——キィィィッ!!
耳を裂くようなブレーキ音。
続いて、人の悲鳴。湊は反射的に立ち上がり、店を飛び出した。
「危ない!!」
誰かの叫び声。雨で濡れた道路の真ん中。
タクシーが急停止している。
そして、その数メートル先。白いコートの女性が、座り込んでいた。
「……梨紗!!」
気づけば名前を叫んでいた。
梨紗は驚いた顔でこちらを見る。大きな事故ではなかったらしい。
タクシーがギリギリで止まったようだ。
でも、彼女の顔は真っ青だった。湊は駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「……っ、はい……」
声が震えている。よく見ると、ヒールが片方脱げていた。
たぶん急いで道路を渡ろうとして、バランスを崩したんだ。
運転手も焦った顔で降りてくる。
「お姉さん!本当にごめん、大丈夫!?」
「こちらこそ……すみません……」
梨紗は立ち上がろうとする。
でも足に力が入らないのか、少しよろけた。
その瞬間、湊が咄嗟に支える。細い体。
近い距離。シャンプーの匂いが、ふわっとした。心臓がうるさい。
こんな状況なのに、不謹慎なくらいドキドキしてしまう。
「歩けます?」
「……ちょっとだけ、腰抜けました」
そう言って苦笑いする梨紗。
強がってるのがわかった。湊はため息を吐く。
「送ります」
「え?」
「このまま一人で帰すの無理です」
「でも……」
「それに、これ」
湊はポケットからイヤリングを取り出した。
月の形のシルバー。
「あ……!」
「忘れてましたよ」
梨紗は少し恥ずかしそうに笑った。
「今日、ほんとダメな日だなぁ……」
「そんな日ありますよ」
「湊さん、優しいですね」
その言葉に、胸が詰まる。
優しいんじゃない。ただ放っておけないだけだ。
——いや、本当は違う。放っておきたくない。もっと一緒にいたい。
そう思ってしまっている。二人はタクシーに乗った。
行き先を聞くと、梨紗の家は中目黒だった。
車内には静かな音楽が流れている。
さっきまで初対面だったのに、妙に沈黙が苦じゃない。
むしろ落ち着く。
「……今日、本当は告白される予定だったんです」
突然、梨紗が呟く。湊の胸が、少しざわつく。
「え?」
「悠斗に」
窓の外を見ながら、梨紗は続ける。
「三年くらい、曖昧な関係で」
“やっぱり”と思った。連絡が来れば嬉しい。
会えれば期待する。
でも関係は進まない。恋愛で一番しんどいやつだ。
「友達以上恋人未満って、便利ですよね」
梨紗は笑う。
「期待だけさせて、責任は取らなくていいから」
その言葉が痛いほどリアルだった。
湊にも覚えがある。結衣に“ちゃんと向き合う”ことから逃げた自分。
仕事を理由にして、安心感に甘えて。
「でも今日、“やっぱ行けない”って来た時、なんか全部わかっちゃったんです」
「……」
「私、この人の優先順位ずっと低かったんだなって」
その直後に“今から会える?”。
都合のいい呼び出し。
でも好きだから揺れる。恋愛は厄介だ。
頭でわかってるのに、感情が追いつかない。
「それでも行こうとしてたじゃないですか」
湊が言うと、梨紗は少し黙った。
「……好きって、たまに惨めですよね」
その横顔が、苦しいほど綺麗だった。
タクシーが赤信号で止まる。沈黙。
そして梨紗が、小さく笑った。
「でも今日、湊さんに会えてよかった」
また、その言葉。嬉しいのに苦しい。
なぜなら、自分は“代わり”にいるだけな気がしたから。
「……俺は、よくなかったです」
「え?」
「会わない方がよかったかもしれない」
梨紗が目を丸くする。湊は視線を逸らした。
「会ったら、もっと話したくなるから」
空気が止まる。言った後で、自分でも驚いた。
こんなの、ほぼ告白みたいじゃないか。
でももう止められなかった。梨紗は静かにこちらを見る。
その目が揺れている。数秒。いや、もっと長く感じた。
そして——。
「……ずるいですね」梨紗が小さく笑う。
「そんなタイミングで言います?」
「すみません」
「困ります」
そう言いながら、彼女は少し嬉しそうだった。
タクシーがマンション前で止まる。
「着きました」
運転手の声。二人は降りる。夜風が少し冷たい。
「今日は本当にありがとうございました」
梨紗が頭を下げる。
「こちらこそ」
帰りたくない。でも理由がない。
そんな空気。恋愛の始まりって、だいたいこういう“あと少し”でできている。
すると梨紗が言った。
「……連絡先、交換します?」
湊の心臓が跳ねる。
「あ、はい」互いにスマホを出す。近い距離。
指先。香水の匂い。全部が妙に意識される。
登録が終わった瞬間。
——ピロン。
湊のスマホに通知。画面を見た瞬間、息が止まった。
『久しぶり。少しだけ話せない?』送信者。
——結衣。
元カノだった。
しかも次の瞬間。マンションのエントランス奥から、女性が出てくる。
「梨紗ー!」その声に、梨紗が振り返る。出てきた女性を見た瞬間。
今度は湊の全身が固まった。
「……結衣?」
元カノは、驚いた顔でこちらを見ていた。
第4話へ続く