「今、産業革命遺産(明治維新)が日本経済再生へのヒントに⁈💜」🎾🏸⛳⚾🏊🏓⚔️🚴‍♀️😎😍

記事
コラム
💎はじめに!
世界遺産でもある明治維新の産業革命遺産!(ラストサムライの偉業!)
・これは、当時、日本最大のピンチをチャンスに変えたという事。
・日本のものづくりの原点になっているという事。
・何と言っても日本経済の土台になっているという事。
ですから、今、日本経済のヒントを見つけるベスト参考書といえると
考えます。

💎明治維新によって日本は、近代化を成し遂げわずか数十年で
世界有数の大国となりました。
西洋技術を積極的に導入して、近代産業を発展させて、
世界でも例を見ない経済成長を遂げました。
同時に廃藩置県、四民平等、学制の発令、徴兵令、廃刀令などの
国の制度や仕組みを根本から変える改革を矢継ぎ早に断行。
驚くべきエネルギー!
こうして明治時代に形成された経済・社会の姿が今日の日本の基礎(土台)に
なっているのです。

ところで明治維新というものは、
「富国強兵策が日本の軍国主義化と太平洋戦争にあった!」
と言った批判的見方があります。
戦前の軍国主義や太平洋戦争と同じことを繰り返してはならないという事。
しかし、明治維新が直接的に太平洋戦争と結びついたわけではないのです。
明治維新前後の日本を取り巻く国際情勢を見ると
日本は欧米列強による侵略の危機にさらされていたという事実を
見落としてはいけないと思うのです。
侵略の危機から身を守るためには、国力を高めるという事が不可欠だったのです。重要なことは、ここでいう国力とは、軍事力だけではなく
経済力が大きなカギを握っていたという事が言えると思うのです。
だからこそ殖産興業政策がとられて産業革命が実現したといえると考えます。
こういうことがなかったら、
今日の日本経済の姿というものはなかったはずと言えると考えます。
そのための当然に負の遺産(リスク)も生じているわけです。


💎明治維新の前触れ!
・ペリー率いる黒船の来航
・欧米列強による侵略の危機

この危機を乗り切るために
薩摩藩・長州藩中心に、軍事力と経済力の強化を進めました。
これが、明治維新の原動力となったのです。
一方で幕府も近代に取り組んだのです。

幕府:軍事力強化の急務を考えました。
・長崎海軍伝習所を設立。
 勝海舟、榎本武揚、などの幕臣が、
 航海術、砲術、測量術などを学びました。
 同時に各藩にも呼びかけをしました。

薩摩藩士:五代友厚
西洋から蒸気船を購入。
英国に渡り、「武器弾薬・紡績機械」の大量買い付けをしたのです。
これが軍事力と経済力強化に役に立ち、
薩摩藩は討幕を果たすことができたのです。

海軍伝習所で学んだ人材がやがて討幕のために活躍をすることに!
そして、薩摩藩と長州藩が中心となって幕府を倒して
明治維新が実現することに!
新政府:富国強兵と殖産興業の推進へ!
その結果、紡績、造船、鉄鋼、石炭などの産業が
短期間で発展することに!
これが産業革命というものです。
同時に、急成長を遂げた経済力を背景に、
日本は欧米列強からの侵略を免れて近代国家の仲間入りを果たしたのです。

2015(平成27)年7月世界遺産に登録される。
(明治維新の産業革命遺産)
製鉄、製鋼、造船、石炭等
近代化の足跡としての功績。
産業革命遺産は、幕末から明治にかけての産業施設や史跡群であり、
鹿児島、長崎など九州各地と山口、静岡、岩手の八件にまたがる
23の施設で構成されています。


💎近代化の頭脳明晰&トップランナー佐賀藩(佐賀人)(美質人)
 「地方再生」の先駆け人、佐賀人(美質人)
 佐賀藩の台頭によって近代化に成功したことで
 明治維新という産業革命に繋がったのです。
 今、明治維新という革命というものが必要な時に来ていると感じています。


(当時の佐賀人の功績内容(ヒント)について!)
佐賀藩の諸政策は、
①農政(土地制度の改革)により農村の再建と階級化の阻止。
②殖産興業政策の推進。
③洋式工業の導入による富国強兵策。
これらの政策が推進されて、領国体制(藩体制)と軍事力創出で
近代化に成功!
この成功が土台となって明治維新という産業革命へと繋がったのです。
これが世界遺産として登録されたわけです。
このことが佐賀藩の歴史的意義であり
佐賀人=美質人と言われる所以なのです。

Ⅰ(殖産興業政策の推進)
当時佐賀藩は長崎警備の増強を藩政の主務としていました。
嘉永五年に製錬方というものを設置しました。
「科学技術の研究」を推進したのです。
そして、長崎を基点に外国貿易を中心として、
殖産興業政策に乗り出したのです。
「有田、伊万里の陶器業」に対しては早くから保護と統制を加えてきているのです。
仕組みの再編・強化を迫られることで、陶器専売制というものを取り入れたのです。
そして、「均田政策」の成果として、
藩権力による富国政策の基礎が形成されたのです。
嘉永六年(1853)には、長崎に佐賀商会を設けて、直接オランダ人と取引をして、慶応三年(1867)には上海に支店を開設して海外に販路を拡大した。
同年パリでの万国博覧会に有田焼を出品するまでになりました。
こうした外国貿易を中心とする殖産興業政策をさらに推進したのです。
代品方を設置して、
オランダに注文した蒸気船の代金に充てるべき代わり品として
国産品(白蝋)による代価支払いを断行開始させたのです。
また。自由貿易の開始に伴い
万延元年(1860)二月、器械卸取入方を設置して、
領内の蝋統制を強化することで、産物方は海外へ進出して
通商交易を拡大して大きな利潤を獲得しました。
佐賀藩における殖産興業政策が、藩財政の再建強化となり、
同時に軍制改革(軍事力の再編強化)と一体的に推進して
良き成果を上げられたことで
自ずと明治維新の立役者となり同時に佐賀藩の経済基盤というものが
形成されて行ったのです。
また、代品方が白蝋とともに国産品の対象としたのが、石炭とお茶です。
石炭はすでに盛んに採掘されていて、
安政元年には長崎港外の高島で4.166万斤(きん)の出炭があったのです。
安政五年、鍋島直正は領内の埋炭地を調査させました。
その結果、西洋式の新技術で藩直営の炭坑を興す計画を立てて
イギリスから機械を購入して、グラバー商会と提携をして、
明治元年正月、近代的機械操業によって高島炭坑の開発に着手したのです。
グラバー商会との合弁事業による出炭高及び販売利益というものが
大きかったのです。
佐賀藩の取り分は、半年間で12万3700両、月に換算して約2万両!
佐賀藩は高島炭坑の合弁事業を通じて多額の利潤を獲得したのです。

次にお茶は、安政三年お茶の仕組みから宇治茶の栽培製法を採用して
翌年6月には茶株の植え付け調査行い、
その結果59万1008本の茶株が確認されたのです。
文久に入ると長崎での外国人による売り込みのため
代品方において嬉野茶の製造販売を開始しました。
お茶の製造販売も軍事品購入の代わり品として推進したのです。
元治に入ると外国商人の売り込みが増加したので、緑茶の製造を始めました。
さらに慶応三年九月には御軍艦御取入方において緑茶製造を行い
外国の軍艦購入のための資金としたのです。


Ⅱ洋式工業の導入と富国強兵策

佐賀藩における洋式工業の導入
1⃣蘭学と科学技術の研究
佐賀藩における洋学は、まず医学の研究に始まりました。
蘭学医術が次第に藩内において発展をしていきました。
蘭学者伊藤玄朴、大石良英らがシーボルトに医学を学びました。
藩主鍋島直正は、世子淳一郎(直大)にまず種痘をほどこして
範を示し引痘方を設けて藩内に種痘させたのです。
種痘とは、天然痘を予防する方法の事です。
天保五年(1834)にはすでに医学館が設けられて、
嘉永四年(1851)には、その中に蘭学寮が設けられたのです。
当初、蘭学寮において学ぶものは、医学志望者に限られていましたが
医学に付帯する理化学が薬剤から火薬、雷粉の研究に及ぶに至って
火術によって立身しようとするものが次第に蘭学を研究するようになったのです。
こうして安政元年(1854)蘭学寮が医学館より火術方に移されました。
蘭学寮は軍事科学の研究機関になったのです。
安政二年(1855)には長崎で海軍伝習が始まると
蘭学寮出身者は、オランダ人教師について
銃術、砲術を練習するとともに、
造船、機械、採鉱、治金、電気、薬剤などの技術を習得して
洋式工業創設のための条件が整えられたのです。
佐賀藩における科学技術の研究は、
「長崎御番役」を提案する佐賀藩にとっては、
長崎警備の不備を痛感するという結果となり
防備拡充、軍備増強が急務となったのです。
これに伴い藩政改革の一環として、
洋式工場の開設と兵制の改革、さらに新軍事力の創出というものを
課題としたのです。
この当時のヨーロッパ諸国は、産業革命を終えていて、
兵器の発達が著しく、これまでの我が国の兵器では
到底この新兵器を搭載している外国艦船の侵入を防ぐことは
不可能と判断したのです。
そこで、長崎港外に新鋭の「砲台」の構築の必要に
迫られたのです。
藩主直正は早くからその必要性を痛感していました。
そこで嘉永四年(1851)長崎港外の自藩領の島々に
多くの砲台の備え付けを命じたのです。
神ノ島二十八門、伊王島二十六門でした。
多数の大砲を鋳造することは、これまでの
石火矢製造の方法では不可能でした。
そこで佐賀藩は、各藩に先んじて反射炉を築いたのです。
この反射炉築造により、
造船、化学工業というものを興すことに繋がったのです。
嘉永五年(1852)には、国産方の中に製錬方を設けて、
理化学の研究に力を注いだのです。

佐賀藩が起こした洋式工業の最初は、
長崎警備のための鋳砲事業でした。
これより先には、寛政年間には石火矢二十八艇を新造して
長崎台場に備え付けて、
さらに、文化年間には数門の大砲を鋳造しました。
しかし、いずれも旧式だったのです。
天保初年、カノン・モルケール・ホウィ・スルなどの
新式巨砲の渡来を契機に大砲鋳造の研究を始めるに至ったのです。
天保十三年(1842)には、十五御茶屋に藩営の蘭伝石火矢製造所を建設して
新式砲の鋳造を開始できるまでになったのです。
ここで問題が起こりました。
新式砲は銅製砲だったのです。鉄製法ではなかったのです。
しかしここでも佐賀藩の人達はめげずに諦めず、
長崎警備の増強に迫られていた佐賀藩の人達は機転を利かし
洋式反射炉を築造して、鉄製砲の鋳造を開始できるまでにしたのです。
こうして嘉永五年(1850)大砲製造方を設けました。
工場敷地を佐賀城の西北築地に選定をして
反射炉を始め、錐産台、水車などの鋳砲設備を整えて工事に取り掛かったのです。
しかし、鉄での鋳砲は、意のままにならずに失敗しては研究を重ねるという
事が続いたのです。
そして、嘉永五年に成功したのです。
同年九月までには鉄製砲四門を鋳造したのです。
翌年には幕府からの注文を受けるまでになったのです。
ちなみに薩摩藩は、佐賀藩から図面を送ってもらい大砲鋳造にとりかかっていたとか!
これを契機に反射炉の規模を拡大させたのです。
公儀御用石火矢鋳造立所なる表札もかかげたのです。
その後鉄砲事業は順調に進み、山砲、野砲を鋳造しました。
文久三年(1863)には、
最新式のアームストロング後装施条砲の鋳造を開始したのです。
こうして慶応二年以降さらに三十九艇を鋳造したのです。
この佐賀藩での大砲鋳造に多大な貢献をしたのが、
久留米(福岡県)人の田中久重氏(からくり義衛門)(東芝創立者)だったのです。佐賀藩は一方で小銃の製造も行っていたのです。

佐賀藩における洋式工業の第二は、
造船及び蒸気機関の製造事業です
嘉永六年(1853)幕府の「大船製造禁止令」が解除されると
早速オランダに対して蒸気船を注文しました。
車船製造方を設けて蒸気船製造の準備に着手しました。
安政二年(1855)長崎で海軍伝習が始まると、
造船技術の習得のため、藩士(伝習生)四十七人を派遣しました。
また、精錬方において蒸気船構造の研究や蒸気機関車のひな型の製作、運転を
試みました。
ちなみに「蒸気船代品取調懸合」(代品方)を設置しましたが
これ以降、代品方は殖産興業政策を推進する機関となったのです。

こうして安政四年(1857)には、
長崎の大波止造船所においてはオランダ人技師を雇い入れて
コットル型帆船の製造に着手して、
翌五年には排水量50トンの木製品帆船を製造するまでになったのです。
また、同年に先にオランダに注文した蒸気船、電流丸が到着。
ところがこの電流丸の蒸気機関を改造する必要があると判断したのです。
そこで造船所の設置を行い、
文久元年(1861)蒸気機関の改造が成功しました。
同三年には三重津にも造船所を作り
慶応元年(1865)には、蒸気船、凌風丸を完成させました。

佐賀藩は、
殖産興業政策とタイアップしながら、洋式工業を導入し
洋式反射炉の築造(大砲・小銃)をはじめに
造船、蒸気機関の製造、造船所の建設、蒸気船の製造により
軍事力の近代化に成功したのです。
同時に、軍事力の近代化にも成功しました。
また、新「分限帳」の作成による全家臣団の把握とあいまって
幕藩制国家の諸藩の中で、最強で最大の近代化された軍事力を保持するに
至ったのです。
明治維新における佐賀藩の活躍(貢献)というものは、
経済力つまり、産業革命というものに繋がり、
さらにその革命による遺産というものが世界遺産となっているのです。

今日現在令和8年(2026)、
日本経済の再生の参考としてヒントになる可能性が多大と
考えている次第です。


💎産業革命遺産の二つの特徴!
①「シリアルノミネーション」方式。
②稼働中の施設も遺産に含まれているという事。


💎日本経済再生への三つのヒント!

最近の日本経済は長年続いた低迷から脱して
本格的な復活に向かって動き出していると思うのです。
しかし、まだ不十分であり世界経済も依然として不安定と言えると
思うのです。
もうひと踏ん張りが必要だと思うのです。
そのような中で「明治維新による産業革命遺産」は
日本経済再生のヒントを与えてくれていると思うのです。

1⃣この遺産が示すようにモノ作りの技術をもっと磨いて
日本ならではの力を発揮していくことが再生につながると思うのです。
近年の日本はすでに中国に追い上げられていますが、
それでも製造業の力は世界最高水準であり、
他の国にはマネできない
技術力やサービス、ホスピタリティー(おもてなしの心)を持っているはずです。日本企業はこの点に自信あるいは視点をもって活動すべきと思っている次第です。
私思うのですが、日本人の技術力のベースとなっているのは、やはり、
海外の国の人達が備えている想像力を具体的な形にできているものを
習得できて、それを日本人のフィーリングにあわせて作り上げることができて
さらにそれを海外の国に対して商売ができるということだと思うのです。
しかし、これは今までの日本人だと思うのです。
これからは、国レベルでの商売としては、レアアースを商売の材料にし、
日本の地方、市町村レベルで海外の国に対して直接商売できる殖産興業を発展させての地方富国ということをやって行くという時代だと思うのです。
故に、これが地方再生つまり田舎力というものだと思っている次第です。
日本という国はどうあがいても、田舎というフィーリングの街(県)の集合体
なのですから.....!!!
これからの日本が経済再生への道としてあるのは今まさにこれだと思うのです.....!!!

2⃣ピンチというものはチャンスに変えられるという事です!
思えば先人たちは、
幕末の黒船来航と欧米列強による侵略危機という最大のピンチを乗り切り
そのエネルギーで新しい近代国家を建設してチャンスに変えました。
しかも、佐賀藩、そして薩摩や長州など西南雄藩は、今で言う「成長戦略」によって、経済力を高め明治維新へと繋がったのです。
それはすべて「自力!」です。
国の補助金も地方交付税というものもない、
地方創世の先駆けと言えるのではないでしょうか!

3⃣先人たちが幾多の困難を乗り越えて新しい時代を作りあげた
チャレンジ精神です。
薩摩藩が若い藩士19人を密かに英国に派遣しました。
その船出した場所というのが、
鹿児島県いちき串木野市羽島の海岸で、
目の前には、180度以上の視界に東シナ海が拡がっています。
まだ海外渡航が禁止されていた時代に決死の覚悟であの水平線の
はるか向こうの英国に向けて船出して行ったのです。
当時の人達には、計り知れない高い志があったというほかは
ないと思うのですが....!
刀を技術に持ち替えたサムライたちも、
そして厳しい環境のもとで働き、近代化の礎となった幾多の労働者たち。
そんな先人たちの知恵とエネルギー、そして、
「新しい日本!」を作るという彼らの高い志に学べば、
我々も日本経済を本格的に復活をさせて
新しい時代を切り開くことができるはずです。
明治日本の産業革命遺産は、それを私たちに教えてくれていると
感じています。
先人の残した遺産を日本経済発展のために生かすことは
我々の未来への責任!と思うのです。
地方創世、地域活性化を行い続けること。
そのことが日本国の経済再生へと向かう起爆剤となり得るはずと
考えている次第です。
今の社会の流れに即しているので、
まさにピンチはチャンスと言えると思うのです。
日本国民一人一人が自分にできることは「これだ!」と気づいて
実行あるのみでは~!!!
以上です。


💜日本人に幸あれ~💜!!!


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