「自分を信じて突き進め」——そんなアドバイスを、これまで何度も受けてきました。でも、そのたびに、僕の心の中では、「自分より他人の方が信じられるんだけど」との違和感が湧いてきます。
もちろん、表だって反論したことはありません。「そうですね」と、言葉を濁して受け流すだけです。でも、心の中では「他人の方が信頼できる」との感覚がずっとありました。どうしてそのように思うのか?その考えは、どこから来ているのか、今回、考えてみたいと思います。
頼れる存在だった父ちゃん
以前、父ちゃんの方向感覚について書いたことがあります。父ちゃんは、一度通った道はすべて覚えていて、行きたい場所を言えば、迷うことなく、きちんとその目的地に連れて行ってくれました。車の運転も上手で、自宅の壁際ギリギリ1cmまで車を寄せて止める、誰にも真似できない技を持っていました。観光客を相手に、その土地の言い伝えや歌を、楽しそうに披露することもできました。
小さい頃の僕にとって、父ちゃんは、「何でもできる、頼れる存在」でした。人生で最初に出会う他人が父親だとするなら、僕にとっての「他人」の最初のイメージは、まさに、この「何でもできる、頼りになる父親」だったのではないかと思います。
「他人の方が信じられる」の原点
そう考えると、あの感覚の原点は、案外、この父ちゃんとの関係にあったのかもしれません。
小さい頃から、「目の前にいる大人(父ちゃん)の方が、何でも出来て、ずっと信頼できる」という構図の中で育ってきました。だとすれば、「自分より、他人の方が信頼できる」という感覚は、僕にとって、ごく自然に身についた、最初の人間関係の型・パターンだったのかもしれません。
中学1年生の時もそのパターンが繰り返された
そのパターンは、その後の人間関係の中でも、繰り返し現れていたように思います。
中学1年生のとき、クラスに、NHKラジオ基礎英語を毎日欠かさず聞き続けているクラスメートがいました。優秀で、計画通りに、コツコツと続けられる人でした。その姿を見て、僕も真似しようと思い、午前6時に起きて、基礎英語を聞き始めましたが、見事に挫折してしまいました。
この経験は、僕の中に、ひとつの結論を残しました。「やっぱり、自分は続けられない。でも、あのクラスメートは、きちんと続けられる」これは、父ちゃんに対して抱いていた感覚と、まったく同じ構図です。目の前にいる、僕より優秀な他人を頼りにして、自分自身への信頼を、後回しにしてしまう。そういうパターンが、父ちゃんとの関係の中で作られ、その後の人間関係の中でも、繰返し現れてきたのかもしれません。
20歳の時の静かなリベンジ
ところが、父親との関係について文章を書きながら、自分の過去を振り返っていると、あることに気づきました。実は、中学1年生の時に挫折した基礎英語に、僕はもう一度挑戦していたのです。
浪人生活の中、20歳の頃に、東京でもう一度、NHK基礎英語を聞き始めました。その時には、1年分の教材を、最後まできちんと聞き終えることができました。
中学1年生のときには、途中で投げ出してしまった同じ教材でしたが、20歳のときには、最後までやり遂げることが出来ました。これは、静かなリベンジだったのだと、今、気づかされています。
それでも「自分より他人の方が信頼できる」という感覚は、そのあとも、なぜか、今もまだ、自分の中から抜けきっていません。記憶に残っている、中学1年生のときの挫折と、そのさらに奥にある、父ちゃんとの関係の中で作られたパターンの方が、根強く居座り続けているのだと思います。
記憶はズレることがある
こうして振り返ってみると「自分を信じられない」という感覚は、決して今の自分の実力を、正確に反映しているわけではないのかもしれません。人生で最初に出会った、優秀な他人(父親)との関係の中で作られたパターンが、その後もずっと、自分の中で働き続けていた、ということなのだと思います。
もしあなたにも、「自分を信じろ」と言われるたびに、心のどこかで違和感を覚えることがあるなら、その違和感の元をたどっていくと、案外、人生で最初に出会った他人——父親——との関係に行き着くかもしれません。
サービス内容で公開している18の質問には、こうした「自分自身への信頼」や、「最初の他人との関係」に関わる問いも含まれています。ご自身の記憶をたどってみると、思いがけない発見があるかもしれません。