとか……。売上、順位、指名争い。みんな目の色変えてる』
少し疲れた声だった。
『そんなの、どうでもいいって思うのに』
先生は黙って聞いていた。
『わかった』
しばらくして先生が笑った。
『姉に会ったら、銀座がどんな場所か聞いてくるよ』
その言葉に、美月は少しだけ胸が軽くなった。
まるで遠くに、小さな光が見えた気がした。