萌は母親の愛情を一身に受けて利発で明るい子供に育っていた。
雅子もいろんな意味で大人の女性へと変貌を遂げ
櫻木との関係もある程度、距離を保ちつつ切れないようにと努めていた。
櫻木は何と言っても生活の全てを援助してくれる大事なスボンサーだ。
愛情は感じないが稀に萌の育て方に文句を言うくらいで
雅子に対しては無関心なのか、煩わしくなくこの上もない自由を与えてくれた。
そして季節は矢のように過ぎ萌はこの春から都内でも有名な幼稚園に通っていた。
『もしもし高梨さんですか?』
『はいそうですが』
『バスが、バスがトラックと正面衝突しまして!』
『はあ?どなたですか?バスって?まさか!』
『あっ、すみません、私、文京幼稚園の仲田と申します。
お宅の萌ちゃんが大怪我してしまい病院に着いたところです』
『萌が!何処の病院ですか!何処ですか!』
『本郷にある本郷病院です。こんなことになって』
雅子はその声の暗さにパニックになった。
まさか萌が?慌てて電話を置くと取るのも取り敢えず家を飛び出した。
雅子は何がどうなったのか気が動転してしまい
自分が何をしているのか記憶がなくなるほど焦った。
萌。
萌。
萌。
それ以外の言葉が、喉を通らなかった。
病院に着くと何人もの人が泣き叫び怒号が飛び交っていた。
床には血の付いたタオルが落ち、母親たちの泣き声が天井に跳ね返っていた。
バスに乗っていた園児のほとんどが怪我をして緊急手術を余儀なくされている子供もいた。
雅子は我が子の安否を確認するために人を押しのけて病院関係者を探した。
『すみません!私、高梨ですが高梨萌という子が怪我したと連絡があったのですが』
『あっ!萌ちゃんのお母さんですね。お待ちしてました。ちょっとこちらに来て貰えますか』
『はっ、はい』
と雅子はパニック状態のナースセンターの隣の部屋に案内され、そこは会議室のようだった。
『私は整形外科を担当してます田中です。
実は萌ちゃんは一番前に座っていたようで
右足の腿を車体に挟まれてかなりの出血があり
今応急処置で出血を一時的に止めましたが
これから緊急手術が必要なのです』
『萌を助けてください!先生お願いです』
と半ば叫ぶようにいった。
『萌ちゃんはRHマイナスのAB型ですが
お母さんも同じ血液型ですか?』
『、、、はい』
雅子の心臓が一瞬止まった。
『それは助かりました。急いで適合するかどうか調べましょう。
さあこちらにお願いします』
そして結果は萌に適合することが分かった。
採血している間中これで萌は助かるという気持ちでいっぱいだった。
かなりの量の血液を取ったせいか
手術室の前でいきなりふらっとして座り込んでしまった。
その時後から支える手が伸びた。
『雅子、しっかりしろ、萌は萌はどうした?大丈夫なんだろうな』
『あっ、櫻木さん』
と櫻木の顔を見たとたん急に涙が出てきてしまった。
『萌に何かあったら承知しないぞ!』と櫻木の目も微かに潤んでいた。
『今、手術しています。右足を挟まれたようでかなりの出血があって
一時は危ない状態だったけど運良く私が同じ血液型だったので
輸血が間に合って命に別状はないそうです』
『おお、そうか、それを聞いて安心したよ。
それにしてもお前の血液を輸血したのか?
この病院じゃそんなことやるのか!
血液センターとか病院にストックを用意しておくもんじゃないのか!』
『普通はそうなんでしょうけど萌は珍しいRHマイナスのAB型なの。
血液センターにも少ないらしくて私と適合することがわかって輸血できたのよ』
『じゃお前もAB型なのか?』
『ええ』
櫻木の喉が、ごくりと鳴った。
『、、、そうか』
それ以上櫻木は何も言わなかった。
ただ、雅子を一度も振り返らずに歩き出した。
その背中が、すべてを断罪していた。
雅子は櫻木の態度で言いようもない後味の悪さを感じた。
絶対知られてはいけないあの秘密が
露見したかもしれないと
全身震えが止まらなくなった。
萌の手術中にもかかわらず
三上へ急いで電話をした。
『三上さん、今、電話大丈夫?』
『あっ、電話しようとしてたんだ。萌の乗っていたバスだろう。
ニュースで幼稚園の名前が出たから驚いたよ。
それで萌は大丈夫なのか?』
『ええ、足の出血がひどくて手術中なの。
命には別状はないとお医者様が言ってたから少しは安心なんだけど』
『どうした?』
『それがさっき櫻木が病院に来て何か変だったのよ』
『雅子、まさか何か言ったのか?』
『それが輸血が必要で珍しい血液型だからってそれだけよ』
『血液型?』
受話器の向こうで、三上の呼吸が一瞬止まった。