『ペペルモコ』に移って、半年が過ぎた頃だった。
開店前の静かな店内で、いつものように掃除をしていると、
扉が控えめに開いた。
振り返ると、見知らぬ女が立っていた。
少しふくよかな体。
どこか場違いな、疲れ切った顔。
そして――背中には、赤ん坊。
『すみません……ちょっと、いいですか?』
その声には、頼る場所を失った人間特有の、かすれがあった。
『はい?どうされました?』
『ここ……人、募集してませんか?』
言い終わる前に、その女はその場に崩れるように座り込んだ。
ただ事じゃない。
慌てて水を差し出すと、両手で掴むようにして、一気に飲み干した。
『ああ……おいしい……』
その一言が、妙に重かった。
『昨日から……何も食べてなくて……もう限界』
思わず言葉を失った。
『赤ちゃんは……?』
『この子は母乳だから……なんとかね』
なんとか、なんて顔じゃなかった。
『お母さんが食べてないのに、出るわけないでしょ』
少し強く言った自分に、少しだけ安心した。
女は、小さく笑った。
『私ね、幸子っていうの。幸せの“幸”に、子供の“子”
……なのに、全然そんな人生じゃないの』
その笑いは、笑っていなかった。
話を聞けば、逃げてきたのだという。
北海道で出会った年上の男。
急な結婚。
そして、崩れた生活。
仕事を失った男は酒に溺れ、
やがて手を上げるようになった。
『怖くて……逃げてきたの』
その一言だけで、全部わかった。
頼った姉の家にも、入れてもらえなかった。
行き場がない。
金もない。
ただ、子どもだけを背負って、ここに来た。
——どうしてこの店に?
そんなこと、聞く気にもなれなかった。
その時、赤ん坊が泣き出した。
幸子は何の迷いもなく服をはだけ、
その場で授乳を始めた。
命を繋ぐ行為が、こんなにもむき出しで、こんなにも静かなものだとは知らなかった。
背後に気配を感じて振り向くと、
店長が立ち尽くしていた。
何も言えず、ただ目を逸らした。
その夜、幸子は店の2階で眠ることになった。
物置のような空間を片付け、
私の部屋から布団を運び込んだ。
それが、この店と幸子の関係の始まりだった。
次の日から、彼女は店に立った。
素人なのに、不思議と人を惹きつける。
無理をしている明るさ。
それでも、嘘じゃない笑顔。
その奥にあるものを、誰もまだ知らなかった。
やがて、店の空気が少しずつ変わっていった。
客が増えた。
笑い声が増えた。
そして気づけば、
2階にはもうひとつの“家族”ができていた。
鍋を囲み、
くだらない話で笑い、
赤ん坊の泣き声すら、日常になっていく。
それは、ほんの一瞬だけ許された
穏やかな時間だったのかもしれない。
そんなある日。
『幸ちゃん、この後どこか行かないか?』
常連の西田さんが、照れくさそうに言った。
幸子は一瞬だけ、女の顔になった。
『行きたいけど……この子がいるからね』
『たまにはいいじゃない』
美月が思わず口にしていた。
『私が見るよ』
その一言で、何かが動いた。
『……ほんとに?』
その目は、少しだけ揺れていた。
『たまには、違う空気も吸いたいよね』
その夜。
幸子は、久しぶりに
“母親じゃない時間”を手に入れた。
けれど——
その選択が、
何を連れてくるのか。
この時の私たちは、まだ知らなかった。