💎ザックバランに生きて死ぬ!!!
(ザックバランに生きて死ぬ!)
私は、無学な人間だから、うまく体系づけて語ることはできないが、
みずから信じて実践してきた哲学がある。
それは、人間、生を受けた以上どうせ死ぬのだから
やりたいことをやって、ザックバランに生き、しかるのちに
もろもろの欲に執着せずに枯れて、そして死んでいくべきという考え方だ。
生あれば死あり、社長という”生”は限りあるものです。
しかし、社長を辞めたからと言ってその人の人生そのものが終わるわけではない。
人間死ぬまで生きるのだから、その間に今までできなかった趣味なり社会奉仕の名誉職なりを思う存分すればよいのだ。
しかし、世の中の現実はそうではない。
いつまでも経営者でいたいという人間があまりに多すぎる。
私に言わせれば、そんな人間の十人に九人は老害を振りまいている。
若い人が見たら十人が十人、老害の塊であろう。
(今は年寄りの方が世間知らず!)
私は老人である。
自分では若いつもりで飛行機を操縦したりオートバイをすっ飛ばしたり
派手な色柄の服を着て喜んでいるが
要するに77歳のジジイである。
世間のジジイ経営者同様、このジジイも
「俺はだてに年をとってはいない、若者が真似できない体験をしてきているし、いろいろ見てきている。」
そうした知恵はきっと役に立つはず...と思わなくもない。
それを認めたうえで、私は、老人は社会の一線から早く身を退くべきと考える。
理由は、今の世界というものは、年寄りの方が世間知らずだからだ。
昔は、若い人を世間知らずといったものだが、現在は逆。
あまりにも急激に世の中が進んで行くのでついていけなくなっているからだ。
(若い人の悪口を言うな!)
某日、新宿に出かけていったが、何をして遊んだらいいかわからなかった。
第一、どんな遊びがあるのか見当がつかなかった。
ところがぐるりを見渡してみると、
若い人たちはあふれる遊びに振り回されるわけでもなく
全体を把握認識したうえで、自分がおカネを投ずべき何かをしっかり選択している。
対象が新宿歌舞伎町でもなくても、若い人は実に多くの事を知っている。
それゆえ私は、若い人の方を尊敬している。
徳川時代のように変化がほとんどない時代は、知恵なり、経験則を
持っている老人が長老として威張っていられた。
ところが現代はあまりに世の中が進みすぎたものだから、
何から何までわからないことだらけ。
だから年寄りは、若い人の批判をするにしても具体的なことは何も言えない。
今のやつは、意気地がないとか、やる気がないとか抽象的な批判ばかり。
これでは若い人があまりに気の毒だ。
年寄りが経営者であり続けるなら、せめて若い人の悪口を言わないという
保証をしてほしいと私は思う。
(老人経営者の救い!)
もとより私は、世の年寄り経営者に早くやめろなどと命令はできない。
けれども若い人の方が進歩しているという現実だけは認めてもらいたいと思う。
そこを素直に認めれば、救いの道は残されているからだ。
老人経営者にとって、救いとはなにか?
私は、若い人たちの長所を見つけてやり、ほめてその長所を伸ばしてやることだと思う。
その際、対象となる若い人が縁戚にあたるからとか
息子だからと言って特別扱いをすれば、その分だけ老害が進むことになる。
縁もゆかりもない人物であろうと、
力のある人物ならその力を見抜いて次の経営者として正当な評価をしてやる。
しかし、これは道義的にも正しい経営者でなければならないという事です。
それができてはじめて真の経営者なのに、
見抜き、ほめ、伸ばし、チェンジするという必修課程をきちんとこなして見せる経営者は少ない。
たいていは、居座るか、二代目三代目へバトンタッチしてしまうのだ。
これを老害の所産といわずして何といおう。
(子供に会社を継がせるな!)
私に対して、この人は考え方が進んでいると思っていた人までが....!
「どうして息子さんに後を継がせないんですか?」とか
などと訊くのである。
私は、はじめ「俺って人に信用されない人間なのかなあと思った。」
というのは、
仕事のパートナーと「互いに自分の倅(せがれ)を入れるのだけはよそうな」
と約束をしてそれを機会あるごとに公言してきたからだ。
人は、私に本音と建前があると思ったらしい。
表向きはああいっているが、ある時期が来たら息子を会社に入れて
帝王学を学ばせるのではないかと.....!
やめてくれ!何度そう叫ぼうとしたかわからない。
世界中がみんなしてお互いに助け合って繁栄していかなければならない時なのに。
そこにあるのは何々家代表者の義務ではなくて
会社を代表する経営者の義務なのだ。
(きれいに飾っても老害は老害!)
経営者とは、恐ろしい立場にいる人間です。
たったひとつ間違えただけで企業の成長を止めたり、倒産させたりしかねないからです。
多くの経営者は、自分の倅を入社させるに際して、
ビシビシと鍛えてやってくれとか、わが子でも将たる器でなければ埋もれてしまうのもやむを得ないなどという。
その気持ちに嘘はないと思う。
しかし、それは正義ではないと私は思う。
入社させること自体が問題だからだ。
私は、老害の学問的定義は知らぬが、私流に解釈すれば
情に搦めて判断処置をしたり、周囲の人間にいらざる精神的負担をかけることだと思う。
親である以上、入社させればそれなりの肩入れをしたくもなるだろう。
ミスを犯せば誰かにかばってくれと頼むだろう。
その気持ちを読んだ側近は、あれこれと気を遣って倅を盛り立てるだろう。
つまるところ、どんなきれいごとで飾ろうと、老害は老害なのである。
(六十六歳での引退!)
六十六歳で引退。
世間では六十代社長はおろか、七十代社長もいるから
この引退劇には、「あの年齢でそれも創業者社長が引退するのは珍しい。
動機はなんだったのですか」などと尋ねられる。
しかし、その動機は、きわめて単純な理由だったのです。
「私は、若い時から、車の性能向上に熱中してそれが成功につながったが、
当時に比べて現在では車に対する社会の要求が変わってきている。
排気ガスの規制に代表される環境問題など
人間の生活と調和する車が要請されるようになった。
社会の状況が変わったのだから、そうした状況によりよく対応できる
若い人と交代するのが当然の話ではなかろうか。」
日本経済の成長とともに、自動車工業も隆盛の一途をたどったが、
国際化の波の中でふたたび変貌を遂げねばならない時代を迎えていた。
今こそ、積極的に若い人に席を譲るべきと思った。
経営者の立場で言えば、社長たるものは、常に若い社員に希望を持たせなければならないと考えている。
幸いなことに、私どもは、それまでも可能な限り、若い人たちに仕事を任せる方針でやってきていた。
私は、昔から工場か研究所ばかりにいて、役員会には、ほとんど出席しない
主義だった。
日本はとかく義理人情や感情の働く社会である。
トップの意見に異論を唱えたり、反対するのには大変な勇気がいる。
トップは出席しないで自由に討議してもらい、結論だけ見せてもらえばよいのである。
もし、それが納得できないのであれば、再び元へ戻して、討議してもらえれば
事は済むはずである。
私どもの会社では、こうすることによって
若い人を育て、引退を決意したときには、すでに後継者たちの集団指導体制が
完成していたのだ.
(道を作ってやろう!)
戦前、私の青年時代は、税金を納めてもそれがどう使われるかは
わからない時代だった。
その点、現在はオープンになっており、人々の徳義心も昔に比べれば
格段に良くなってきている。
しかし、古来から他人の金は使いやすいと言われるように
自分の手で稼いだ金でないと無駄使いをしがちである。
だから講演では「税金を納めるならその使い途を最後まで見届けようじゃないか、使い途に間違いがあれば、大いに不平を鳴らし、謝ってもらおうじゃないか」と訴えてきた。
もちろん、私がいかにリキンでも、体力や知力の点で若い人には
及ばないことは知っているつもりである。
明治維新を成し遂げて、二本差しとちょんまげを終わらせる原動力となったのも、当時の若い人たちであった。
ただ、我々のような年の人間には、そうした若い人たちが立ち上がることができるように道を作ってやる役割がある。
つまり、火付け役になる役割を担っているのであり、
私はそうした気持ちで、若い人々に訴えているのである。
(私は小老害ですんだ!)
私が空冷エンジンにこだわって若い技術者と大論争をしたのも
老害のなせるわざだったのかもしれない。
私自身は、技術に関しては上も下もないと信じていたが、
私がこだわれば、それがあきらかな間違いとわかっても
技術者たちは”困ったおやじだ”という優しい心を働かせて
純粋技術論争のごとき体裁を整えてくれたかもしれないからだ。
私は、その論争をしている時に、俺には経験があるわいと
胸を張っていたが、経験とは過去ではないか。
対し、若い技術陣には未来があり、夢がある。
私は、老害のジジイかもしれないが、この事実に気づいたため
大老害にならず小老害にすんだと思っている。
(赤いアロハ社長!)
赤青の縞の帽子に、赤いアロハ姿で、私は先日も、
スピード違反で巡査に捕まってしまった。
免許証に印されたスピード違反の記録の数に
その若い巡査もあきれた顔だった。
「今度捕まると免許証取り上げですよ。なぜこんなに違反を?」
「そりゃ急ぐ用があるからですよ」
「一体職業は何なのですか?こんなに急ぐ用があるなんて!」
「何に見えますかね?」
「その恰好じゃ、サーカスの団長ですかね!」
これにはギャフンと参った。言葉もない。
さらばと名刺を出したが、巡査はさらさら信用をしない。
「その恰好で社長だなんて、それに若すぎますよ」
最後の言葉だけは気に入った。
背広を着たことのない私は、確かに若いのだ。
しからばスピードレースに出られる資格もまだ充分にあるに違いない。
(若い情熱!)
スピードの極限を目指して研究に専念。
レースにも出場した。
こうした挑戦で高めた技術が、次々に乗用車の量産に生かされていった。
スピードというギャンブルでもあり、趣味でもある仕事への意欲を
満足させながら会社も成長させることができた。
”幸せ者”ということになるが、それを成さしめたのも、
結局は当時の私の若い情熱であったと言える。
(日に新たという伝統!)
私は、毎日うちの若い連中と一緒に仕事をしているが
正直言って私らの若い頃よりずっと進歩をしている。
若い時に「今の若いものは意気地がない」なんて言われたが
これは年寄りの冷や水で、やはり世の中は進んでいる。
昔のオヤジの方がバカだったし、意気地がなかったんだ。
このことが、伝統というものをどういうふうに受け止めるかの基本になる。
当社には、伝統がなかったということが伸びた理由なのです。
過去がないから未来しかない。
それだけに、古い過去のひっかかりにわずらわされずにのびのびとやれた。
よその会社のように、やれ五十年とか三十年の歴史を自慢するような
伝統は持たせたくない。
強いて伝統という言葉を使うならば、
伝統のない伝統、「日に新た」という伝統を残したい。
(おカネより誇り!)
私たちが働くとき、お金が欲しいということも一つの目的にはなるが、
さらばといって金だけくれれば何でもやるかと言えば、そうはいかない。
やはり、金儲けする手段が、誇りのもてる手段でありたいという願望は
誰でも持っている。
それは何かといえば、自分は、こういうものを作って、世の中に貢献しているという事であり、ほかより優れた製品を作り、どこの真似もしていないという事である。
それを満足させないと、今の若い人はついてこない。
僕らみたいな年になれば、金さえあれば命が縮まっても構うものかという
気持ちになることもあるが、若い人は未来だけを見つめている。
そうなると行き当たりばったりに未来を考えるなんていい加減なことでは
プライドが許さない。
現実をふまえて、しっかりした理論の積み上げをやりたがっている。
そこに現代人の若さがある。
(過去を持たない強み!)
とにかく日本人は、人の事をとやかく言い過ぎるキライがある。
服装ひとつにしても同様だ。
男でも女でも、本心はもっと派手なもの、色のきれいなものを
着たいと思っても、世間はどういうかと世間ばかり気にして、
自分の柄を選ぶのに、自分の金を出して人の柄を選んでいるという事になる。
靴下さえ自分に気に入ったものを買えないありさまだ。
それで人の気分を害するというのなら話は別だが
そうでないのなら自由であるべきだ。
その点若い人の方がうんと進んでいる。
大人というやつは、うんと進歩的にものを考えても
以前はこうだったという観念が根強く残っている。
子どもには、過去がないからその時の相場でモノをいう。
そして、それがいちばん正しい評価であることが多い。
だから過去を持っている人は、うんと進歩的であるようにみえても
実は古いところが多々ある。
みんながみんな民主的ではないが、若い人の方が本質的に
民主的なものを身につけていることは、ゆるぎない事実である。
(若い世代に残す言葉!)
根っからの技術屋である私には、若い世代に残すような特別な言葉は
持ち合わせていない。
強いて言えば、「人を馬鹿にせず、人に馬鹿にされず!」
七十五年間、それでやってきた。
(潔さは死を恐れない心から!)
人はよく、私を潔い人間だと言ってくれる。
お世辞半分でもそういわれて悪い気持ちはしない。
だから「どうしてそうなったんですか?」という質問に答えると
第一は、私が死というもの、死に伴う苦痛というものを昔から
これっぽっちも恐れていないという点だ。
実際にどうなるかは死んでみてのお楽しみで、私は、
「俺が必ず報告してやる!」と冗談を言っているのだが
とにかく、私は、生きることを恐れなかったように死も恐れていない。
どんな人間でも老いて、やがて死んでいく。
それは順番であり、良いことなのだという思いを、
他人様より多少強くもっている感がある。
一方にそんな考えを持っていると不思議なもので
若い者がいとおしく思えてくるのである。
で、なるべく早く交代してやろうという気持ちに心底なってくる。
(会社のために働くな!)
私にわからないのは、企業というものは、営利を目的にするのか
公益面に奉仕するだけのものなのか、その辺のケジメが全然ついていないということである。
本当は儲けたいというか、自己保身から一歩も出ていないのに
表面だけは無理に取り繕う。
どうして、自己保身なら自己保身で、それをはっきり打ち出す勇気がないのだろうか?
昔のように愛国者気取りで、業界のためになんて言わないで
どうして自分の繁栄のためにと言わないのだろうか?
業界のために、自分が犠牲になるつもりで、物を作ったり、
会社を経営したりしているのではないはずだ。
それをはっきりいえないような勇気のない人は嫌いだ。
だからうちの連中に、会社のために働くな、
自分の生活をエンジョイするために働きにこい、
それで一生懸命にやることで会社ともどもいいと言っている。
やはり、人間は自己保身より一歩も出ていない。
戦前の滅私奉公は嫌いだ。
(瓦の上でも花を咲かせる!)
会社がつぶれて失業した人達が、何か救済策を講じてくれと要求するが
僕にはそういった消極的な態度がうなずけない。
もし私がそういう立場におかれれば、自分で何か新しい職を作り出すつもり
だ。
(貧乏はすべきである!)
ひとつの問題も、考え方によって、ものすごくたくさんの解釈ができる。
だが、暗い淵にどんどんはまり込んでいくような解釈を下すことは反対だ。
私は、どんなに大きな失敗をしても、大地をふまえてグッと立ち上がるような
明るい解釈をすることにしている。
それでなければ、次の段階への新しいエネルギーは引き出せない。
私は私なりに生きて行くことへの大きな自信を持っている。
どうしてこういう自信が生まれてきたかと聞かれれば、やはり、
貧乏な家に生まれたからだというほかはない。
貧乏だと自分以外に頼るものがないのだから、独立心は当然に盛んになるわけだ。
だから、貧乏でも決して悲観することはない。
貧乏をしてひねくれてしまっては困るが、貧乏をプラスに変えることができるなら、貧乏はすべきである。
同じ事が企業にも当てはまる。
貧乏人の気持ちがわからなければ、人を使う事も出来ないし、
人をうならせる製品も生み出せないのではないだろうか。
(おカネをうまく使う!)
私は、若いころ、長唄を習ったり、小太鼓をたたいたり、
さんざん道楽をした。
親戚や友達から、儲けたら無駄遣いをしないで貯めておけと忠告されたけれど
放蕩癖があるもんだから片っ端から使ってしまった。
しかし、私はよく考えてみるとよかったと思う。
そのときに貯めたものは、戦後の新円切り替えでゼロになった。
私は、その前に無形のものに変えてしまっていた。
これは誰からも取られない。
カネというやつは、使えばなくなる不安なものだが、うまく使えばあとまで残るもの。
面白いもので、今社員と屈託なく同等につき合わしてもらっているのも
私がある程度のデザインができるのも、すべてそういった遊びというものをやったおかげだ。というのは、デザインというものは、人の心をとらえるものだから、道楽した人でないと人の心にふれることが難しいという事になる。
(楽しみは随所に!)
よく女の人が、おぼんにお茶をのせて持ってくるときに
謙虚の美徳を発揮して、おぼんを半分机の上に乗せて、
手前の方からとればいいのに、
逆の方から茶碗を出して重量のバランスを失ってバタンと落っことす
事がある。
私は技術屋だから、こういうのは気にかかる。
お茶一つ出すのにも、やはり最新の観察にもとづく注意が必要で
そのうえに大胆さがいる。
ところが最新の注意をやると大胆さがなくなり、
大胆さばかりを追うと粗暴になるといった具合でなかなか難しい。
また、冷えて吸いついたお椀のフタをゆがめてとることがあるが
こういうことも私は、人よりうまくやる自信があるし、うまくやれれば
ちょっと鼻が高くなる。
本当に人生というものは、一つの目的をもってみれば楽しいものだ。
どんな小さなことも楽しんでやれる。
だから趣味のたくさんあるほうが、楽しみが多くなるわけだ。
私は、他の趣味はないが、技術の趣味をひとつ持っているから
楽しみは随所に落っこちている。
(好きな事だけをやる!)
日本の技術屋は、ハンコつきにならないと出世できないと思っている人が
多いようだが、それでは駄目だ。
私は一生仕事着で通すつもりである。
ネクタイをしめると世の中が窮屈でいけない。
言葉も田舎弁丸出しで子供たちに笑わられるが、直そうとは思わない。
そんなところで努力をするのは、ロスだと思うから。
とにかくネクタイをしめて社長の椅子にふんぞり返っていたんでは
芸者通いも隠れてコソコソしなきゃならない。
とにかく私は、私以上に見られるのは嫌いだ。
好きな事だけをやる。
人から見ると苦労していると同情したくなるかもしれないが
惚れて通えば千里も一理である。
この頃は、僕が何かに打ち込むと、気がついた時には私一人になっている。
社員も女房も心得たものである。
(不可能の壁を打ち破る!)
終戦後、私は、綺麗に焼かれたのを機に、
商人から足を洗い、内燃機関の技術研究所を建てようと考えていた。
しかし、理想はともかく、混乱期に伴う貧困な社会の中で
霞を食べて生きているわけにもいかない。
そこで考えついたのが、自転車にエンジンをつけて走る、バタバタである。
軍部で使用していた発電機のエンジンがたくさん放ってあったのを見て、
多量に買い占め、自転車につけて売り出して見たのである。
闇屋の乗るものだとか、実用には適さぬとか散々に悪口を叩かれたが
案外に実績はよく、むしろうなぎ上りによくなって行った。
「こんなガソリンのない時代に、誰がそんなもんに乗る」
「ガソリンのない時代だからこそ、売れるのだ、
統制されたガソリンの量では、とうてい自動車が走りべくもない。
しかし、仕事の能率を上げることは、復興のためにも必須だ。
だから、少ないガソリンで距離を走れる、簡単なオートバイが要求される。」
と、常々から答えていた。
目先が利く、商売上手だ、とも批判も多いが、
これも私に言わせれば、一つの創意なのである。
国情にマッチし、しかも、一歩進んだものを考えて創造することは、
発明だといってよいだろう。
何の仕事にも言えることだろうが
これは簡単にできるわいと考える人は、素人であり、
経験を積めば積むほど、本職になればなるほど難しくなってくる。
真のエキスパート(熟練者)は、不可能の壁を打ち破るところに喜びを持つものである。
そして、その苦労は、真の意味における苦労ではなかろう。
それに打ち込んでいる時は、形容でなしに、親兄弟を忘れ、金銭を忘れ、
名誉を忘れ、あらゆる世俗の野心を忘れるものだ。
そして、壁にうちあたった時、真の勇気が湧いてくる。
(いかにアイデアを生かすか!)
オートバイをド素人に作らせたらどうなるか?
おそらく高くなるだろう。
高くなるのは、人間の武器であるアイデアをフルに発揮できないからだ。
単に労働力として使うのなら、牛や馬を使った方が安くつくし、
電気に変えればなお安い。
問題は、人間らしくアイデアを使わせるか使わせないかの違いである。
一個作るよりも、二個、三個作る方が安くなる。
だから、二つ要るから高くなるというのは、いかにも原始的な理論という
他はない。
材料にしても、二気筒にすれば振動が少なくなるから、
単気筒の時のように、本体をべらぼうに強くすることもいらないし、
ギアも薄くできるから相当に節約できるといって作らせたら
案の定二十五キロも軽くできた。
その上、ちっともコストアップしなかった。
そこで、「要はいかにアイデアを生かすかという考え方の違いだ。
今までの古いものの考え方で、労働によって物は、作られるという
考え方をするから、賃金を切り下げたり、下請けを叩いたり、
スジの違ったことで解決しようとするんだ」と話ししたものである。
(機械は改造して使え!)
僕は悪い工場、いい工場を見分ける基準として、
機械を買ったままで使っているか、
どんな風でもいいから自分のアイデアを生かして、
改造しながら使っているかにおいている。
もちろんよく整理整頓されているということも条件にはなるが、それが主体ではない。
そういう見方でルノー工場をみると工場はきれいだし、
いい機械が並んでもいるが、ほとんど改造した跡はなく、
働いている人達から、何か圧倒されるような熱気も感じられなかった。
機械というものは、神様が作ったんじゃないから、いかによくできた機械でも
必ずどっかに欠陥があるし、その人の背の高さとか、左利き、右利きによってもいろいろ合わない箇所が出てくるはずである。
それを自分で見つけ出し、スパナひとつの置き場所にしても
ハンドルの位置にしても、
自分に合うように工夫するところに、工場の強みが出てくると思っている。
一見、他愛もないような工夫でも、何千人の人達が少しずつ工夫すると
大変なことになる。
それを一年も続ければ、何倍という金をつぎ込んだ以上の力になる。
(納得が能率の根本!)
重役を送ってきた運転手同士が、うちの運転手たちと控室で話し合った。
あんたの給料は、どのくらいだとか、俺は朝まで別宅で待たされたとか
話し合っているうちに、うちの運転手がいちばん能率的に
楽しく働いているという事になった。
当社の能率をいちばん切実に知ったのは、本当は重役ではなく運転手だった
と笑えない笑い話ができてしまった。
みんな弁当をもって会社に来るのは、人の為に働きたくて来ているのではない。
それを上の人が会社の金で遊んでいるようじゃ、真剣になって働く馬鹿はいない。
他へ移るわけにもいかないから、ここで長いものに巻かれて
ホドホドに生きて行こうという気になった者を、
能率能率と引っ張り回しても、誰もついてこない。
納得することが能率の根本で、やる行為そのものは枝葉の問題だという事を
忘れてはおしまいである。
みんなの自覚というか鏡がどんどん冴えてきている。
自分は遊んで、人に働かせようたって無理である。
(時間をうまく使う!)
この間、工場の連中が、二百坪の倉庫を建ててくれと言ってきた。
中に入れるものは何だと聞くと、これこれしかじかの部品をこのくらい
入れるという。
それじゃ部品は代理店しか使わないのだから、
作ったのを片っ端から代理店に送ればいいというと納得した。
お陰で、うちの工場は倉庫なし。
それからしばらくたって、今度は、機械を買いたいと言ってきた。
だけど金がないから買いたくとも買えないとこぼし始めた。
そこで、機械のそばにニ十個も三十個も積み上げてある部品は、
タイミングがあっていれば一個あればいいものだ。
それで二億ぐらいの金がすぐ浮くから、機械が買えるじゃないかといってやった。
要するに、時間をうまく使うだけのことだ。
時間というものは、実に大切なものである。
(休み時間に働くのは非能率!)
従業員に休息を与えるという事を
何かマイナスになるというか、罪悪視する人がいる。
仕事というものは、何か目を吊り上げて息もつかせずにやらなければ
いけないという固定観念にとらわれている人がいる。
日曜も夜遅くまで仕事をする。風呂に入るのも順番!
これをみたイギリス人が、日本人は何て能率の悪い国民だろうと
いったそうだ。
本来の能率とは、働くべき時間にいかにたくさん働くかということで
休み時間に働くのは、能率ではない。
(退くときは恥も外聞も捨てる!)
能率を妨げるものに、面子というやつがある。
これがあるためにニッチもサッチもいかないことがあまりに多い。
槍の名人は、突き出す時よりも、引くときのスピードの速いものをいうらしい。
突いた時の気持ちに酔って抜くチャンスを失うと
血がからまって槍が抜けなくなり、わが身をも滅ぼすことになりかねないからだ。
これも面子にこだわっていてはやれないことだ。
田舎の財産家がつぶれる時も、これと似た様相を呈する。
それは面子を重んじるからだ。
まず物を金に換えるときは、一番目立たない倉の中の宝物から売り始める。
それから屋敷を売っては目立つので、遠くの方の持山を売る。
売ればまだいいが、抵当にいれることが多い。
しかし、金が足りずに抵当に入れるのだから、金利だけがかさむことになる。
そこでいざガクンと来た時には、一木一草も残っていない。
有能な商売人だったらこんな馬鹿なことはしない。
理論的にどうしても成り立たないという見通しになったら
見栄も外聞も捨てて傷の深くならないうちにサッと身を引くといった具合だ。
(人は信用した方が得である!)
本当の事を言って、人間は、八〇%ぐらいは遊びたいという欲望があって、
それがあるために一生懸命に働いているのではないだろうか。
それを働け働けといってヤミクモに尻を叩いても能率が上がるわけがない。
よくイミテーション・パーツが問題になるが
イミテーション・パーツが出るのはメーカーの純正部品が高いか
高い割には、性能が良くないか、潤沢に出回っていないかの三つの条件が
満たされていない場合である。
この点は、当社も反省しなければならない。
しかし、そのためにかくしナンバーを打つようなことはやらない。
そんなことをすれば、手間が多くなって能率が悪くなる。
ならばその分だけ安くする方が先決である。
人間というのは、疑い始めたらきりがない。
コップ一杯の水を飲むのにいちいち毒が入っていないかどうか疑いだしたら
自分で井戸を掘って、毎朝水質を調べなければならない。
これはいささか極端な例だが、人は信用した方が得なのである。
(思想の合理化が遅れている!)
よく合理化は大切だが、金がないから合理化できないということを聞く。
しかし、金がないから合理化をやるので、
カネがあり余るほどあれば合理化なんかやる必要はない。
それに合理化には、知恵がいるが、その知恵を補うために資本がいるというのならわかる。
しかし、知恵の前に金がいるなんていうのは、合理化ではない。
旋盤なら旋盤を、安上がりにどんどん自分の専用機に仕立て上げるのが
合理化で、立派な機械を入れるだけが能ではない。
経営も同じだ。
払う前に、受け取る権利のあるものを受け取らなければならない。
そのスピードが問題で、受け取るよりも払う方が多かったらどんな大会社でも
つぶれてしまう。
なるべく高率に金を回転させることが合理化になる。
これが案外にやられていない、またやれない。
合理化が一番遅れているのは、人間の思想だと思う。
(人減らしの限界!)
人間はアイデアを出し、電気が仕事をするという事が
最近ますます強くなっている。
私は、ルノー工場を見た。
感想を一口で言えば実によくできているということだ。
仕事は電気がする、ということの見本みたいな出来栄えだ。
しかし、そこまでもっていくには、莫大な設備投資がいる。
それは単に設備投資が多いという事だけではなく
投資額に比較して作業能率が悪いということにもなる。
ルノーは二交代制をやっている。
これは増産しなければ車が間に合わないからやっているということも
いえるが、
二交代しなければ資本投資に対してペイできないという側面も多分にあるように見えた。
つまり、ルノー工場は、莫大な投資をやって高度に機械化したが
そのことで逆に苦しめられているということである。
結局人間を少なくしようとすれば、当然
設備投資が大きくなるというのが、現段階の矛盾であると言えそうである。
(一番大切なのは自分であり執着しない方がうまくいく!)
当社には、T会社の資本が株式の形で四〇%入っており
I氏が取締役をやっていた。
戦争に負けてから、T会社の自動車部品を手伝わないかと言われたが
私は断った。
T会社の下請けじゃ自分の意志でどんどんコトを進めるわけには
いかない。
自分は、自分が一番大切だから、私は、Iさんに株を全部買い取ってもらって
一年間遊ぶことを宣言した。
宣言したからには、遊ばなければいけないと思って、
毎日どぶろくを飲んで尺八を習いにいったほかは、
何もしないで過ごした。
というより、気取っていうならば、日本や人間の生活の行く末を
考えながら過ごしたのだ。
そして、いっぺんきれいにさっぱりとした方が、その後
うまくいくのではないかという漠然とした予感を持っていた。
そして、その予感は当たった。
それゆえ私は、その後、岐路に立った時、よりこだわらずにすむ
道を選んできたのである。