(1)問題
次の文章を読み、自分自身の経験をふまえて、「幸福であること」について1,000宇以内で論じなさい。
幸福論の幸不幸
① 世紀を跨いだ頃から、「国民総幸福度」(GNH:Gross National Happiness )が、国情、ないしは国家の発展を測る指標として人口に膾炙(かいしゃ)するようになった。1972年にブータン王国の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクによって提唱されたこの考えは、国民総生産(GDP:Gross Domestic Product)ないしは国民総所得(GNI:Gross National Income)という経済指標に代わるものとして広まった。社会のほんとうの豊かさは、経済の規模や成長度で測れないというところから、GDPに象徴されるような豊かさのイメージに対抗するものとして提唱されたのである。ちなみに、政財界の人たちがひたすら注視してきた「経済成長率」といえば、このGDPの伸び率のことである。
② 「国民総幸福度」でいう「幸福」は、国民の満足感の多寡で測られ、その満足感はさらに健康や心の安らぎ、寿命の長さ、失業や事故の少なさ、仕事と生活の調和などの観点から測られる。そしてそれを裏づける指標を求めて、「幸福に関する実証研究」なるものに取り組まれるようにもなっている。
③ しかしいざ「幸福とは何か」というふうにその定義をなそうとすると、それは日々の暮らしに満足できていることだとはかんたんに言えないことがあきらかになる。そもそも何を満足とするかについて、意見の一致を見ることは少ないからである。
④ 人間の行為はみな幸福をめざしているという点については、おそらく異議はなかろう。だが、いざこの幸福が何であるかと問いはじめると、意見はちりぢりになる。快楽だ、名誉だ、富だ、健康だ、というふうにである。けれども、快楽や名誉や富や健康、さらにはそれらを手に入れるための知恵や技能は、幸福になるためには望ましいものであっても、その逆はありえない。つまり、快楽や名誉や富、知恵や技能を手に入れるために幸福になるということはありえない。そういう意味で、アリストテレスは幸福を「自足した善」と呼んだ。つまり、「いかなる場合にもけっして他のもののために追求されることのないもの」、「つねにそれ自体として望ましく、けっして他のものゆえに望ましくあることのないようなもの」、それが幸福であるとしたのである。
⑤ が、そういう「自足的な善」を、個人の主観的な満足感、あるいは「安楽」という個人的な充足感と考えることは、あまりに単純すぎる。
⑥ まず、ひとは幸福の渦中にいるときはそれを幸福として意識しえず、それを失ったときにはじめてそれが幸福であったと知るということがある。「あのときは幸福だった」というふうに、幸福は失ってはじめて切にわかる。それに、あるとき幸福を感じても幸福感というものは長続きせずに凡庸な日常へとすぐに均されてしまうのがつねだ。幸福感覚としては持続しない。やっと試験が終わった」「きょうは出かけなくていい」といったときのほっとした感覚に見られるように、幸福とはむしろ移行の感覚のことであり、幸福になればもはや幸福とは感じない。つまり色褪せてしまう。幸福にはこのように、だれもが幸輻でありたいと願うのに、幸福と思っていたものを手に入れたとたんに幸福でなくなる。あるいは幸福でいつづけることはできないという、そのような逆説がまとわりついている。また、ある時点で満足だと思っていたものが、振り返ってとんでもない思い違いだったと気づかされることもある。ことほどさように、幸福は不幸に、不幸は幸福にたやすく裏返る。「幸福は糾える縄の如し」とは司馬遷の言葉である。このように見てくると、幸福に関しては、内容からはどうも十全に規定できなさそうである。
⑦ また「総幸福度」とか「総幸福量」とかいっても、一人の満足が別の人の不満の上に成り立っているという社会的事実を無視することもできない。その意味でも、幸福を個人の満足度に求めるのは虚構である。
鵞田清一『濃霧の中の方向感覚』
(晶文社、二〇一九年、一八五〜一八七より一部抜粋)
(2)解答例
一般的には快楽、名誉、富、健康などを幸福と捉える見方がある。これらの要素は幸福の前提条件を構成するかもしれないが、幸福になるための過程または手段にすぎない。幸福はあくまでも最終目標であって、快楽、名誉、富、健康は幸福そのものではない。また、試験や外出などのストレスのない状態を幸福として考える場合、苦痛のある状態が不幸であるということになる。逆に言えば、幸福とは苦痛のない状態と定義できる。
名誉、富、健康などは、数値化できるものであり、外形的に観察でき、客観的な尺度で計ることができる。GNHやGDPといった指標はこうした背景の下で登場したものである。しかし、名誉や地位もなく、所得が低くて財産も少なく、健康を害している人を不幸と断じることには不遜や傲慢を感じる。貧困で病気や障害を抱えた人々でも、豊かな人間関係に囲まれ、互いに助け合いながら、本人は幸せの実感とともに暮らしている人々も少なからず存在する。幸福観や現在自分が幸福であるという意識はあくまでも主観的な問題ということを第一に指摘したい。
次に、他人と比較してばかりいる人は不満が多く、欠落感から抜け出すことができずにいる。名誉、富、健康といった外形的な基準に照らして、客観的に恵まれているように見えても、本人は不幸を感じているというケースは案外多いのではないか。このことから、幸福は他人との比較から生じる差異ではない。どんなに富や名声があっても、上には上がいるもので、比較対象を変えれば自分が劣っていることが明らかとなり、いつまでたっても満足感が得られない。このことからわかるように、幸福とは他者との比較優位から発生するものではなく、他者の状態からは独立しているものである。
主観的で他者との差異ではない独立性が、幸福を構成する二大要素であると考える。したがって、具体的に何をもって幸福とするかは、個人の主観によって異なるから、明確化することは難しい。ただし、殺人や強姦、違法薬物の摂取といった犯罪、つまり他者に苦痛を与える行為を幸福とする主観に対しては、公共の利益という観点から許容されるものではない。個人の主観的な幸福は社会の他の構成員の幸福を棄損しないという条件が要請されることは言うまでもない。(953字)
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