「誰か(日本人)の言葉Ⅲ⁈💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓🏸🤿😎😍

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(アンケートで新しいものはつくれない!)

近頃、一流の経済雑誌なんかが、どのくらいの値段で、
どういうタイプの製品を作ったらいいか、アンケートを取ったらいいじゃないかと麗々(れいれい)しく書いている。
私はこれを見てがっかりした。
大衆にアンケートを取って聞くことは参考にはなる。
たとえば、自分の蒔いた種がどの程度大衆に受け入れられているか
または不満があるかといったものなら賛成だ。
しかし、未来のものについて、何だかんだとアンケートをとるのはおかしい。
なぜなら、物を作ることの専門家が、なぜ素人の大衆に聞かなければ
ならないのだろうか。
それでは専門家とは言えない。
どんなのがいいかを大衆に聞けば、その時点でそれは古いことになってしまう。
素人が知っていることなんだから、ニューデザインではなくなる。
大衆の意表にでることが、発明、創意、つまりニューデザインだ。
それを間違えて、新しいものを作る時にアンケートを取るから、
たいてい総花式なものになる。
他のメーカーのあとばかり追う事になる。
いわゆる職人になってしまう。


(気づくことがスタート!)

工場の能率にしても技術的にどうしても解決しなければならないということは、案外少ない。
第二義的なことが多い。
いちばん大切なことは時間である。
倍増産したければ、半分の時間で仕事をすればいいのだから
これは誰にでもわかる。
割り算も代数もいらない。
足し算と引き算さえあれば、誰でも能率を上げることができる。
我々が行動する場合には、気づくことが先決条件である。
技術があれば何でも解決できるわけではない。
技術以前に気づくという事が必要になる。
日本にはいくらも技術屋はいるがなかなか解決できない。
気づかないからだ。もし気づけば、
ではこれを半分の時間でやるにはどうすればいいかという事になる。
そういう課題が出た時に技術屋がいる。
気づくまでは素人でもいい。
そういういちばん初歩のところをみんな置き忘れているのではないかという気がしてならない。


(苦しいことをやるのが責任!)

あるメーカーの自動車は、二十年来ジョイントがガチャガチャいっている。
そこには優秀な技術屋もたくさんいるはずだ。
そしてその音を聞いている。
それなのに治らない。
どうして治らないかと言えば、私は、道徳の欠如だと思う。
こんな品物を出して、申し訳ないという道徳的な気持ちが少しでもあれば、
素人でも治るはずだ。
自分のところでできないなら、人から特許を買ってきても直す意志さえあれば
治る。
これでは徳義がないために放っていると判断する以外にない。
これは技術屋の責任だし、トップの責任でもある。
私がそこのトップなら徹底的に直させてしまう。
それをもしワンマンというのだったら、喜んでその名に甘んじる気である。
人間というもの、一度やると、それからあまりはみだしてやるのは
イヤなものだ。
とにかく苦しいことは誰も好んでやる気はしないが、
そこをあえてやるのが仕事に責任をもつ態度と言える。


(下請けまかせにするな!)

銀行からの大切な金を使って機械を買い込むよりも、
下請け制度をうまく利用すれば、不景気のときの安全弁にもなるし、
経営そのものも楽になるんじゃないかと忠告されたことがある。
下請けに対するこういった考えは、日本では経営者の常識になっているが
私は、こういう考え方には反対である。
もちろん、企業はカネなしでは経営できない。
しかし、何よりも大切なことは、工場の一人一人の技術水準が
非常に高いということではないだろうか。
それを不景気の時に安全だからと言って、
なにもかも下請け会社に任せていたのでは、レベルアップはできない。
そうなればいいものができるはずはないし、金も集まりっこないわけだ。
だからうちでは、工場が立て込んでいて、手が回らないものだけ下請けに出すが、原則的にはすべてうちでつくる。
日本では、メーカーがあって、その下に下請けがあるという具合に
とかく下請け会社が従属的な地位に置かれているが
うちには、昔の親子関係みたいな親会社、子会社という関係はない。


(技術者はとことんまで!)

うちはいつも車の値段を下げてからコストダウンすることにしている。
また、輸出するんだからいくらまけろ、というようなみみっちいことは
いわない。というのは、
輸出価格と国内価格と二通りに分ける考え方をしていないからだ。
そのかわり、オートバイの国際的な価格というか、
太い線が歴然とあるわけだから、そこまでもっていくために、
どうしても障害になるような部品の値段だったら
うちでやってしまうという考え方をしている。
だから、完成車が輸出できないのは部品が高いからだといって、
責任を全部部品メーカーにしわ寄せすることには反対である。
もし、部品が遅れているのだったら、完成車メーカーが責任をもって
引き上げて行くべきだし、それがやれないようなら
どっちもどっちという事になるわけである。
技術者というものは、とことんまで責任を持つべきである。


科学技術とウソ!)

科学技術を通しての商売には、ウソが許されないから怖い。
だから工場を経営するものに、ウソがあったんではこのうえもなくまずい。
なぜかと言えば、科学技術というものは、理論を基礎にしている。
理論そのものは非常に冷たい。
そういうものの集積に、人間の血を重ねたものが製品という事になる。
口で言ったり、文字で書いたりするものには、ウソが入りやすい。
ウソ発見機なんて機械で調べたって、ウソはなくならない。
ことに政治家なんてのは、相当にウソをつく。
しかし、そういうふうなウソは、ある程度、本物らしく通用する場合も
あるが、我々が作っている技術的な製品にはウソがない。
ここが大切である。
それに一度くらいならウソは通るかもしれない。
しかし、永久にウソをつきとおすことは不可能である。
人間も同じである。


(技術に政治的解決はまずい!)

世の中には、政治的解決というのが大変好きな人がいる。
何かコトが起きると、それは誰それさんが顔が広いから、
彼に頼んだほうがいいとか、それなら俺にまかしておいてくれと
ポンと胸を叩く人がいるが、私はこういうやり方が嫌いだ。
私なんか、根が馬鹿だからかもしれないが、他の事は一切構わずに
ひとつの仕事だけにムキになって打ち込んでも
まだまだやり足らずにいるのに、人の事をああでもない、
こうでもないといった風によくやれるもんだと感心する。
そういう人は、よっぽど能力のある人なのだろうか、
私の立場から見ると、どうもオーソドックスな仕事のやり方だとは
思えない。というのは、
そういう人たちは、何か問題が起きると、すぐに
肩書を利用して政治的に解決することが多いという事である。
政治的解決の通用する世界もあるかもしれないが
こと技術に関しては政治的解決はまずいことこの上もない。
解決したように見えても、それはうわべだけで、技術の本質をかくしおおせることはできない。


(熱い人間の面目!)

自動車というものは、人命を預かる機械だから、つくる側に徹底した
慎重さが欲しい。
科学技術というものは、権力にも経済的な圧力にも屈してはいけないものである。
ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたように
権力をもったものが、どんなに真理を否定しても、真理は真理として残る。
真理は一見冷たい。
しかし、その真理を押し通すところに、熱い人間の面目がある。
工場には、その冷たい真理だけがある。
真理だけが充満していなければならぬ。
こういう体制を押し通していけば、少なくとも機構上の欠陥からくる
事故はほとんどなくなるはずだ。
悪いところに気がついても、いま変更したら金がかかるとか
混乱するとか、発表したばかりのものを改造するのはみっともないとか
変な面子がからんで、ズルズルと見て見ぬふりをすることがある。
うちは面子がないから、悪い所を見つけ次第改造してゆく。
ラインに乗せてからも一日に数回変更することもある。
そのために、工作機械の位置を大幅に移動させるようなことも少なくない。


(従業員すべてが文化人!)

日本ではちょっと歌がうまかったり、踊りが上手だったり、筆がたったり
すると、すぐ文化人だとみんなから奉られる。
しかし、文化人にいちばん大切なものは、
人間性があること、思想がしっかりしていることであるべきだ。
それが欠けているようじゃ、文化人ではないはずだ。
それは職人にすぎぬ。
ひがむわけではないが、事業をいくら熱心にやっても、我々を文化人と
誰も見てくれない。
これだけ便利なものを世の中に出して、
代理店や下請けから従業員までたくさんの人間を、一つのアイデアで
食べさせ、それなりに大きく貢献しているつもりなのに
文化人の中には入れてくれない。
これはどうしたことだろうか?
過去においては経営者と言えば、大勢の人間をこき使って自分だけ儲けて
いるような人が多かったし、資本を集めてそれを増やし
資本家に還元する人種だったが、今はそうではない。
少なくとも私は、社会事業の一端を担っているという気でいる。
そういう意味で、私は、文化人であり、うちの従業員もすべて文化人だと
思いたい。


(経営は社会事業!)

官報というものがある。
法治国家である限り、国民はすべて官報を読む義務がある。
ところが官報を読む人は割に少ない。
それを読まなくても生活できるからだ。
しかし、新聞も見ない、映画もテレビも見ない、ラジオも聴かないで
いるわけにはいかない。
それでは世の中から遅れて敗残者になってしまう。
これは官報以上の威力を持っている。
現代の文明とはそういうものだ。
しかも新しい製品がどんどん発明され、それだけカネのいることが多くなる。
それに比例して給料が増えるかというとそうはいかない。
結局、製品のコストダウンをやって、世の中の人の給料を全部上げたのと同じことをやらなければならない。
工場の経営者はそれを義務付けられている。
これが社会事業でないというのはおかしい。
ところが汝ら搾取者(さくしゅしゃ)、支配者よということで
ポンと片づけられる。
そして、いつまでたっても文化人にはなれない。
どうみても公平ではない。


(積もり積もってが恐ろしい!)

とにかく楽しみながら、どんな小さいことも観察していくこと。
これがないとすべては成り立たない。
だからエンジンでもひとつひとつ追って行くと
誰にも分る構造になっている。
しかし、みたところ複雑なもんだから途中で観察することを放棄してしまう。
これでは、いつまで経っても素人である。
大きな故障なら素人でも発見できるが、小さい故障は商売人でなきゃ
駄目だ。ここが境目である。
うちでも、いろんなエンジンの試運転をやっているが、大きなことでは
故障にはならない。
故障するところは、何日もたって調べなければならないところ、
わかってみるとなんだこんなところかというところが多い。
経営でも同じことである。
大きなことでつぶれるという会社はまず少ない。
個人商店は、
店主その人の考え方、資質、倫理観(よかたい、よかたいではダメ)になる。
たいていは、気がつかないうちに、細かいことが積り積もっていろんな問題が
起きてつぶれるというのが多い。
そこを手遅れにならないうちにひとつひとつ適切な処置をとるのが
経営の専門家の仕事である。


(おカネはきちんと回してこそ!)

この間、ある自転車関係の新聞が、当社は、メーカーだけ儲けて
下請けやディーラーは塗炭(とたん)の苦しみをなめていると書き立てたが
これなんかどういう事を理由にして言っているのか、こちらにはよく
わからない。
うちがカネの吸い上げが激しいことは、自他ともに認めるところだ。
よく飲み屋なんかの壁に
「貸して不仲になるよりもニコニコ笑っていつも現金」というような
セリフが貼ってあるが、品物を渡して、おカネをもらうのは当然の話で
当然のことをやって恨まれる理由はない。
その金で、お客に気に入るような車の研究ができて、
よそから真似られるような製品を出しているというプライドが生まれ、
ディーラーも張り切って仕事ができるという分けである。
こちらは金のなる木を持っているわけではないから、
カネがなければ研究もやれないし、下請けにも仕事を頼むことができない。
取り立てたおカネを、重役が栄耀栄華(えいようえいが)に使っているというなら非難されても仕方がないが、そうでない以上、
罪の意識にとらわれるという手はない。


(自動車のマージン!)

自動車のマージンが少ないという不平をよく聞くが
産業が近代化すればするほど、マージンの幅が減ってくることを
忘れてはいけない。
マス・プロに対するマス・セールスというわけで、数でこなすということが
基本になってくる。
電化製品は、安売り問題が起きて手を焼いているようだが、そういう点では、
自動車なんかと比べて、産業の在り方そのものが違っている。
自動車やオートバイというものは、人間の生命そのものを預かる機械である。
一歩あやまれば、重大な社会問題になる恐れがある。
従って、性能と品質そのものをトコトンまで突き詰めなければならない宿命が
ある。
もうひとつ、自動車は性能そのものの比較が日常普段にやられている。
自動車は道路を走らなければならない。
道路にはたくさんの自動車が走っている。
そこでは否応なしに、出足とか、操縦性とか、ブレーキとかが
他車と比較される。
お客さん自身が乗ってみれば、どの車がよくてどの車が悪いか
一目瞭然なわけだ。
ここではゴマ化しは一切通用しない。


(車に広告は必要ない!)

自動車は、値段もさることながら、それ以上に本当の性能で
勝負しなければならないから、値幅を割合狭くして、限度いっぱいのカネを使って、性能、安全性の方を追求しようということにポイントを置く。
したがって極端に言えば、
自動車なんてよいものを出していれば、宣伝しなくてもいいことになる。
テレビ広告で見たとか、新聞で見たとかいうことは、
買う動機にはなるが、広告だけでどの車を買おうという決定はしない。
決定する場合は、必ずと言っていいほど、いろんな自動車に乗っている人に
相談するし、その人の意見が大きなウエイトを占める。
一度、自動車に乗ったことのある人なら、あの車は値段が安いから買えという人は少ない。
あれは長持ちするし、性能がいいから買えということが多い。
つまり電化製品や薬は、広告イコール販売につながるが
自動車は間接にしかつながらないという事である。
したがって、自動車の広告というものは、売るための広告というよりも、
知らせるための広告という事になる。


(増産が宣伝!)

量というものは、性能と結びついた時、宣伝の面で大きな役割を果たす。
カブは、今の段階では、広告するよりも、増産する方が売り上げをさらに
伸ばす一つの決めてみたいなものになっている。
なぜ、増産すればいいかといえば、
それはカブ自体を多くの人に身近に感じさせるからだ。
多くの人が方々に乗って走れば走るほど、あれはいいという事になる。
こうなると、あまり広告を出す必要がないという事になる。
自動車というものは、毎日音を立てて、メーカーのマークを背負って
街中宣伝して走ってくれているようなものだから、有難いものだ。
メーカーの立場から言えば、こんなに恵まれた商品はあまりあるまい。
お世辞をいう代わりにいい性能の車を大量に出せば通るのだから
私のような性分には、ピッタリあった商売だと言える。


(品物自体が誇り!)

たとえ「三十年の歴史」といっても
年数だけ経てばいいという思想にはついていけない。
年数が尊いのは、その内容がいいときであって、その内容を
作るために年数がいるというなら話は分かるが
年数が古いほどいいという意見には、承服できない。
内容を抜きにした伝統論は、ブレーキの役しか果たさないことは
自明の理である。
誇りあるものは、伝統でも会社の大きさでもない。
工場の立派さでもない。
品物自体である。
それを忘れては話にならない。


(見ると観る!)

ある時、私は、農村の青年団から講演を頼まれた。
その時に「創意工夫はどうすれば生まれるか?」という質問が
出て弱ってしまった。
そこでまず君たちに聞くが、牛の角(つの)はどこについているか知っているかとやった。
ところが、毎日その手で牛を引っ張っている青年たちが何百人もいながら
「さて、どこに角がついていたかなあ」と腕組みして考え込んでいた。
逆に東京の人の方が牛の角のありかを知っている。
試しに親しくしている高沢画伯に聞いてみたら、牛の絵を描いて
頭の後ろにあるじゃないかとすぐ答えた。
つまり、農村の青年にしてみれば、牛の角が尻尾の先についていようが
背中についていようが関係ない。
要するに買うときに安く買えて、売る時に高くて、
途中でよく働いてくれればいいわけで、即答できないのは当然である。
これは同じ「みる」でも見学の「見る」で、観察の「観る」を
やっていない証拠といえよう。
これでは創意工夫など生まれっこない。


(どうして、なぜ、が尊い!)

最近うちの工場を見に来る人が多くなった。
ところが大半が見学組で、勧学組は案外に少ない。
だいたい人数と、組織や機械数などを聞く人は、まず
見学組とみて間違いない。

そんな事には無関心で、
この機械をどうしてここに配置したのか?
自社製の機械をなぜ作るのか?といった質問を出す人は勧学組だ。
この間、ソ連の機械視察団に工場のあらましを説明したところ
オートバイ屋に工作機械部門があるのはおかしいときた。
工作機械メーカーに任せれば、安くて立派なものができるだろうというわけだ。
では、工場を見てくれとつれていったら、なるほどとうなっていた。
うちの工作機械は手が込んでいる。
違う機械のヘッドを取り付けたり、好きなところに穴をあけたり
天衣無縫(てんいむほう)に改造してあるもんだから
これじゃ工作機械メーカーに注文してもできないだろうと感心していた。
これなんか代表的な勧学組である。


(人に聞く!)

だいたい私の人生は、いわゆる見たり聞いたり試したりで
それを総合して、こうあるべきということで進んできた。
もし、わからないようなことがあると人に聞いていた。
逆に、聞かれた方も聞き返すことに事によって、知識が得られるのだ。
また、その道の専門家に、課題を出して聞いた方が早い。
そして、それを自分の今までの経験とミックスして、
これならイケるということでやっているだけ。
世の中の人は、ピンからキリまで私一人でやっていると思っているようだが
とんでもない。
結局、私の特徴は、ざっくばらんに人に聞くことができるという事ではないかと思う。
これが、今の時代では、スマホから、AIから~!!!という事に!


(進歩しない権威者なんて!)

オートバイ雑誌が増えて、オートバイの評論家というものが
たくさんできたようだが、
日本では、オートバイの権威者なんてそうザラにあるものではない。
本当のオートバイの権威者というものは、工場で黙ってコツコツと
オートバイを作っている人間である。
これは真剣勝負だから、おのずから研究も深くなる。
古い時代に習った、古い物差しでやたらに人のやることを批評して
歩かれたのではたまらない。
権威者の古い物差しに合わせれば叩かれないが、
これではお客からクレームが出る。
権威者はいいっぱなしですむが、こちらは間違えばすぐ干しあがってしまうの
だから厳しい。
権威者は素人を馬鹿にするが、素人でも時間をかければわかるようになる。
悪い絵を長い間見ていれば飽きてくる。
車でも同じだ。
しかも自分のカネで買って乗っているからきびしさはひとしおである。
時代とともに進歩しない権威者は、やがて大衆を引きずる神通力を失って、
自分だけの権威者になってしまう。


(知恵負けに用心!)

私は、戦争中にプロペラを作るのを手伝ったことがある。
早速、私と会社の正式な設計屋がそれぞれ青図を引いた。
私はこの機械はこうこうこういうわけで動きます。
この部分は、私が前にやってみたことがあるから、
絶対に大丈夫ですといった。
経験ばかりがいいというわけではないが、
人を引っ張って行くには経験が大きな重みをもってくると今でも
思っている。
とにかく実際にやってみると、やる前のイメージとは、受ける感じが違う
という事。
とにかくみんな頭が良すぎるから、物事を複雑に考えすぎる。
言ってみれば、知恵負けするわけである。


(私の最も苦しい時代!)

二十五歳の時だったか、私は自動車のホイルの特許を取った。
非常に好評で、インドあたりへも輸出し、大変な金儲けになった。
従って私は、資力的にはすでに恵まれていたのだが、
ピストン・リングの製造を開始するや、瞬時にしてその大部分をすってしまった。
失敗につぐ失敗、それは結局私に基礎がないために他ならない。
この時ほど、私は自分がその学校時代、学問を放擲(ほうてき)して
遊びにふけっていたことを悔いたことはない。
学問は学問、商売は商売だと別物にみなして説く人もあろう。
しかし、学問が根底にない商売は、投機に過ぎず、真の商売をすることの
味はわからない。
だが、骨身にしみた自らの基礎の薄弱さを悔いる経験が、強く私に
そう悟らせたのだ。
三十歳の手習いだった。三年間の聴講生として工業高校で学問をした。
この時代が最も苦しい時であったろうか。




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