(1)問題
資料(A)~(C)を読み、次の問に答えなさい。
問1 資料(A)の下線部に対して。作者は最終的にどのようなことを考えているか。「絶対」という言葉を用いて120字以内で就明しなさい。
問2 資料(C)では、「対話」について、作者はどのような「話し合い」や「話し方」と捉えているか。「対話」と異なる話し方として挙げられている例との対比を踏まえながら、資料中の言葉を用いて150字以内で説明しなさい。
問3 資料(B)(C)では、「見ず知らずの人」や考えの異なる人との議論や対話の場が継続されてきた様子が描かれている。そうした継続の社会的背景として、どのようなことが資料(B)(C)から読み取れるか。これら資料中の言葉を用いながら160字以内で述べなさい。
問4 現代社会おいて、立場や考えの異なる人と「対話」する時にとのようなことが必要であると考えられるか。資料(A)~(C)を踏まえ、かつ具体的な例を挙げながら、あなたの考えを600字以内で述べなさい。
(資料A)
① そういうことは教養のある人は言わないものです。――何度これを言われたことだう。ヨーロッパで自分の力を試すことを決意した私は、さる国際機関の研修施設でイギリス人のチューター(個人指導員)に徹底的にしごかれた。今から20年以上も前のことだ。しごかれたといっても、いっさいの強制はなかった。言われたとおりにするかどうかは私の自由。ただ、言われたとおりだけにしければ、少なくともヨーロッハでは「教養のある人」とは見なされませんよ、というのである。
中略
② 特に強く否定されたのは「絶対」という言葉だ。「教養のある人」は「絶対に~だ」という表現は使わないというのである。この後にイギリスやフィンランドに留学したとき、教官や友人にも言われたことだ。私がつい「絶対に~だ」というと、「絶対なんて言葉はない!」という声が上がる。私の発言の内容に反応しているのではない。それ以前の問題として、「絶対に」という言葉に反応しているのである。その小うるささには辟易したが、彼らの言うことには一理はある。世の中に「絶対」はめったに存在しないのだ。クリティカルな態度とはこういうことか、と感心したものである。
③ だが、この気づきは、さらに私を迷わせる結果を招いた。「絶対なんてない」という発想が「結局は人それぞれ」という発想に結び付いてしまった。絶対に正しいこともなければ、絶対に間違っていることもない。誰もがそれなりに正しい――という、一種の相対主義に陥ったのである。本書で前にも述べたが、「誰もが正しい」という発想では、各人の違いを埋める努力を放棄しているため、対話も成立しなければ、何の問題解決にもならい。
④ このような発想に対しては、周囲の評価も厳しかった。優柔不断だ。自分というものがない。君には「絶対にこうだ」という信念はないのか?――これを言われて、私は戸惑った。「絶対にこうだ」と言ってはならないのに「絶対こうだと思え」とは、どういうことだ?
⑤ 結局のところ、私は基本的な姿勢ができでいなかったのである。真実を追求するならば、唯一の「絶対」という発想は禁物である。自分の考えにせよ、他者の考えにせよ、それを絶対視したら、そこで考えが止まってしまうからだ。これては、真実に迫ることはできない。
⑥ その一方で、誰にでも「絶対に正しいと思うこと」や「絶対に大切だと思うこと」はあるものだ。ただ、自分にとっての「絶対は、必ずしも他者にとっての「絶対」ではない。その意味で、唯一の「絶対」は存在しないのである。そのことを承知のうえで、あえで「(とりあえず自分にとっては絶対にこうだ」という姿勢で意見を述べるのである。こうすることによって、多様な意見の「違い」が鮮明になり、「違い」同士の衝突が発生する。ここに対話の契機が生まれるのである。対話によって、各人各様の「絶対」の調整を図っていくということだ。
(北田達夫「不都合な相手と話す技術」pp.222-224、東洋経済新報社)2010年より、一部改変)
資料(B)
① 見ず知らずの人と、社会や人間について論じ合う――。そんな機会は家族や仕事仲間、友人などの間で大半の時間を過ごす私たちの日常にはほとんどない。
② しかし、そのための場を提供する試みが関西を中心に各地にゆっくり広がっている。「哲学カフェ」という。喫茶店やコミュニテイーセンターに市民が集まり、「われわれは自由か」「父親とは何か」といったテーマで話し合う。
③ 昨年12月初め、大阪市のなにわ橋地下コンコースで午後7時から開かれた会は「就職活動」について。男性会社員が、就活を茶番と批判する本に「腹が立つ」と就活擁護論を展開すれば、「チャンスが大学3年のときだけなのはおかしい」と「アラフォー」の女性が応じる。21人が約2時間、意見をぶつけ合った。
④ フランスの例を参考に大阪大学の哲学の先生や院生らが主導して2000年から始めたこのカフェだけですでに200回を超える。
⑤ 誰でも参加自由で毎回10人から多いときは50人ぐらいが集まる。半分近くが初めての人だが、自己紹介はあえてしない。知らない人たちの話を聞き、知らない人に考えかを伝えるのは、仲間内の会話とは大きく異なる。
(中略)
⑥ 17、8世紀、欧州の大都市のカフェやサロンで人々が自由に議論する習慣が広まった。政治や社会について公論が形成される近代的な公共空関の始まりになったという。
⑦ 哲学カフェもそこに連なる、と本間准教授。たいていの参加者が「人の意見を聞きながら自分の考えが明確になっていった」という感想を持つ。「意見は最初からあるわけではない。議論をしながらつくるもの」
⑧ それまでの領域から踏み出そうとする中小企業の経営者や地方の住民、大学生らの挑戦も、目の前の課題解決だけでなく新しい公共空間の領域につながる動きと言えるのかもしれない。
(「朝日新聞」2010年1月11日付朝刊「哲学カワェ」で熱く議論『生きている本』と対話」より、一部改変)
資料(C)
① 私の住居から10分ほど離れたところに魂の飢えに応えられずにいられなくなった、とでもいうように住民たちが立ち上げたユニークな「対話的研究会」があります。
② 誰でも参加できます、みな自転車で来られる距離の人たちで、職業も、生活もいろいろ。今、35人ほどの仲間が(仕事の都合で、実際には25人前後の集まりになることが多い)楕円形の大きなテープルを囲んでお互いの顔を見ながら、自分の生活やそのまわりに起こる事件と、社会、政治、経済とがどんなつながりをもっているのか、対話を通して勉強しています。そして本や新聞で知る知識と自分の生き方をあらためて問い直しています。
③ 対話的研究会は、もう7年も続き、皆勤の人も少なくありません。
④ その研究会ができたのは、思いがけないごとがきっかけでした。考えてみれば、それは思いがけないことではなく、対話欠乏症の社会に対する、鬱積した魂の飢えが噴出した結果だったのかもしれません。
(中略)
⑤ 私が感動したのは報告者についてだけではありません。聞き手の態度に関しても同様でした。素人の人が、言いよどみ、言葉を探しながらの説明をする時に、聞き手は身を乗り出すようにして無言のまま視線を送り、次の言葉を待っているのです。それに応じるように話し手も自分の言葉を選びなから、地に足をつけて、真実を離すまいとするように話を続けるのでした。
⑥ 対話とは、聞く人の誠実さによって支えられているものだということがよくわかりました。
(中略)
⑦ 特定の人とある目的をもって話し合われる対話に特徴的なのは、個人の感情や主観を排除せず、むしろその人の個性とか人格を背景に、自己を解放した話し方をされている点です。自己防衛意識が強い人との対話は成立たないと言われているのはその言い換えでしょう。
⑧ 対話には。もともと議論して勝ち負けを決めるとか、意図的にある結論にもっていくとか、異論を許さないとか、そういうことではありません。ある論点が何度も発展的に往復するうちにお互いにとって自然な発見があり、大きな視野が開けるところに特徴があります。結論を得られなくても、対話後にも長く続く問いかけがあり。何年も経ってから、その対話の解が得られる場合もあります。
⑨ 「封話の意味はそのプロセスにある」というのは、以上のような意味だと思います。
⑩ このような話し方は、不特定多数の相手に対して、檀上から一方的な話をする講演や講義とは違いますし、もちろん、命令とか、通達ともまったく異質のものです。
⑪ 考えが連っても、私たちは対話の相手に、自分の体験と思考と感情に由来する自分の詞を語り、相手に対しぴったり当てはまる言葉を選んで話そうとします。言葉は解釈の仕方によって多様な意味を持ちますが、対話の中では、言葉をやり取りすることによってその意味が確定されるので、言葉を通して得られる内容は奥深いものになります。対話の持つ魅力に圧倒され、人生観を揺さぶられるような経験を持つ人は、対話が個人的で多様であると同時に、人間に共通する大切なものを語っていることに気がついているでしょう。
⑫ 人間として対等で、個人の尊重を土台にした話し合いは、「対話が続いている間は殴り合いは起こらない」とか、「相互性が続いている間はおかしな方向にはいかない」という言葉が示すように暴力的解法に対する人間的な対処法であり、人間が獲得してきた特徴の一つが対話ではないかとさえ思われるのです。
⑬ それは個性と個人の尊厳を其本にした民主主義の根幹になる話し方であるあるかもしれません。言い換えれば、対話が成立している社会であるかどうかで、自立した市民社会の度合いが量れるのかもしれません。
⑭ ある中学の先生は言っています。「生徒は友人との小さなコミュニティの経験を持ち、その心地よさを経験して、それを外側に広げていく。対話による経験が、話し合い。討論することへの信頼の培養土となる」と。まったく同感です。
⑮ とすれば。対話はすべての始まりであり、基礎になっているのではないでしょうか。
⑯ 私たちは対話によって、理解されているという安心感を得ているし、考えが異なっていても人間としての普遍的な共通する土台があることを理解してもいます。対話によって得たその経験は、その後の、なかなか話が通じない他者との出会いにおいても、共存できるという肯定感と、討論をプラスに生かそうとする意志につながるのだと思います。
暉峻淑子「対話する社会へ」pp58-91、岩波署店。2017年より、一部改編)
解答例
問1
自分や他者の考えを絶対視したら思考停止となる。しかし誰にでも「絶対」はあるが、それは相対的であることを承知の上で「絶対」の姿勢で自分の意見を述べることで意見の多様性が生まれる一方、意見の衝突が起こる。このとき対話によって絶対の調整を図る。(119字)
問2
不特定多数の相手に檀上から一方的な話をする講演や講義とは異なり、対話はテープルを囲んでお互いの顔を見ながら行う。感情や主観を排除せず相手の個性や人格を背景に自己を解放した話し方をする。互いに発見があり大きな視野が開ける。結論を得られなくても対話後にも長く続く問いかけから何年も経ってから解が得られる。(150字)
問3
かつて欧州の大都市のカフェやサロンで人々が政治や社会について自由に議論することで公論が形成される近代的な公共空関の始まりになったが、考えの異なる人との議論や対話の場も新しい公共空間の領域につながる動きである。それは個性と個人の尊厳を其本にした民主主義の根幹になり、自立した市民社会の度合いが量れる指標となる。
(154字)
問4
立場や考えの異なる人と社会的な問題について対話する時に私は次の2つの原則が必要であると考える。第一に相手の肩書などの社会的なステイタスを過剰に配慮して忖度しない。第二に自分のプライヴェートな私情を持ち込まず、あくまでパブリックな普遍性を意識した発言を心掛ける。相手の社会的立場を意識し過ぎると自由にものが言えなくなる。また、自分の私的な利害だけに固執すると公共の利益が見えなくなるからである。
たとえば、自分の住むマンションに保育所の計画が持ち上がって初対面の住民と対話するとき、子どもが好き/嫌いという私情を抑え、自分には子どもがいないから関係ないという個人的な事情も考慮しない。自分の住む地域で保育所が不足しており待機児童問題が起こっている、という社会的な背景を重視し、公共の見地からこの案件を考えて発言する。
相手もこの原則に立っているとは限らない。多くの人は自己のステイタスに依拠してものを考え、自分の私情や感情に左右される。私の原則に反するからと言って相手を見下し、批判することはしない。意見の多様性の現実をそのまま受け止め、公共の利益に立つことの正統性を絶対の自信をもって主張する。
相手の意見が自分のものとは異なり、私情に基づく感情的なものであっても、不快に思ったり憤慨したりせず、世の中にはこのように考える人がいるのだ、という新しい発見を成果として考える懐の深さを身に着けたい。(600字)
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