【連載小説】第51話 転がり込んできた命

記事
小説

『ペペルモコ』に移って、半年が過ぎた頃だった。

開店前の静かな店内で、いつものように掃除をしていると、
扉が控えめに開いた。

振り返ると、見知らぬ女が立っていた。
少しふくよかな体。
どこか場違いな、疲れ切った顔。

そして――背中には、赤ん坊。

『すみません……ちょっと、いいですか?』

その声には、頼る場所を失った人間特有の、かすれがあった。

『はい?どうされました?』
『ここ……人、募集してませんか?』

言い終わる前に、その女はその場に崩れるように座り込んだ。
ただ事じゃない。

慌てて水を差し出すと、両手で掴むようにして、一気に飲み干した。

『ああ……おいしい……』
その一言が、妙に重かった。

『昨日から……何も食べてなくて……もう限界』
思わず言葉を失った。

『赤ちゃんは……?』

『この子は母乳だから……なんとかね』
なんとか、なんて顔じゃなかった。

『お母さんが食べてないのに、出るわけないでしょ』
少し強く言った自分に、少しだけ安心した。
女は、小さく笑った。

『私ね、幸子っていうの。幸せの“幸”に、子供の“子”
……なのに、全然そんな人生じゃないの』

その笑いは、笑っていなかった。

話を聞けば、逃げてきたのだという。
北海道で出会った年上の男。

急な結婚。

そして、崩れた生活。

仕事を失った男は酒に溺れ、
やがて手を上げるようになった。

『怖くて……逃げてきたの』

その一言だけで、全部わかった。

頼った姉の家にも、入れてもらえなかった。
行き場がない。
金もない。

ただ、子どもだけを背負って、ここに来た。

——どうしてこの店に?
そんなこと、聞く気にもなれなかった。

その時、赤ん坊が泣き出した。
幸子は何の迷いもなく服をはだけ、
その場で授乳を始めた。

命を繋ぐ行為が、こんなにもむき出しで、こんなにも静かなものだとは知らなかった。

背後に気配を感じて振り向くと、
店長が立ち尽くしていた。

何も言えず、ただ目を逸らした。

その夜、幸子は店の2階で眠ることになった。

物置のような空間を片付け、
私の部屋から布団を運び込んだ。

それが、この店と幸子の関係の始まりだった。

次の日から、彼女は店に立った。

素人なのに、不思議と人を惹きつける。
無理をしている明るさ。

それでも、嘘じゃない笑顔。

その奥にあるものを、誰もまだ知らなかった。

やがて、店の空気が少しずつ変わっていった。
客が増えた。
笑い声が増えた。

そして気づけば、
2階にはもうひとつの“家族”ができていた。

鍋を囲み、
くだらない話で笑い、
赤ん坊の泣き声すら、日常になっていく。

それは、ほんの一瞬だけ許された
穏やかな時間だったのかもしれない。

そんなある日。
『幸ちゃん、この後どこか行かないか?』
常連の西田さんが、照れくさそうに言った。

幸子は一瞬だけ、女の顔になった。

『行きたいけど……この子がいるからね』

『たまにはいいじゃない』
美月が思わず口にしていた。
『私が見るよ』
その一言で、何かが動いた。

『……ほんとに?』

その目は、少しだけ揺れていた。

『たまには、違う空気も吸いたいよね』

その夜。
幸子は、久しぶりに
“母親じゃない時間”を手に入れた。

けれど——
その選択が、
何を連れてくるのか。
この時の私たちは、まだ知らなかった。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら