(1)問題
「感染症」,「社会」,「差別」に関連する資料1~6に基づき,以下の問いに答えなさい。
問1 資料1を読んで,感染症の大流行と社会の関係について400字以内でまとめなさい。
問2 資料2をもとに,伝統的な知識や過去の出来事を教訓とすることの良い面と悪い面について,あなたの考えを,400字以内で書きなさい。
問3 問1,2で解答した視点に基づき,資料3,4,5,6を参考にして,単なる経済支援や援助のほかに,差別の克服のためにはどのような知恵や方策が求められるか,あなたの見解を900字以上1000字以内で書きなさい。
資料1
モンゴル帝国の勃興の影響による疾病バランスの激変
① 黒死病があのように猛烈な破壊力を発揮し得るためには,それに先立って2つの条件が満たされねばならなかった。第一に,腺ペストを人間にうつすことのできるノミを宿しているクマネズミが,ヨーロッパ全土に分布する必要があった。そして第二には,感染しているネズミとノミをあらゆる港に運ぶことができるように,船舶の航路網が地中海世界をヨーロッパ北部と結びつけなければならなかった。いや,クマネズミのヨーロッパ北部への分布自体,地中海と北方の諸港の間の船による連絡の結果だったらしいのだ。これは1291年に恒常化した。この年ジェノヴァの一提督が,これまでジブラルタル海峡の自由な運航を妨げていたモロッコ軍を破り,この海峡が初めてキリスト教徒の船舶に対して開かれたのである。また13世紀には船舶の構造に種々改良が加えられたため,年間を通じての航行が可能となり,ヨーロッパの航海者は朔風(さくふう)*吹きすさぶ大西洋を冬期にも無事渡航できるようになった。なによりも,絶えず就航している船なるものは,ネズミにとって安全な遠距離用の交通機関だった。こういったわけで,ネズミのポピュレーションは,ユスティニアヌス帝*の時代にははっきり存在していた地中海世界という境界線をはるかに越えて広がった。
② 最後に,北西ヨーロッパの多くの場所で,14世紀までに人口が一種の飽和状態に達していたということがある。900年ごろから始まった辺地の開拓の伸展は,土地に占める荘園や農場の割合を倍加させ,少なくとも最も人口稠密(ちゅうみつ)な場所では,森林がわずかしか残っていないという状態が現れた。森林は燃料および建築材料の資源として必要不可欠だったから,それが次第に不足していったことは,人間がその地に生活していく上で深刻な問題となった。トスカナ地方では,増大してゆく農民人口と土地の農業資源の間の矛盾がかなり早くから現れ,黒死病が襲う1世紀も前にすでに人口減が始まっていた。最後に決定的に重要なことは,14世紀から気候が次第に悪化したという事実である。特に北の諸地方では,冬が長くなり寒さが厳しくなるにつれて,不作,少なくとも局地的不作は毎年のこととなった。
③ これら様々な状況が絡み合いひとつに融け合って受け入れ基盤を形成し,14世紀中葉,遂に破滅的な黒死病の到来となった。悪疫は1347年,通商都市カッファを包囲攻撃していたモンゴルの一君主が率いる軍隊に突発した。このためモンゴル軍は攻囲を解いて引き揚げることを余儀なくされたが,その時すでに疫病はカッファ市内に侵入していて,ここから船舶によって全地中海世界,そして間もなくヨーロッパの北部と西部に広がった。
(中略)
④ ヨーロッパの大抵の場所では,人口の4分の1が失われた場合でさえ,最初のうちその影響は長く続かなかった。1347年以前には,生活資源に対して人口が過剰気味だったから,空席が出来てもいくらでも希望者がいて補充がきいたはずである。かなり高い技術を要する地位,例えば農場の管理人とかラテン語教師などに,不足を来たしただけだったろう。だが,1360年代,70年代とペストが再来するに及んで事情は一変する。農耕その他単純労働における労働力の不足が広く痛感されるようになったのだ。ピラミッド型をなして構成されていた社会的経済的秩序が,ヨーロッパの様々な場所で様々に変化した。そして,思想と感情の暗い空気が,ペストそのものと同じように慢性的かつ不可避的に広がった。一言にして言えば,ヨーロッパは新しい時代に入っていったのだ。激変への反動と調整がヨーロッパ大陸の各地で様々に異なる道を取ったため,今までどおり場所ごとに多種多様ではあったが,1347年以前に主流を成していた構造と全く同じという場所はどこにも無かった。
⑤ 英国は,ペストの歴史に関する学問的研究がとび抜けて進んでいるが,この国の人口は1世紀以上もの間,不規則にしかし一貫して減り続け,1440年から1480年の間のある時点で最低値に達したとされる。ヨーロッパの他の部分に関しては,これに比肩しうるほど明確な推定はとても下せない。だがペストによる損耗が,18世紀に到るまで,ヨーロッパ大陸の人口動態上重大な要素を成していたことは,疑いの余地ない事実である。大陸でも英国とほぼ同じ期間,人口減が続いたと仮定すると……これは無数の局地的例外を含み,だが全体として可能性の高い仮定である–……。中世ヨーロッパの人口が新しいペスト感染の衝撃から恢復(かいふく)するのに要した時間は,100年ないし133年,つまり約5,6世代ということになる。するとこれは,アメリカ大陸のインディオと太平洋の島嶼(とうしょ)住民が後年,やはり疫学的状況の激変に際してより一層ドラスティックな適応を遂げるのに要した時間とぴったり一致する。そして,1950年から53年まで粘液腫症に侵されたオーストラリアの野ウサギの場合と同様,最初極度に致死率の高い感染症に突然曝された場合,人口の動きを決定し,またそれに限界を設けるある一定の自然のリズムがそこに働くものであることを暗示する。
⑥ これは生物学的プロセスであるが,それと並行して文化的プロセスなるものも確かに進行した。それによって人びとは……いや恐らくはネズミも……,感染の危険を減らすことを覚えていったのだ。例えば隔離検疫の考えは,早くも1347年に生まれている。これは,聖書の中の重い皮膚病患者の追放を規定したくだりから由来し,ペスト患者を一時的な皮膚病患者であるかのように取り扱うもので,結局40日間の隔離が規準となった。またこれは,まだ健康を保っている者が,病気に対する彼らの恐怖と呪詛を思い切り表明することのできる公認された手段を見出した,ということでもあるのだ。ほんの19世紀末まで,この病気の伝播に果たすネズミとノミの役割に気付いた者はいなかったから,隔離検疫措置は常に効果的というわけにはいかなかった。
⑦ それでも,絶望して座して死を待つよりも何かすることがあった方が心理的にずっと安心感が得られるわけで,隔離検疫が最初ラグーサ*(1465年),次いでヴェネチア(1485年)で制度化されたが,やがて,アドリア海のこの両貿易港の例は,地中海世界ではどこでも広く模倣された。ペストの疑いのある港から到着した船は,すべてまずある遮断された場所に錨をおろし,40日間,陸上との交渉を断つべしという要請は,常に強制されたわけでなく,また強制された場合にも,人間こそ上陸できなかったかも知れないが,ネズミとノミの上陸は簡単ということが多かったであろう。それでも,こうした用心がペストの広がるのを食い止めたこともまたあったに違いない。なぜなら,もし安全な遮断が行われたとするなら,40日という日数は,いかなる船の内部にあっても感染の連鎖を燃え尽きさせてしまうに充分な長さだったからである。地中海世界のキリスト教徒の港町で一般的となった隔離検疫制度は,だからちゃんと理屈に適ってもいたのだ。けれどもペストは,絶えずこうした防壁のすき間から漏れ続け,中世末から近世初期まで,ヨーロッパのあらゆる場所で,人口動態に大きな影響を及ぼす要因であり続けた。特に地中海世界では,黒海と小アジアの諸港を介して,齧(げっ)歯(し)類感染による永続的病原菌保有動物との接触が生じやすかったため,いきおいペストの発生も頻繁となり,主要港での隔離検疫措置も常時行われ,それは延々と続いた。19世紀になって,ようやく感染という現象に関し新しい考えが芽生え,古い規則が緩和されたのである。
(中略)
⑧ 心理的,文化的な面でヨーロッパが示した反応は明確であり,またきわめて多様である。強烈なのっぴきならない危機との直面,ペストの突発が共同体の成員すべてに切迫した死の可能性を肝に銘じさせたとき,日常生活上の決まりや習慣的な自制は崩壊してしまうのが通例だった。不安を社会的に許される仕方で発散するための様々な祭祀が起こったのは後の話で,当の14世紀には,ペストに対する反応をお祭り騒ぎに解消しようという最初の重要な本能的行為は,醜悪かつ極端な形を取った。ドイツとドイツに隣接する地方では,鞭打苦行者の集団が,お互い同士血みどろに打ち合うことと,ユダヤ人を襲撃することで,神の怒りを和らげようとした。ユダヤ人は,ペストの毒を故意にばらまいた下手人と見なされて,迫害されるのが常だったのである。鞭打苦行者は教会と国家の既存の権威を一切認めず,資料を信ずるなら,彼らの祭祀はしばしば参加者の集団自殺の観を呈したという。
⑨ 鞭打苦行者およびそれ以外の連中によって口火を切られたドイツ系ユダヤ人への攻撃は,ヨーロッパにおけるユダヤ人社会の中心地の東方への漸進を加速させることになったと思われる。ポーランドは,ペスト来襲の第一ラウンドをほとんど完全に免れた国だった。そして一般民衆のユダヤ人への襲撃はここにも発生したけれども,王権はユダヤ人が身に付けている進んだ都市的諸技術ゆえに彼らを庇護した。だから,これ以後の東欧ユダヤ人社会の発展は,14世紀の民衆が示したペストへの反応の結果という面がかなりあったと言える。そしてヴィスラ,ニーマン両河流域地方における市場主導型の農業の急速な伸展についても,これはユダヤ人の指導によるところが大きかったから,やはり同じことが言えそうである。暴力沙汰はこうした形以外にも無数に発生したが,それらはみなペストがヨーロッパ人の意識に与えた最初の衝撃がいかに強烈だったかを示すものである。時が経つにつれて最初の来襲の際の不安と恐怖はやや緩和され,ボッカチオ,チョーサー,ウィリアム·ラングランドといった全く違ったタイプの作家たちが,ペストを人間生活のありふれた危険,空模様などと同様,神のみわざに属する事象として扱うようになった。だがペストが文学に与えた影響は,ほかにもっと永続的なものがあった。例えば多くの学者が言うことだが,世俗語が正式の文書にも使われるようになり,また西ヨーロッパの知識人の間で,共通語としてのラテン語が衰退していった現象は,この古代語を自在に操れるまでに習得している聖職者や教師が大勢死んだことで早められた。
出典:ウィリアム·H·マクニール『疫病と世界史』佐々木昭夫訳,下卷,中央公論
新社,2007年,31-40,55-57頁。ただし出題にあたって一部改変した。
*朔風…北から吹く風。北風。
*ユスティニアヌス帝…6世紀前半から中頃のビザンツ(東ローマ)帝国皇帝。540年代にビザンツ帝国とその周辺地域で流行した疫病は「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれた。
*ラグーサ…別名ラグーザ。現クロアチアのドゥブロブニク。
資料2 古来の知識·知恵と疫病
近代におけるペスト蔓延とその教訓
① 北アメリカの齧(げっ)歯(し)類におけるペストの蔓延(まんえん)には,人間の活動もその速度を早めるのに力をかしている。牧場労働者が,わざわざ病気の齧歯類をトラックに積み込んで何百マイルもの距離を運ぶということが実際にあったのだ。プレーリー·ドッグ*の集団に病気をうつして大量に死なせ,牛に食わせる牧草への被害を減らそうとしたのである。だが,そうした行為があったにしても,北アメリカにおけるペストの伝播は,基本的には人為的な力によって左右されるものではなかった。その結果,1940年には合衆国で34種もの齧歯類がペスト菌を保有し,ノミも35種の異なる種類が保菌者となっていた。
(中略)
② 1911年,満州にまたもや大規模なペストの発生があり,1921年にも再発した。この悪疫を制圧すべく改めて国際的な活動班が速やかに組織され,調査官は間もなく,このヒトのペストはマーモットからうつされたものであることを突き止めた。マーモットというのは大型の穴居性齧歯類で,その毛皮は国際毛皮市場で高値をよんでいた。だが,近ごろ汚染されたアメリカシマリスなど北米の齧歯類とひとしく,マーモットの穴はしばしばパストゥーレラ·ペスティス*を宿していたのである。
③ この動物が生息している草原地帯の遊牧民の部族では,ペスト感染の危険に対処するために,疫学的見地から見ても充分有効な掟を備えていて,それにはちゃんと神話的な説明が付され権威を保っていた。罠は禁忌である。射殺せねばならぬ。動作のにぶいマーモットに近寄ってはならぬ。マーモットの集団全体に病気の様子が見えたときには,人間の共同体はテントを畳み,禍(わざわ)いを避けるべくその場所を引き払うべきである,等々。こうした慣習的規定は,ヒトがペストに感染する度合いをかなり低めるものだったと推察される。
④ ところが1911年,満州族の清王朝が衰微していよいよ崩壊の時を迎えようとしていたとき,漢民族が満州に移住することを禁じるという,それまで長い間施行されてきた規制措置が行われなくなった。その結果,事情を知らない漢民族移住者の大群がマーモットの毛皮を追いかけることとなったが,彼らはその土地の伝統のことなど何も知らず,病気に罹(かか)っていようがいまいが見境なしに罠で捕りまくった。当然ペストが彼らの間に発生し,次いでいち早くハルビン市に形成されたペストの都市内中心地から,満州に建設されたばかりの鉄道によって四方に広がったのであった。
⑤ 1894年から1921年まで続いた一連の出来事はすべて,ペストをコントロールする手段の発見を任務とする医師団の,専門家として鍛えられた観察眼のもとに生起した。彼ら研究者は,ペストが新しい地域新しい住民の中に入ってゆく伝播のパターンを辿るのに困難を覚える場合も多かった。だが,こうした調査研究とそれに基づいて取られた公衆衛生上の措置が無かったならば,20世紀はその開幕とともに,完全に全地球を覆うペストの続発に見舞われたに違いない。その死亡者数は,ユスティニアヌス帝の時代から伝えられた数字や,黒死病(ペスト)がヨーロッパをはじめ旧世界の多くの場所を荒らし回った14世紀の記録も,影が薄くなるほどのものだったであろう。
⑥ 人類が19世紀20世紀にペストと遭遇したお蔭で知り得た以上の事柄から,3つの点を特に強調しておきたいと思う。
⑦ 第一に,1870年代になって急速に発達した汽船の航路網は,地球全体にペストをまき散らす格好の伝達手段だった,ということである。実際この悪疫が広州と香港に発生するや否や,菌を保有するネズミとノミの一大集団を,1隻の汽船がよその港に運ぶだけの時間しか要さないというスピードで,感染は伝播していった。港と港を結ぶ感染の連鎖が途絶えずに維持されるためには,スピードこそ決定的だった。パストゥーレラ·ペスティスは恢復(かいふく)者に免疫を残すから,1隻の船に乗り込んだネズミとノミとヒトの感受性ある宿主は,何週間か経てばいなくなってしまう。帆船時代には,要するに海があまりに広すぎて,船に乗ったペスト菌が生命を保ったまま,南北アメリカや南ア*の港町に到着し,そこにいた齧歯類の共同体の中に入り込むことなどはできなかったのだ。汽船が出現して船脚がにわかに速くなり,また大きさが増したことから運ばれるネズミのポピュレーションも巨大化し,感染がそこでも長時間循環できるようになったとき,海洋は突然かつてないほど通過しやすい場所になったのである。
⑧ 第二には,船に棲むペストに侵されたネズミと彼らにたかるノミは,世界各地の港でヒトの宿主にペスト菌をうつすばかりでなく,地球上のいくつかの半乾燥地帯に生息する彼らの野生の親類たちにも感染させたという点である。カリフォルニア,アルゼンチン,南アでは,いわば潜在的病原体保有動物が,いつとも知れぬ過去からずっと存在してきたのは確かである。処女地には穴居性齧歯類の大ポピュレーションがすでに地中で生活していたとなると,これが自然界における新しいペストの中心地となるために欠けていたのは,ただ,立ちはだかる障害物……つまり海洋……を越えて菌が運ばれる手段だけであった。こうした齧歯類の群れは,種も生活様式も地方ごとに大きく異なるにもかかわらず,ペストに対する感受性を持ち,途切れることない感染の連鎖を無限に維持していくことが可能だった。
(中略)
⑨ 第三点としては,雲南省や満州などパストゥーレラ·ペスティスが穴居性齧歯類に風土病として根をおろしていた地方でも,現地の住民が長い間守ってきたその地方独特の生活習慣は,いずれもペスト感染が人類に移行するのを防ぐ上できわめて効果的だったという事実である。よそから入ってきた連中が地方的な「迷信」を守ろうとしなかったとき,初めてペストが人間の問題となった。さらにこの両地方ともに,これら疫学的に無知なよそ者がなだれ込んできたのは,軍事上,政治上の大変動と結びついていたが,そうした大変動が病気による惨禍を引き起こすのは,過去にもしばしば見られたことだった。伝統的な慣習という防疫手段が,雲南地方と満州で明らかに有効だったことを思えば,1894年から1924年まで見事な成果を挙げた医学的防疫措置も,疫病の突然の出現に際して人類が昔から示してきた対応の一例であり,かつてなく迅速で効果的であっても,ごくありふれた正常な対処法に過ぎなかったことがわかる。これまではただ神話と慣習が,行き当たりばったりに試行錯誤を重ねながら,病気の被害を耐え得る限度内に抑え込むべき実行可能な行動様式を決定してきたのであり,人類はそれを受け入れてきたのだが,代わって今度は近代科学としての医学が,新しい行動の規則を考案し,国際的な隔離検疫体制といった世界的規模の行政上の枠を設け,万人がこの新しく規定された行動様式に黙って従うよう強制した,ということなのだ。そして,このような視野に立って眺めると,20世紀医学と公衆衛生行政の輝かしい勝利もそれほど目新しいものに思えなくなってくる。とはいえ,今世紀に入ってからの腺ペストに関する医学上の諸発見は,過去にこの病気の猛威を抑えるのに役立った行動規定のたぐいをはるかに凌ぐ力を発揮したのも事実である。恐らく医師や保健官は,われわれの時代を過去のいかなる時代からも截然(せつぜん)*と分かつ人口の世界的規模での大成長を妨害,いや逆転させたかも知れない悪疫の大流行を,未然に阻止したのだ。(中略)
疫病を前にした古来の知識·知恵
⑩ 全面的な意気沮喪(そそう)の傾向とごく単純な生きる意志の放棄が,インディオの共同体を破壊する大きな要因だった。生まれたばかりの赤子を育て損なって不必要に死なせてしまう事例や,あからさまな自殺が無数に記録されているが,これはインディオの昏迷と絶望の深さを物語っている。ヨーロッパ人の軍事行動,それになにか大々的な企画のために強制的にかり集めたインディオ労務者に加えた虐待も,古い社会構造を根こそぎ破壊するのに手をかした。だが人間の暴力や無頼な行動は,それがいかに荒々しいものだったとしても,インディオ人口があのように溶け去ってしまった主な原因ではあり得ない。それに,潜在的な租税納入者と労働力を減らしてしまうのは決してスペイン人やその他ヨーロッパ人の得にはならなかったはずである。破滅をもたらすという役割は,やはり主として疫病が果たしたのだ。
⑪ 最初の遭遇は1518年だった。天然痘がイスパニョーラ島に到着し,インディオ住民に激しく襲いかかった。バルトロメ·デ·ラス·カサスの信じたところによれば,生存者はわずか千人に過ぎなかった。イスパニョーラ島から,天然痘はメキシコに向かい,1520年に上陸した。沿岸部にいたコルテスのトラクスカラン同盟*と,コルテスを追い払った側のインディオの双方に打撃を与えた。だが,この病気が地上をどのように移っていったかの詳細はとても再構成することなどできない。それにしても,コルテスが退却を余儀なくされてからほぼ4ヶ月後に首都テノチティトランでこの病気が突発したという事実は,まさにスペイン人を襲撃した者たちへの神罰と見なさないわけにはいかなかった。その結果,コルテスがメキシコ中央部に戻ってきたとき,チチカカ湖の周辺に住んでいた諸部族はみな彼の味方となることを決意した。これは重要な点である。コルテスのスペイン軍は僅かな数だったし,沿岸部のインディオの同盟軍といっても,テノチティトランを,首都に食糧を供給していた周囲の諸共同体から孤立させるには,軍勢の数が不充分だったからである。だからひとたび湖水周辺の臣下たちに裏切られたとき,アステカ人の運命は決まったようなものだった。彼らの抵抗がいかに勇猛で,自殺を目指しているほどのものだったとしてもである。
⑫ もし天然痘があのとき突発しなかったならば,コルテスの勝利はもっと困難,いや不可能だったろう。ピサロのペルー侵略についても同じことが言える。メキシコにおける悪疫天然痘は,決してアステカの国境内でのみ猛威を振るったわけではなかった。1520年にはグァテマラに広がり,さらに南下を続けて,1525年か26年には遂にインカ領に入った。ここに引き起こされた事態は,アステカにおけると同様ドラスティックだった。インカの王は首都を離れ北方で軍の指揮を取っている間にこの病気で死に,王位継承者も死に,正式の後継者がいなくなった。そこで内戦が勃発し,このようにインカ帝国の政治構造が危殆(きたい)に瀕していたまさにそのとき,ピサロと命知らずの彼の手下がクスコに到着し財宝を強奪したのである。彼はまともな軍事的抵抗にはろくに出会わなかった。ここで,2つの点を特に強調しておく必要があると思われる。第一に,疫病が特別恐ろしくまぎれもないひとつの神罰であるとする点で,スペイン人もインディオも一致していたということである。悪疫を神の怒りのしるしとする解釈は,旧約聖書をはじめキリスト教の教えの全体を通じて権威を持ち,スペイン人が代々受け継いだ観念だった。一方インディオとしても,こうした高致死性の疫病が到来したてのころ示した一連の猛威に比すべき体験を全く欠いていたから,容易にこの考えに同意した。それにもともと,彼らの宗教の教義でも,神々には超人的な力が宿り,その人間に対する行動はしばしば激しい怒りであるとされていた。だから,彼らが前代未聞の出来事の因を超自然的なものに求めようとするのは当然であり,それは,スペイン人宜教師が,破局に関する同じ解釈を,気力も萎え果て茫然としている改宗者に押しつけようと努力したこととは,全然無関係なのである。
⑬ 第二点は,インディオに対してはあれほど無慈悲な力を振るった恐るべき病気にも,スペイン人は全くと言っていいほどなんの影響も受けなかった事実である。彼らはほとんどみな,子供のころ感染し効果的な免疫を身に付けていた。双方が悪疫の原因にあのような共通の解釈を持っているとなると,侵略者の側のみが一方的に神の恩寵に浴していたことは確定的だった。アステカの神々もキリスト教の神も,白い皮膚の闖入者(ちんにゅうしゃ)は,いかなる行動をとろうとも聖なる認可を得ているとする点で,一致しているように思えたのだ。白人が不死身でないという事実にも,彼らが信仰心を持っているかどうかにもお構いなしに,神は白人には恩寵を垂れ給い,一方,神の怒りはひたすらインディオにのみ向けられ,その情容赦ない激しさは,アメリカ大陸におけるスペイン領全土の辺境でいち早く改宗者の倫理的·宗教的生活の責任を引き受けていた聖職者たちを,しばしば困惑させ,悲歎に暮れさせるのであった。
(中略)
⑭ 近代になって見られた民間の生活習慣で,南部インドから連れてこられてマレーシアの農園で働くタミル人労務者の健康がそれで随分守られたという例がある。彼らが固執していた習俗によると,水は一日に一度だけ家に運び入れるのでなければならず,またその間貯めておいてはならないことになっていた。当然これは家の中で蚊が卵を産むのを防ぐ。その結果,中国人や原地のマレー人は,同じ条件で生活し労働していたにもかかわらずタミル流の習慣を守ることがなかったので,デング熱とマラリアに感染する率が高いという事実が見られた。数限りない環境のもとで,このような俗信と行動規制が人類の共同体を病気の感染連鎖から絶縁してきたに違いない。他方,衛生規則なるもの,特に神のお告げに基づくゆえに普遍的な価値ありとして広められたそれは,不幸な副作用を伴うことが時折あった。イエメンの回教*寺院で沐浴場がビルハルツ住血吸虫*に汚染されていたなどはその例である。
(中略)
⑮ こうして,習俗や信仰には,人間の共同体を病気から守ってくれそうなものが一方にあれば,他方には病気の突発を招来し接触させるたぐいのものもあるといった具合だった。そして,ごく最近まで,医学の理論と治療法はこの矛盾し錯綜した行動様式の編み目にぴったりと納まっていた。つまり,ある療法は効果があり,あるものはなんの効果もなく,またあるものは,熱病に対して広く行われた瀉血(しゃけつ)*のように,ほとんどの患者にとって害を与える一方だった。民俗的な方法と同じで,医学理論もひたすら経験主義的かつ極度に教条主義的だった。わずかばかりの有名な書物に記載された教義が,動かすべからざる権威あるものとして扱われた。ヨーロッパとイスラム世界におけるガレノス*とアヴィケンナ*,インドにおけるチャラカ*がそれであり,中国では,数人の著者の書物が正典としての地位を分けあっていた。実際の経験によって得られた知識も,そうした理論に合わせて解釈され,治療が施されたのである。
出典:ウィリアム·H·マクニール『疫病と世界史』佐々木昭夫訳,下卷,中央公論新社,2007年,16-22,91-94,133-135頁。ただし出題にあたって一部改変した。
*プレーリー·ドッグ…北アメリカの草原地帯(プレーリー)に生息する齧歯類の動物。以前はペット用に日本にも輸入されていたが,ペストなどの感染症を媒介する恐れがあるため,2003年に輸入が禁止された。
*パストゥーレラ·ペスティス…ペストの病原体であるペスト菌の旧学名Pasteurella pestis。現在の学名はYersinia pestiso
*南ア…南アフリカ。
*截然…区別が明らかなようす。
*トラクスカラン同盟…メキシコ中部,現在のトラスカラ(Tlaxcala)州一帯に住んでいた先住民のトラスカラ人は,コルテス率いるスペイン軍と同盟を結び,スペイン軍に協力してアステカ王国軍と戦った。
*回教…イスラム教の古名。イスラム教では礼拝前に水などを用いて定められた手順で清めを行う必要があり,イスラム教の礼拝場であるモスクには,清めのための
水場が通常は設けられている。
*ビルハルツ住血吸虫…住血吸虫症を引き起こす寄生虫の一種。住血吸虫に汚染された水に皮膚が触れることで感染する。
*瀉血…病気の治療のため,血液の一定量を取り除くこと。西洋では古代から近代まで,様々な病気に対する治療として瀉血が行われた。現代医学では,限定的な症状の治療以外では,瀉血に効用はないと判明している。
*ガレノス…ローマ帝国時代のギリシャの医学者,哲学者。
*アヴィケンナ…イスラム世界最高の知識人の一人ともいわれる,哲学者にして医学者のイブン·スィーナーのラテン語名。アウイケンナ,アヴィセンナとも呼ばれる。
*チャラカ…現存する,インド医学(アーユルヴェーダ)最古の医学書『チャラカ·サンヒター』の著者とされる人物。
資料3 他県ナンバー狩り,ネットで中傷…暴走する
“自粛ポリス”
① 政府の緊急事態宣言が長引く中,外出自粛や休業要請に応じていないとしてインターネット上で個人情報をさらしたり,店舗に苦情を申し立てたりする動きが目立っている。会員制交流サイト(SNS)では「自粛警察(ポリス)」と呼ばれ,多くは正義感に基づくとみられるが,人権侵害や刑事事件に発展するケースもある。生活を一変させた新型コロナウイルスへの不安が背景にある。熊本市の30代男性会社員は,大型連休中にどうしても外せない仕事があり,熊本ナンバーの車で福岡市に行った。職場の駐車場に車を止め,事務所で仕事中,たまたま換気のために事務所の窓を開けると,駐車場の外から男性の車を撮影する人影が見えたという。その後,気になってSNSを検索すると,ナンバーの写真や番号とともに「外出自粛中なのに遊んでいる」と投稿されていた。男性は「わざわざ外出して“他県ナンバ一狩り”をしている。個人の事情も知らず,『自粛してない』と言われるのはおかしい」と憤る。
(中略)
② 福岡県警によると,「昼間に子どもの声がうるさい」「自粛中なのに遊んでいる」といった通報が相次いでいるという。パトカーが出動したこともある。
(中略)
③ 苦情を申し立てたり,ネットに投稿したりする人たちはどんな気持ちなのか。話を聞くと,必ずしも際立った悪意があるわけではないようだ。本紙「あなたの特命取材班」に「銭湯の営業を自粛してほしい」との声を寄せた北九州市の50代女性は,介護現場で働く。重症化しやすい高齢者と接触する仕事。自らと相手双方に感染リスクがあり,毎日が戦々恐々という。「のんきにお湯につかっている人のモラルを信じられないんです」
(中略)
④ 自粛とは「自分で自分の行いをつつしむこと」(広辞苑)。捉え方は人それぞれであり,感染への恐怖におびえ,それぞれが思い悩んでいる。正義感に基づき,自粛を促す「声の掛け合い」が時に過剰になり,一部の“暴走”につながっている可能性がある。「不安や不満を抱える人たちが,モヤモヤした感情をぶつけてカタルシスを得ている。欧米におけるアジア人差別にも共通する」災害時の心理や情報伝達について研究する東京大大学院の関谷直也准教授(社会心理学)はこう分析した上で,行政の責任も指摘する。「感染症拡大防止のために“家にいろ,移動するな”という事実上の勧告,指示をしているのに自粛という言い方をしたのが間違いだった」
(中略)
⑤ 関谷准教授が懸念するのは,自粛警察と呼ばれる動きを許容する空気が広がりつつある点だ。「誰にも感染する可能性はあり,個人の責任に帰してはいけない。個人攻撃をしないように市民一人一人が自覚するしかありません」
出典:西日本新聞me2020年5月13日配信。西日本新聞ウェブサイトより。ただし出題にあたって一部改変した。
資料4 新型ウイルスで嫌がらせ被害 パレスチナ知事が邦人女性に謝罪
① パレスチナ暫定自治区のラマラで1日,現地在住で支援活動を行うNGOの日本人女性2人が,通りがかりのパレスチナ人2人から「コロナ,コロナ」としつこくからかわれ,やめてほしいとスマートフォンで相手を撮影するふりをしたところ,1人が逆上してつかみかかり,髪の毛などを引っ張ったとして暴行の疑いで警察に逮捕されました。
② これを受けて,ラマラのガンナム知事は3日,被害を受けた2人をオフィスに招き,これまでの支援活動に感謝の意を伝えたり,記念品を贈呈したりしました。また,地元警察幹部もラマラにあるNGOの事務所を訪れ,2人に花束を贈りました。これらはいずれも,日本人女性2人への謝罪を念頭においた対応とみられます。
③ パレスチナやイスラエルなどでは,新型コロナウイルスの感染が拡大した日本や韓国,中国の人たちへの嫌がらせ行為が後を絶たず,深刻な問題となっています。
出典:NHKニュースウェブサイトNHK NEWS WEBより。(2020年3月4日掲載) ただし出題にあたって一部改変した。
資料5 トランプ政権の支援停止決定で,国連のパレスチナ難民支援機関が財政危機に
① トランプ政権による資金凍結の決定で,UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)は今,かつてなき財政危機を迎えている。アメリカの国務省は8月31日,UNRWA に対するアメリカの支援を全面的に打ち切ることを発表した。
② エルサレムへの大使館移転など,イスラエル寄りの強硬姿勢を示すトランプ政権は,2017年は3億6千万ドルを超えていたUNRWAに対する拠出金を,今年は6千万ドルにまで削減することを既に1月の段階で発表していた。実に80パーセント以上の支援減額だ。
③ これに加えて,先週の8月24日には,拠出金とは別にガザ地区等に対して直接送られる予定だった2億ドル超の経済援助を,他の用途に振り替えることが発表されていた。今回の発表は,これらの段階的な削減の発表にとどめを刺すものといえる。
④ こうした支援の停止は,パレスチナ難民に対する支援に深刻な影響を与えることが懸念されている。UNRWAによる支援は教育,保健,戦闘で破壊されたインフラの整備の他に,貧窮家庭への食糧給付も含まれる。パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区,ガザ地区のほかにヨルダン,シリア,レバノンを活動地に,58か所の難民キャンプで,702の学校,144の診療所がUNRWAによって運営されている。2006年以降経済制裁下におかれたガザ地区では特に,住民の8割がこれらの支援に頼り生活している状態だ。UNRWAはイスラエル建国後に70万人超のパレスチナ難民が生じたことを受けて,1949年の国連総会決議により設立された。以後,パレスチナ難民に対して70年間にわたり支援を続けてきた。その活動資金は,運営のためのわずかな国連予算を除けば,ほとんどが国連の193の加盟国からの拠出金および寄付により成り立つ。最大ドナーであるアメリカからの支援額は,全体の約3割を占めていた。そのアメリカが,トランプ政権の発足以降,方針を転換し,パレスチナに対する支援を打ち切ってきている。
⑤ 年明けの拠出金削減の発表を受けて,UNRWAでは夏以前の段階で既に,通常の業務継続が困難となる財政破綻が予見されていた。この窮状を各国メディアに対して訴えるため,今年6月末には世界各国の研究者や保健分野の関係者から署名を集めたオープンレターが準備された。
⑥ UNRWA 事務局長のピエール·クレヘンビュールは,今回の危機がUNRWA創設以来最悪の事態であると訴えている。教職員への給与の支払いが困難であるため,9月以降の学校での授業再開は直前まで危ぶまれた。だが子どもたちの教育を受ける権利を守るため,2億ドルの資金不足にも関わらず,UNRWA は予定通りの秋学期授業の再開に踏み切った。
⑦ そのしわ寄せは,他の事業部門に及んでいる。UNRWA ではパレスチナ人職員の契約打ち切りや,パートタイムへの移行を余儀なくされ,ガザ地区では職を失う人々による座り込みなどの抗議運動が始まっている。長年の封鎖に苦しむガザ地区では,失業率が40パーセントを超え,零細農業や紛争の度に打撃を受ける製造業の他には,国際機関やNGOでの就業が貴重な職を提供してきた。
⑧ 雇用の機会が乏しいガザ地区で,解雇は大きな打撃だ。とはいえ長年に及ぶ支援活動を通して,誰よりもそれを熟知しているはずのUNRWAがそうした手段に踏み切らざるを得ないということ自体が,事態の深刻さを示していると言えよう。UNRWAは教員や職員としてパレスチナ人を雇うことによる雇用創出そのものを,活動目的や事業の一部としてきたからだ。
(中略)
⑨ 今年に入りアメリカは,UNRWAの事業そのものに対しても繰り返し不満を表明してきた。トランプ政権の政府高官は8月5日のイスラエル紙ハアレツ*のインタビューで「UNRWAの事業自体が,問題を永続化させ難民危機を悪化させている」と発言している。事業を改善させるには,登録されたパレスチナ難民の数を現行の10分の1に減らす必要があると主張し,ジャレッド·クシュナー大統領上級顧問(アメリカ)は6月のヨルダン訪問の際,ヨルダン在住の200万人超のパレスチナ難民の登録と支援を取りやめるよう圧力をかけたと報じられている。
⑩ ニッキー·ヘイリー国連大使(アメリカ)は,8月の支援停止の発言の直後,国連はイスラエルに対して偏見をもっていると批判した。さらに国連総会決議194号で認められているパレスチナ難民の帰還権について,議論の見直しを迫ることを示唆してもいる。
出典:錦田愛子「トランプ政権の支援停止決定で,国連のパレスチナ難民支援機関が財政危機に」ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト2018年9月1日掲載。ただし出題にあたって一部改変した。強調箇所は出題者による。
*ハアレッ…イスラエルで発刊されている新聞。ハーレッとも。
資料6 日本人見て「きゃあコロナ!」悲しいよ,思い伝えると…
① 2月下旬,東エルサレム。山村順子さん(35)が通りを歩いていると,見知らぬ中学生くらいのアラブ人の女の子5人が前から近づいてきた。何人かがすれ違いざまに声を上げた。「きゃあコロナ!」。すると女の子たちは手で口元を覆い,すっと距離を取った。
② 山村さんはNGO「日本国際ボランティアセンター」の一員として,東エルサレムを拠点に,パレスチナ自治区の子どもの健診や栄養改善のための教室開催などの支援に取り組んできた。だが新型コロナウイルスへの感染が世界各地で広がり始めて以降,心ない声をかけられるように。同僚も街角で怒声や冷ややかな目線を浴び,同じ目に遭っていた。「パレスチナの人々の力になりたいと思って来たのに」。初めて居心地の悪さを感じた。
③ 外出するのが嫌になりそうで,アジア人だと気づかれないよう,変装し,出かけた時期もあった。ただ,今は考えを改めている。
④ イスラエル人とパレスチナ人の衝突は各地で続く。ガザ地区には食糧が行き届いておらず,ヨルダン川西岸地区も合わせて,国際支援は欠かせない。今は新型コロナの蔓延を防ぐため,ガザ地区には入ることができない。
⑤ 現地で暮らし,対話の少なさがパレスチナとイスラエルの対立の溝を深めていると感じてきた。「お互いを尊重し合う対話は必要。欠落は憎しみを生み,差別を増幅する」。
⑥ それならば …… 。コロナ禍のアジア人差別に対抗する「対話の道」を模索してみることにした。スカーフもサングラスも外した。コロナと呼ばれたら,「何でそう呼ぶの? 悲しいよ」とアラビア語で切り返し,相手に気持ちを伝えてみる。
⑦ 通り過ぎようとした5人組の女の子にも思いの丈を伝えた。その足でコーヒー豆販売店へ向かうと,女の子たちが後をつけてきた。「あなたがそんな風に感じていると思わなかった。ごめんなさい」。店の中で謝られ,その後に行ったお菓子屋で,箱詰めのまるいホワイトチョコレートを贈ってくれた。素直な気持ちは,人を傷つける言動にも,人への温かい思いやりにもなる。
⑧ 回数は減りつつも,「コロナ」と声をかけられる状況は今も続く。無邪気な発言がやがては大きな溝となるかもしれない。「対話が道を切り開く」。そう信じ,目の前の小さな差別の芽とも向き合っていくつもりだ。
出典:朝日新聞デジタル2020年7月1日配信。朝日新聞デジタルウェブサイトより。ただし出題にあたって一部改変した。
(2)解答例
問1
ペスト流行の状況としては、ペストの宿主であるマネズミがヨーロッパ全土に分布する必要があったことと感染しているネズミとノミをあらゆる港に運ぶ船舶の航路網が地中海世界をヨーロッパ北部と連絡することの2つの条件のほかに、北西ヨーロッパにおいて人口が飽和状態であったこと、気候の寒冷化による不作などがあった。ペストのヨーロッパ社会への影響は、農耕その他単純労働における労働力が不足し、ピラミッド型の社会的経済的秩序が変化した。また思想と感情の暗い空気が広がった。特に文化的プロセスについては、隔離検疫が制度化し、鞭打苦行者の発生やユダヤ人への襲撃といった例に見られるように、ペストに対する反応をお祭り騒ぎに解消しようとし、後には様々な祭祀が起こった。作家たちがペストを人間生活のありふれた危険、空模様などと同様、神のみわざに属する事象として扱うようになり文学にも影響を与えた。(383字)
問2
伝統的な知識や過去の出来事を教訓とすることの良い面は、先人達が暮らしの中で得た経験に基づいて培われた知識は、病気の治療・予防などのような、共同体にとってリスクをもたらす様々な問題に対処する方針を示す。それに加えて共同体の暮らしを安定させ、持続可能性を担保することに寄与する。
その一方で、悪い面としては、根拠のない迷信や因習に固執するあまり感染症の拡大を招いたり、特定の人を差別し排斥したりする危険性をはらんでいる。日本では、らい病患者の病気の原因を仏教的なカルマ(前世の因果)に求めて社会から排除してきた負の歴史があることを指摘したい。
伝統的な知識や過去の出来事を教訓とする場合に以下の条件が整った上で活用することが望ましい。その知識が人権侵害を起こさないか配慮すること、できるだけその知見に対する科学的な根拠を求めること。これらを踏まえて先人達が蓄積した伝統知に接したい。
(400字)
問3
洋の東西を問わず感染症は繰り返し発生している。人類の脅威として歴史を動かし、社会を変える動因となっている。ペストは当時のヨーロッパの人口の約三分の一を死滅させた。大航海時代には天然痘が中南米に欧州から持ち込まれ、多くのインディオを殺し、インカ・アステカ帝国を滅亡の淵に追いやった。ペリー来航後のコレラもコロリと呼ばれて人々を恐怖に陥れた。これらの感染症は資料1にあるように海上交通の世界的な進展、つまりはグローバリズムによる海を越えた人々の移動が活発化のもたらした災禍である。パンデミックとなった新型コロナウイルスも例外ではない。
試料4、6のように感染者の世界的な流行は患者分布の濃淡により民族間の差別が起こる。イスラエルやパレスチナで日本人が差別を受けたが、資料3のように日本国内では自粛警察による過剰な反応が社会問題となった。
こうした差別が引き起こされる要因として、2点挙げられる。第一に資料5のような、国の指導者の民族差別的な態度や政策である。第二に未知の病原菌やウイルスに対する人々の恐怖である。人は見えない脅威を特定の民族や感染者個人、さらには県外人に投影させて、これを排撃する。資料6で指摘されている、人々のコミュニケーション不足がこうした差別に拍車をかける。情報の不足が人々の心に疑心暗鬼を生み、ことさらに相手に対する警戒心を喚起する。これが行き過ぎた結果差別的な言動へとつながる。
差別を克服するためにはこの要因に対処してゆく必要がある。第一に国の指導者自らが差別は非人道的な行為であり、人の尊厳を踏みにじるものであるというメッセージを国民に伝えることだ。第二に「新興感染症などのリスクが発生した際、その情報を国の担当部署の責任者がわかりやすい言葉で正確に国民に伝える。それも、しかるべきタイミングが望ましい。人々のコミュニケーションも密にし、感染者や被災者の苦悩や苦しみを自分事として理解する。資料3のように差別する側がその自覚がない場合も多い。差別的な言動を取る者がいたなら、差別を受けた当事者や差別を目撃した人が、その言動は差別に当たることを当人に指摘することも大切である。
らい予防法でらい病患者への隔離や断種などの差別の歴史を持つ日本に生まれた私たちだからこそ、日ごろから差別に敏感になり、自らを戒める態度を持つことが求められる。
(1000字)
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