先日、北茨城市の五浦にある、岡倉天心美術館に行ってきました。
五浦と書いて、いづら、と読むそうです。
アンコウ、が有名な場所ですね。
五浦海岸は、風光明媚ながら断崖絶壁があり、自然の畏怖、のようなものを感じる場所でした。
この五浦といえば、岡倉天心が日本美術界の中央から流れ、再起をはかった地としても有名です。
断崖絶壁の地形が、当時の天心の激しい決意と共鳴している。そのようにも感じられる場所です。
あと、五浦にはチームラボ 幽⾕隠⽥跡(ゆうこくおんでんあと)があって、アートとこの静謐な海が融合した施設として賑わっていました。
さて、岡倉天心といえば「茶の本」です。
この本は、明治の時代に、最初から英語で書かれた本です。
日本が西洋に追いつこうとしていた時代に、天心は、ただ西洋のものを取り入れるだけではなく、日本や東洋の美意識を、海外に向けて伝えようとしたのだと思います。
茶という作法のなかで、茶室は重要な位置づけですが、
茶室というのは、不思議な場所です。
豪華なものをたくさん置くわけではありません。
広さを誇るわけでもありません。
便利なものを次々に増やしていく場所でもありません。
むしろ、余計なものを削っていく。
すると、一輪の花が見えてくる。
湯の音が聞こえてくる。
器の手触りが、少しだけ深く感じられる。
何もないから貧しいのではなく、
何も置きすぎないから、大切なものが見える。
そういう場所なのだと思います。
ところで、民芸運動の柳宗悦(やなぎ むねよし)は、茶道をエリート意識に偏っていると厳しく批判しましが、外圧という驚異が迫る時代にあって、茶、という「ソフトコンテンツ」をもってこれに対抗しようとした岡倉天心の慧眼には、今も学ぶところがある思います。
今でいうと、アニメコンテンツがその一つでしょうか。
私は、今、とても生きづらいと感じたり、他との比較で苦しんだりすることの根本には「増やそうとする熱意」があるのではないかと思っています。
もっと知識を増やす。
もっと予定を増やす。
もっと実績を増やす。
もっと選択肢を増やす。
もっと自分を良くしなければいけないと思う。
もちろん、増やすことが悪いわけではありません。
お金も増えてほしい、、。
ただ、「増やす」という動きは、「制度」や「仕組み」とも結びつきやすい。
肩書き。
評価。
数字。
資格。
成果。
誰かに説明できる形。
そういうものが増えていくと、安心できる部分もあります。
でも、その一方で、心の中にあった静かな感覚が、少しずつ見えにくくなることもあるのではないでしょうか。
本当は好きだったこと。
本当は大切にしたかった時間。
本当は、誰かに見せるためではなく、自分のために感じていたもの。
そういうものは、増やしすぎたものの中で、意外と簡単に埋もれてしまうのかもしれません。
茶室は、何かを足すのではなく、
余計なものを置かないことで、その人の感覚を静かに開いていく場所なのだと思います。
人生も、少し似ているのかもしれません。
何かが足りないから苦しいのではなく、
もう十分に抱えすぎているから苦しいこともある。
もっと頑張る前に、
もっと学ぶ前に、
もっと自分を変えようとする前に、
一度、余計なものを置かない時間をつくってみる。
そうすると、自分の中にまだ残っていたものが、ふっと見えてくることがあります。
茶の部屋のように、心にも少し余白があっていい。
何かを増やすことだけが、豊かさではないのだと思います。
ちょっと、話題が「和風」になりました。
といのも、松岡正剛さんが岡倉天心の茶の本の精髄を要約した言葉に
われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。
※岡倉天心の茶の本からの引用ではなく、松岡正剛さんの要約です。
というのを読んだことを、前の記事で瞑想について書きながら思い出したからなのでした。
不完全なことを前提として受けとらなければ、瞑想をする必要も生じない。
なぜなら、完全なら、もう、瞑想する必要も生じないのですから。
ひょうひょうと、足らないことを受け入れる、そういった海風として
五浦の海岸を思い出すのでした。