【連載小説】第48話 こずえの誤算
記事
小説
ほろ酔いの空気が、
一瞬で変わった。
こずえは、ふいに真顔になり、
川上の手を取った。
『お願い』
その声は、甘くて、
逃げ場がなかった。
『今日見たお店……どうしても手に入れたいの』
『そのために——
少しだけ、力を貸してほしいの』
沈黙。
『……いくらだ?』
『500万』
空気が止まる。
『何も全部じゃなくていいの』
『ちゃんと返すから』
その言葉は、
軽すぎた。
『……すぐには無理だ』
川上の声が、わずかに硬くなる。
『女房が財布を握ってる』
現実の壁。
『社長でしょ?』
その一言で、
関係のバランスが崩れた。
『……少し時間をくれ』
『2、3日でいい』
『分かったわ』
こずえは笑った。
けれどその笑顔は、
もう冷えていた。
『今日は帰って』
その言葉に、
わずかな苛立ちが混ざる。
川上は、何も言えず部屋を出た。
——その夜。
自宅のドアを開ける。
暗い。
静まり返った空間。
『ただいま』
返事はない。
『……いるのか?』
その瞬間。
『よくも……』
低く、震える声。
『よくも、私を騙してくれたわね』
暗闇の中から、
妻が現れた。
『何の話だ』
『とぼけないで』
『500万の話よ』
血の気が引く。
『……なぜそれを』
『全部、聞いたわ』
その一言で、
すべてが終わった。
でも川上はまだ何かにすがりたかった。
『何か誤解しているようだな』
『あなたの声は全部聞こえてたのよ』
沈黙。
『こずえって女、愛人なんでしょ?』
言い逃れは、もうできない。
『違う……違うんだ!』
『お店の話を持ちかけられただけだ』
言葉が、軽い。
『返すって言ってたよ』
『そんなの、信じるの?』
妻の声は、
静かに、鋭かった。
『明日、お父さんに話すわ』
『このままじゃ、済まないから』
ドアが閉まる。
重い音が、部屋に残る。
川上は、その場に崩れた。
すべてが、遅すぎた。
——後になって分かったこと。
あの夜の電話。
受話器は、完全には切れていなかった。
わずかに残った“線”が、
すべてを繋いでいた。
疑っていた妻は、
ただ静かに、聞いていた。
——そして、すべてを知った。
それは偶然のようでいて、
どこか必然だったのかもしれない。