老婆の歪心に染まるエウロパにビジネスチャンスを求めるには

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日本から。アメリカから。遠く離れた場所から、長いあいだ敬意と憧憬を向けられてきた存在がある。
エウロパ。古典と理性、芸術と制度の記憶をまとい、洗練という名の香りを漂わせる美女だ。
彼女は愛された。しかし彼女は振り返らなかった。
讃美者を対等な友として迎えることもなく、助言に耳を傾けることもなく、女王のような姿勢で見下ろし続けた。しかもその女王は、すでに老いていた。
後代の歴史家は、この歪みをどう名づけるだろうか。おそらく彼らはこう書く。それは「記憶への過信」だった、と。
過去に築いた制度と道徳が、未来を自動的に保証すると信じ込んだ状態だった、と。
二十一世紀前半のヨーロッパは、自らを文明の最終形だと誤認した。法、理念、人権、環境、これらは人類史における重要な達成だった。しかし達成を保持するには更新が要る。ところが彼女は、完成した自分を疑うことを拒んだ。
国境は理念として開かれた。移民は受け入れられたが、社会への編入は後回しにされた。共同体は抽象化され、政治は分断され、出生率は回復せず、労働と福祉の均衡は崩れていった。財政赤字は慢性化し、国家債務は時間に委ねられた。
それでも彼女は微笑んでいた。なぜなら、道徳的に正しい側に立っているという確信があったからだ。
歴史家が「癌」と呼ぶとすれば、そこに位置づけられるのが環境への狂信だろう。
自然を守るという目的は健全だった。だが目的が絶対化された瞬間、手段は思考停止に陥った。化石燃料は忌避され、原子力は倫理の名で排除され、現実に稼働する発電所が解体された。エネルギーは政治声明ではなく物理現象であるという基本が、忘れ去られた。
結果は予測可能だった。
電力不足、価格高騰、産業流出、地政学的依存。これは外敵の攻撃ではない。誰かに強いられた選択でもない。国家が自らの血管を切り、体温が下がるのを眺めていた過程だった。
後代の歴史家は、これを「自殺」とまでは書かないかもしれない。だが「自傷行為」という言葉は使うだろう。
理念が現実の制約を圧殺したとき、文明は内側から崩れる。そこに悪意は不要だ。善意だけで十分だった、と。
日本やアメリカから見れば、この老いた美女は最後まで気高かった。言葉は美しく、宣言は高尚だった。だが彼女は、自分がすでに衰えつつあることを認めなかった。助言をする者を野蛮と呼び、異論を倫理欠如として退けた。
その歪みの名。後代の歴史家は、おそらくこう整理する。
「完成した文明であるという錯覚」。
それは没落の前兆として、古代ローマにも、晩期の明王朝にも、幾度となく現れた症状だった。エウロパもまた、その系譜に連なる。美しく、誇り高く、そして自らの老いに気づくのが遅すぎた女王として。
今はただ
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
言ふよしもがな
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