💜哲学&思想&デザイン!!!
(人間の機微に触れる!)
私は技術屋だから、人間性云々に気が回らないというかもしれないが
うちの製品はあくまでも人間が買ってくれてるものだ。
だから、人間が好むものをわれわれが作る、というのが条件のはずだ。
いくら技術屋だからと言って、人間の機微に触れるという根本の哲学をもっていなければならない。
研究所員というものは、すべからく人間の気分を見抜くことが目下の
急務のはずだ。
(自分流の一生懸命では駄目!)
メーカーとか技術屋は、前に出た数字と後に出た数字とを見比べて
上がっていれば喜んでいるような傾向が強い。
いわば数字に頼りすぎているわけだが、お客さんは数字じゃ納得しない。
あの車、この車に実際に乗ってみて、両方の比較でいい車を判断する性質がある。
小学校の運動会で、子どもたちはみんな一生懸命に走る。
それでいて、一等、二等からビリまでの差がつく。
それと同じで自分流に一生懸命にやっただけでは駄目という事を
われわれ技術屋は肝に銘じる必要がある。
(ロバをかついで歩く!)
各社のレーサーをよく見ると、地味で見栄えはしないが、
毎年こつこつ性能を上げているところがあるかと思えば、
世界の先端を行く技術をねらって毎年猫の目のように
化粧替えに忙しいメーカーもある。
こういうメーカーの新しいことを追求する努力には敬意を払うが
どうも主体性というものが感じられない。
どうして前の方式をしっかりマスターしないで、
新しい方式に切り替えたのだろうかと首をひねりたくなる。
そういう車に限って性能に安定性がない。
ドイツにこういう小話がある。
父親と倅がロバを引いて旅に出た。
道で一人の男に会った。
彼は、どっちか一人がロバに乗ったらどうだと忠告した。
父親は、倅をロバに乗せた。
また、一人の男に会った。
今度は、父親が歩くなんて気の毒だというので
倅が下りて父親をロバに乗せた。
三番目の男に会うと、親が乗って倅をロバに乗せないなんてと言われた。
父親と倅は困ってしまい、ロバを二人で担ぐことにした。
自分というものを持たずに、人の言う事ばかり聞いていると
ロバを担いで歩くことになる。
(民族性が製品に出る!)
品質の均等さと言えば、やはりドイツである。
五台走れば五台完走する。という具合にまったくムダがない。
ドイツに行って、日本のウナギの蒲焼みたいなものをご馳走になったことがある。
ところが、これは図体が大きいばかりでものすごくまずい。
日本の蒲焼を食べている舌では、食べなくちゃ悪いとは思っても、
とても食べられない。
そういう時向こうの人間は、これは栄養があるから食えと勧める。
しかし、日本人は、栄養があるから食べるんじゃなくて、
うまいかまずいかで食べる。
それを言うと、なんて日本人はバカな野郎だというような顔をしている。
日本人は、海苔とかウニとかお茶漬けとか色や香りや微妙な舌触りを
楽しんで食べるが、ドイツ人は、自分の体に忠実たろうとして
栄養本位に食事をしている。
これはどっちも行き過ぎだろうと思う。
とにかくこうした民族の考え方は、必ず製品に出てくる。
恐ろしいほど思想を反映する。
イタリアになるとグッと日本人と似た気性が出ている。
ゲルマン民族と違って、いろんなアイデアが百花斉放というか
華やかに咲き乱れている。
私がある工場を見に行ったときに、若い技師が案内してくれて
「われわれはアーチストであり、エンジニアである」と
誇らしげに話をしていたが、
それだけに町そのものが、芸術品という感じである。
しかし、アイデアは、実に素晴らしいのだが、
やることが全然着実ではない。
やっぱりこれは観光地で、目先のことがちょこちょこいろいろに
変わるからではないかと思う。
それだけに頭はきれる。
昔からイタリアで発明されないものはないけれども、
ドイツで完成しないものはないと言われるだけあって
イタリア人は、フランス人と同様に作る名人というか発明民族だと思う。
その点で、われわれは大いにイタリア人のアイデアに敬意を表さなければ
ならない。
(現在を卒業してから未来へ!)
よく二交代、三交代ということが言われる。
生産が間に合わない時に、すぐに倍にするには、二交代をやればいい
のだという事を考える。
しかし、順序から言えば、一交代を完全に卒業してから二交代をやるべきだ。
一交代で五〇%しか仕事をしていなければ、二交代にしてやっと
一〇〇%にしかならない。
それならわざわざ二交代にするより、一交代ですませた方が
絶対に得なわけだ。
ものごとを食い散らかして現在も卒業しないで、未来ばかり追っていくと
結局は、新しがり屋で終わってしまうのです。
(図面通り作るより図面を作る!)
だいたい日本では、明治の初めから鉄工業や造船や飛行機を作れば
政府の援助があった。
自動車を作れば保護法がある。
農家が自分の田んぼに道を作るにも政府の補助金がなければ
できないというように、とにかく補助金の多い国なのです。
だから技術屋や資本家は人にばかり頼る。
苦労がないから個性がない。
日本の飛行機は優秀という人がいる。
しかし、ほとんど向こうのイミテーションだ。
一流といわれる自動車メーカーが、向こうから図面をもらって作っている。
ところがその図面を作るのには、強烈な思想が要るということを置き忘れ
図面通りに作るのが技術屋だと誤解している。
自分で青写真を作ったことのない日本の技術屋は、
この機会に大いに反省する必要があるのではないだろうか。
(オーソドックスに勝とう!)
まず技術をふまえた勝負の世界は、オーソドックスにやらないといけないという事である。
小手先の器用さとか人のウラをかくとかいうことで、
一時は勝つこともできるが、いつかは敗れるという事である。
チャーチルがこんなことを言っていた。
国同士の戦いの場合は、大会戦でオーソドックスに勝たなければ
本当の勝利にはならない。
電撃戦や奇襲線法では、一国の運命は決まらないという事である。
戦国時代に、織田信長とか明智光秀とか奇襲戦法が流行ったが
当時のように群雄割拠で国や兵力の単位が小さければ
奇襲で勝てばその兵力全部をぺちゃんこにすることはできるが
現在のように国の規模が大きくなると
人の小股を救うような戦法は、通用しない。
レースでも、一度勝ったからといって安心していると、
その次にはやられる。
(芸術とデザイン!)
私は、正規の学校も出ていない一個のエンジニアであって、
デザイナーでも何でもないが、今度の角型のドリームとベンリイのデザインを中心に進めた。
私には、芸術的素養というか系統だったものがない。
しかし、デザインというものをよく分析してみると、
芸術家でなくてもデザインはできるという結論に達した。
なぜかと言えば、デザインはひとつの流行である。
流行の一番のねらいは、
過去も悪くていい、未来も悪くていい、
今が良ければいいのが流行である。
たとえの話だが、私の若い頃は、当時ご婦人の間で耳隠しが流行った。
ちょっと洒落っ気のある人は、みな耳隠しをして得意になって歩いていた。
しかしもしあれが芸術だとしたら、今でも耳隠しをして銀座を歩いても
いいことになる。
ところがそんなことをしたらいい見世物になってしまう。
あの頃は、あの耳隠しが最高のデザインだったが、今はそうではないというところにデザインの本質がある。
(みんなの欲望を見抜く!)
芸術とは、ピカソにしてもマチスにしても、
もっと古いミケランジェロにしても長い風雪に耐えるだけの一定の価値を持っているものをいう。
つまり、いつ、誰が見てもいいというものだと思う。
ところがデザインは、十年たって、おかしなものでも
その時代の人達の気持ちをつかみリードすればいいわけだ。
私は、もともと好奇心のある方だから、いろんなものをいじるのが好きだし、
いろんなところへ顔を出すようにしている。
一杯飲み屋にもよく出かける。
それが自分の固定観念を打ち壊すのには大いに役に立っている。
デザインは、井の中の蛙とか、馬車馬式ではできない。
商品である以上、大勢の人が対象だから、みんながどういう欲望を
持っているかを見抜かなければ話にはならない。
オートバイにしても、買ってもみた、乗ってもみた、そして、
そうとうのマニアの域に達した人でなければ、
デザインがいいとか悪いとかピンと来ないところがあるのではないだろうか。
そういう人たちの夢を満たすのがデザインだとすれば
デザイナーもその条件をふまえなければ、頭だけではやれない。
(夢見る思いで銀座!)
戦争の打撃から立ち直る段階では、
実用というものは、一番大事な問題だったが、
経済状態がどんどん回復して、実用品というものを味わいつくしたときに
どうなるかと言えば、予断を許さないと思う。
戦争中や戦後すぐにはジープで十分だったが、
今ジープで街の中を走っている人はほとんどいないことでもわかる。
たとえば、銀座が実用品を売っていたら銀座の意義はなくなる。
銀座で鎌や鍬や家庭用品とかそんなものばかりを並べていたら
いくら安く売っても銀座として魅力はない。
あそこが贅沢品のニュー・モードを売っているから、
それを買えても買えなくても、人は夢見る思いで銀座に集まってくるのでは
ないだろうか。
自動車だって同じことだ。
実用を満たすという事はあるが、それはもうはっきりしないぐらいに
下の方に沈んでいて、今ではアクセサリーとして人間に意識されているのでは
ないだろうか。
そして、インターネット時代になり、戦後の実用時代に突入している。
つまり環境に優しい車の時代になっているという事です。
(人と同じものはイヤだ!)
私が自動車がアクセサリーというのは、実用を満たしたその上に
実用だけではすまされない、もっと違った形の欲望が動いているということを
言いたいためである。
オートバイもやはり今ではアクセサリーだと思う。
スポーツカー的なものでなければ気がすまないマニアがどんどん増えている。
ではマニアの心理は何かといえば、それは人と同じものではイヤだという事である。心の誇りを持ちたい。
その上にスピードが楽しめて、姿のいいものが欲しいわけだ。
実用性が満たされた後は、必ずこうなる。
(環境を逆に支配する!)
私は昔から解放されたいという事だけで動いてきた。
人間というものは、自由になりたいがためにものを考え働いている。
おかみさんが皿洗いや洗濯がいやだから、
皿洗い器や洗濯機を欲しがるということと、
私が他の人から見ればわがままに見えるほど、自分の個性のままに
動いてきたこととは一致点がある。
だから私の個性をうまく利用すればデザイナーの資格ありと見たわけである。
時代をよく見ること、あらゆる面において上の層から下の層までの大衆の中に
入ること、そこではじめてデザインが生まれるということになれば
それは私がいままでやってきたことだし、
やれるはずという理論である。
そのためには、ものを固定して考えてはいけない。
環境に支配されるだけでなく、逆に環境を支配するくらいの気がなければならない。そこでみんなの気持ちがわかり、知恵が進む。
(美人になれる素質!)
人間は四十になったら自分の顔に責任をもたなきゃいかんというが
本当にいい言葉だ。
スタイルというかデザインも同じである。
うちのオートバイだって、うちの会社の個性という考え方が
否応なしにはっきり出ているはずである。
もし、出ていなければ、どこかの模倣であるといわれても仕方がない。
あんまり顔の形そのものはよくないけれでも、実に上品な感じをした人がある。また、その逆の人もいる。
そう言った差は、やっぱり知性の違いということにあると思う。
とにかくこれでもわかる通り人間というものは、人間というものは
全部美人になれる素質がある。
美人になれるかどうかは、自分のいわゆる磨き方一つにかかっているという
分けである。
たしかに十七、八になれば、肉体的に成長して放っていても一つの
魅力を発散しはするが、人間の美しさが、ただそういった自然発生的なものに
だけ限られているとしたら、
花やライオンの雌やクジャクと同じレベルの美しさだけに終わるとしたら、
あまりにも寂しいことではないだろうか。
(失敗しても前へ進みたい!)
私は、人間の美しさというものは、天然の美しさだけでなく
さらに磨き上げられた第二の天性が重なり、にじみ出てくるところに
あると思う。
デザインの価値というものは、それと同じである。
生まれつききれいな人は、たいてい自分の美しさを支える知性を磨く前に
自分の美しさに溺れてしまう事が多い。
むしろ若い頃はあんまり美しくない人が、中年になって人間らしい安定した
魅力を持ってくることがあるが、ああいった美しさはそのままマス・プロに
流してもすべての人から支持される美しさだと思う。
よく、うちの車は型を変えすぎると非難する人がいる。
しかし僕はそれがひとつの過程であるならば、どんどん変えてもいいと思う。
年が変わるように自分の会社の方針も変わるし、
個人個々の性格も変わるし、思想そのものが変わってくる。
その変わり方を時々刻々に反映させなければ進歩がないのと同じことだと思う。
下手に変えると前より悪くなるからというような考え方を
私はとりたくない。
失敗してもやはり前へ進みたい。
(チャチな感じは落第!)
ここに、ニ、三種類の電気冷蔵庫が並んでいるとする。
ハンドルを一目見てチャチな感じを与えるのは、デザインとして落第である。
見たところチャチでも、機能的にはチャンとこれで用は足りるんだというかもしれない。
しかし、いいデザインというものは、当然使う人に信頼感を与えるもので
なくてはならない。
五年使っていて壊れなくても、その間中、壊れやしないかとビクビクして使わなければならないとすると、このデザインはいいデザインとはいえない。
その間の不安感、不快感というものは、ちょとやそっとのカネには代えられない。
「弱そうに見えても使ってみると強いものですよ!」なんて
セールスマンがくどくどと説明しなければ納得してもらえないような
デザインは、愚だというほかはない。
やはりこれなら大丈夫という安心感、安定感を起こさせるのが
デザインの基本である。
(気持ちから割り出す!)
同じ安定感でもこの方がすっきりして立派だと思わせるようなデザインは、
その人に一種の誇りを持たせる。
これも商業デザインの場合、大切な要素だと思う。
誇りも、今では実用性の一つに数えられる。
うちで前にだしたスクーターのジュノオのスタイルはよかったと
いまだに誉めてくれる人がいる。
あの当時はあれなりによかったと思うが、今考えると相当に不満である。
リア・スタイルはまあまあとしても、フロントのスタイルが少し重かったのではないかと思う。
あのくらいのクラスのスクーターというものは、
もっとすっきりと軽快な感じを出すべきだったと思う。
だいたいスクーターというやつは、近距離を普段着のままちょこちょこっと
無造作に乗れるところが身上なのだから
重いという感じは、スクーターにとっては致命傷である。
たとえ一時的に大衆にアピールしても、究極のところで乗る人間の気持ちから、割り出したものでない限り、
やがては飽きられソッポを向かれる日が来ることを私たちは肝に銘じて
おかなければならない。
(人間無視のデザイン!)
自動車に一番必要なものは、乗って気に入って、見て気にいらなければ
ならない。
女性のアクセサリーみたいに、見てきれいなものでなければいけない。
それから清潔感も大切だ。
とにかく輝くものがなければならない。
しかし、これらのファクターの中でどれが大切かと言えば、
乗り心地だろう。
エンジンを真ん中にはさんで、前の座席と後ろの座席が背中合わせになった
ミニカーがあったが、これなんか乗り心地の上で大いに疑問がある。
人間というのは、正面から景色が入ってきて、後ろへ景色が飛んでいくという
生活をしている。
いきなり、後ろから景色が飛び込んできて、前の方に飛んでいったならば
これはどうしたってフラフラ酔っぱらってくる。
スタイルとしては、この方が真ん中が高くなって、いわゆる流線形になって
バランスはいいし、馬力も得をするが
人間の使う条件は、また別の話である。
人間の生理条件を無視して、人間の習性を研究しないでつくった自動車は、
機械としての性能がいかによくても、
自動車としては、ゼロに等しいわけである。
(最大公約数は大切!)
やっぱりオーソドックスな自動車のタイプにならなければ
自動車とは言えない。
結局せんじつめて行けば、自動車というものは、
ああなって行くという事である。
旋盤がどこの旋盤でも同じようなカタチをしているのと似ている。
自分が発明したつもりで、一生懸命にヘンテコな車を作っても
たいてい今までにどこかでつくられたスタイルに似ている。
何十万だか何千万だか知らない私たちの先輩が、
一生懸命知恵を絞って考え出したのが、今の自動車だから、
あまりに突飛な事をねらっても意味はない。
だれがやってもこうなるという力学的にいっても
スタイルからいっても、いわゆるもっと大きな経済、政治的なものからいっても最大公約数的なものが、今の自動車の基本的なスタイルになっていると
思って間違いない。
(観音さまと仁王さん!)
日本人の企業に対する見方というか、
評価の基準はとかく資本金や利益率の多少にのみ置かれがちだが
もう一歩突っ込んで、その会社がどういうカタチで利益をあげているかを
検討すべきである。
ただ会社が大きいからといって、一流のプライドをもつのは錯覚というものだ。そういう人達ほど、小さな会社を小さいということだけで
軽蔑する人に違いない。
会社が大きいという事は、自分が大きいという事ではないし、
ましてや人間の良さとはまったく関係がない。
人間の良さに関係あるのは、”製品の質だけ”である。
大資本の影に隠れて、何のアイデアも出さずにのうのうとしているのが、
何で自慢の種になるのか、まったく不思議な話ではある。
大きさからいえば、観音様は一寸八分で、仁王さんは雲をつくような大男だが
、仁王さんはやっぱり門番にしかなれない。
仁王さんになって威張っているのも人生かもしれないが
私は、そういう人生を送ろうとは思わない。
(過去につかまるな!)
職人とか技術屋とかいうが、
人間に必要だから貴いんで、もし何の役にも立たないものだとしたら
何の価値もない。
そういうことを考えると、技術の上に何かありそうな気がする。
やはり人間を本当に理解するのが技術の根本原則で
人間を本当に考えない技術は技術でも何でもない。
だからどんないい技術の持ち合わせがあっても、
人間のために表現しないのなら技術がないのと同じだ。
そんな事なら大切なおカネを使って、学校なんかに行かない方がいい。
では、職人と技術屋の違いはどこにあるのだろうか?
それは学校を出た出ないじゃなくて、
ひとつのものがあると、過去を大事にして、そればっかりに捕まっている人が
職人だ。
同じ過去でも、それに新しい理論を積み重ねて、日々前進する人が技術屋だ。
だいたい人間というものは、ものを知っていたり、地位につくと
それにこだわりすぎる癖がある。
私には、幸いこだわる癖がないから、職人で終わらずにここまで
伸びてきた。
(型にはめる人はおっかない!)
家が貧乏で学校に行けなかった人も、
子どもの時に晩知恵(おそちえ)というかあまりパッとしないで、
試験に合格しないで、学校に行けなかった人でも
あとで伸びることがある。
そういう人も全部、技術屋になれるという事だ。
言い換えれば一つの現実にこだわらずに、つぎの理論を社会現実にあてはめて
前進することができたら、それが技術屋という事になる。
世間の人が、全部こういう見方をしてくれればいいが、なかなかそうは
解釈してくれない。
よく私の事を正規の学校を出ていない、家が貧乏だったといって批判する人が
いるが、そんなことは私の人生に関係はない。
カネというものは、動いているもので、使えばなくなる。
ときたま、私の生まれたときが貧乏だからといって、
それを型にあてはめてしまう人はおっかない。
そういう考え方が職人の考えなのだ。
技術に関して、職人と技術屋がいるように、政治でも経済でも法律でも
みんなこのふたつの型がある。
(試すことが大切!)
人生は見たり、聞いたり、試したりの三つの知恵でまとまっているが
その中で一番大切なのは試すことであると私は思う。
ところが、世の中の技術屋というものは、見たり、聞いたりが多くて、
試したりがほとんどない。
私は、見たり、聞いたりするが、それ以上に試すことをやっている。
その代わり失敗も多い。
ありふれたことことだけど、失敗と成功はうらはらになっている。
喜びと悲しみが同居しているように成功と失敗も同居している。
それだけに、失敗の回数に比例して、成功しているとも言える。
みんな失敗を厭う(いとう)もんだから成功のチャンスも少ない。
当社が伸びた伸びたって、最近みんなが不思議がるが
タネを明かせばこれ以外にない。
やっているだけ知っているということだ。
その点私自身が、いくらかよその技術屋よりも試しているから意志が強い。
私がやってみて、大丈夫だったからやれというとやる方も全然感じが違う。
安心してやれる。
だから私は、試すことが一番大切だとつくづく思う。
(人生は長いマラソン!)
私は、いつもうちの若い大学出の技術屋やデザイナーたちにいっている。
君らは、ひとかどの専門家だといっているかもしれないが
それじゃ聞くが大学は何だ。
四年だというが、正月の休みが一か月、春休み二か月、夏休み二か月を引くと
半年しか勉強していないわけだ。
その半年も休講があったり、サボったり、一般教養科目があったりで
本当に得意というか専門科目は四年間にどのくらいになるというのか?
一日七時間労働に割ってみるとおそらく四年間学校に通っても
三か月そこそこだろう。
それぽっち勉強して、私は技術屋だとかデザイナーだと得意になるのは
まだ早いぞといってやった。
たしかに全然習わない人よりも、三か月分だけスタートが早いわけだが
人生というものは、長いマラソンみたいなもので
スタートの早さをゴールまで持ち続けられるかは、保証の限りではない。
スタートが良くても、あとでどんどんせり上げてくるやつもいるだろうし
自分のペースを崩しちまってへたばるやつもいるだろう。
それが人生の面白さだと思う。