中小企業経営のための情報発信ブログ318:超思考法 自分の頭で考えろ

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今日もブログをご覧いただきありがとうございます。
さて、今日は20年以上前の古い本(絶版のようで古本でしかなさそう)ですが、加藤諦三・濤川栄太・福原義春著「『超』思考法 自分の頭で考えろ」(扶桑社)という本を紹介します。加藤諦三氏は早稲田大学名誉教授で、ニッポン放送のラジオ番組「テレフォン人生相談」のパーソナリティで、濤川栄太氏は教育評論家で濤川平成塾塾長、福原義春氏は資生堂名誉会長です。この3人が対談形式で「自分の頭を使う」意味を説いてくれています。本当に古い本ですが、現代にも十分に通用する内容で、役に立つと思います。ただ、古本でしかなく、ネットで調べると、当時1500円程度の本なのに7100円の値段がついていました。
第1章から第6章までの6部構成になっていますが各章の表題の付け方も面白いです。
第1章 悪魔の図式
 何か変だぞー日本、日本人に、こういう漠とした不安を抱いている人が少なくない。それなのに、その原因について「なぜ?」を、真剣に考えている様子も見受けられない。流されているという表現がピッタリなのである。「考えない」というのは、どういうことなのだろうか。「考えない」ことを許す社会が、なぜ、出来上がってしまったのだろうか。教育制度に原因?戦後の社会構造に問題?確かに世間で言うところのランク、マスコミが流布する”正論”に何の疑問も抱かなければ、これほど楽なことはない。しかし、それでいいのだろうか・・・「考えない」ことを考えてみた。
 Ⅰ:「新聞にこう書いてあった」「誰それが言っていた」自分の中でいったん考えるということがほとんどなくなった。「指示待ち人間」、何か指示がなければ動かない(動けない)、そういう人間が出来上がる。権威主義的な体質、つまりこういうことがいいことだと権威に従ってものを考え、自分なりの受け取り方をしない。(加藤)
 Ⅱ:世の中一般にはものを考えない人間が出来ている。それはなぜかと言えば、ものを考えない方が社会が見逃してくれるから。下手にものを考えて「自分はこうだ」と言えば、一斉に非難の的になるか、ひどいときはいじめの対象になる。なるべく同質化していこうという社会が出来上がる。(福原)
 Ⅲ:考えて何か個性的なことをしたり発言したりすると、村社会から排除されてしまう。アメリカでは、私は一体何なんだと常に自問自答して問いかけていく。問いかけない人間というのは軽蔑される。アイデンティティ、自己存在の確認を常に意識する。今の日本は、アイデンティティ・クライシスだということ。あとは横並び(濤川)
 Ⅳ:人に責任を転嫁する、制度や社会に責任を擦り付ける。自分の責任には絶対しないし、する必要がない。制度が悪い、社会が悪いと言っておけばみんな納得する。自己責任の欠如は「悪魔の図式」。みんなが自分の責任を弁えねばならない。教育にしても制度や先生だけの責任にしてはいけない。学ぶ側も自分の責任ということ、何を学んでどう生かせるかを考えることで、教育も改善される。(福原)
第2章 雪がとけたら
 自分の頭で考えるということはどういうことなのだろうか。”自分の”に力点を置けば、自分の価値観、自分の目的が重要なファクターになってくるが、価値観、目的は目に見えないもの。言い換えれば、生き方そのものの問題ともいえる。マル・バツテストで考える訓練ができるだろうか。「正」と「誤」と決めつけることで、柔軟な考えが生まれるだろうか。
 Ⅰ:学生だけじゃなく評論家も画一思考だ。誰も違ったことを言わないのは、表面しか見ていない、目に見えないものを大切にしていないからだ。目に見えない部分に注目しなければ、なぜということに対する答えは出てこない。(加藤)
 Ⅱ:一方で価値というものが分からなくなっているのではないか。その人にとってかけがえのない一番大切なものやことが価値だが、今やお金を持っているとかブランド品を持っていることが価値であり価値と価格が混同されている。価値というのは徳とか、美とかというもので、真・善・美に関わるもの。今は、自分にとって価値のあるもの、価値観とか美学とかがなくなってきている。(福原)
 Ⅲ:ルース・ベネディクトの「菊と刀」。欧米人は神に対する忠誠心、オールマイティに対する忠誠心、メンタリティを非常に重視する。いわば罪の文化、罪の哲学だ。ところが、日本人の最大価値観は、世間様だ。だから世間様がどう見ているかを気にする。「旅の恥は掻き捨て」とか「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということになる。日本で世間様というものを重視するから、自分一人で考えることを重視しない。したがって個性の開花も二の次になる。(濤川)
 Ⅳ:「雪がとけたら何になる」という質問に、「水になる」と答えた子供は正解、「春になる」と答えた子供は不正解。理科的には「水」だが、詩的には「春」でもどちらでも正解のはず。日本の小中学校の計算能力、暗記力、知識量は世界一、あとは高2でクロスして抜かれっぱなし。日本の教育は創造的な力、考える力を育て切れていない。(濤川)
第3章 人間がわずらわしい
 思考方法が、人と接することで磨かれることがある。しかし、他人と向き合いたくない、一緒にいると煩わしいというのも、メイン・トレンドになっている。さて、どうしたものか。「ストレスが無感情人間を生んだ」と指摘されるが、無感情からは目的も生き方も生まれない。・・・「考える」ことを考えると、見事なまでに現代の人間に巣くっている病根が見えてくる。もう一方で、「考える」ことが無限の楽しさという指摘もあり、この楽しいということが、大きなキーワードとして見えてくる。
 Ⅰ:日本でもEメールが盛んになって会ったら言えないことをどんどん言って関係がおかしくなるというのを聞く。アメリカでインティメート・バトルという言葉がり、その人と一緒にいたいけど一緒にいると気まずくて疲れるから離れたいという関係。心理的に成長すると一緒にいることが楽しめるが、心理的成長に失敗するとこのバトルが始まる。これからの情報化社会では心理的成長がうまくいくかどうかということが大切になってくる。(加藤)
 Ⅱ:100%自己決定しなければいけないのかと考えることは反モラトリアムだと思うけれど、モラトリアムとうまく付き合っていくことが、これからの日本ですごく大事かな。簡単に自己決定していいのか、死ぬまで自分の可能性を、もっと他にいい可能性があるんじゃないかということを、それこそ息を引き取るまで疑い続け、追求する社会というのは、ある意味において幸せだとも思うのです。自己実現をずっと追うことが出来る。(濤川)
第4章 自分を脱ぐ
 自分がなければ何も考えられない。自分がないから、他人の評価を気にし、世間を気にする。そこには相対評価だけで絶対評価が、全く存在しない。自分を知ること、自分の頭で考える力をつけることから何が生まれるのだろうか。それは、人の話を素直に聞くことができる適応力であるし、変化を受け入れる懐の深さではないか。
 Ⅰ:「自分を脱ぐ」というのは何かというと「癖を3つ挙げる」んですね。言葉の癖、身振り・手振りの癖、話しぶり、何でもいいから癖を3つ挙げ、この3つを誰からいつ受けたかを書く。そうすると、最後に自分とは何だろう。結局は全部人からもらったものなんですね。(福原)
 Ⅱ:「自分を脱ぐ」ということは心理学でいう同一化ですね。小さい頃は父親に同一化し、その次に先生に同一化して、友達に同一化していく。その同一化の重層化が自分を創っていく。その同一化がうまくいっていると心理的に成長できるが、お父さんが嫌いだとか先生が嫌いだとか言うとその同一化に失敗していくから自分というものがおかしくなってしまう。(加藤)
 Ⅲ:今の日本の社会は一言で言うと、許容社会、何でも許される脆弱性というものがあると思う。実業界などは厳しい国際競争にさらされている。想像力がなかったらやっていけない。ただ、国際化に晒されていない政治、行政、教育、ジャーナリズムは甘やかされている。まだまだジャングルに住んでいる。厳しいサバンナというのは情報戦。これからは日本も厳しい情報戦の中で生きていかなければならない。サバンナこそ、辛いけど、そこで生き残ることが、やはり考える、人間の思考力を発達させる。現代人も、サバンナを求め、厳しい風をむしろ求めて困難を求めていくことが大事だ。(濤川)
第5章 楽しいですか
 長い歴史の中で、偉大な哲学書、思想家、作家、経営者などが自分の頭で考え続けてきた。その考えをまとめた書物もたくさんある。その考えが評価され、生き残っている。それなのに、なぜ、「私」が考えなければいけないのか。偉大な先輩にかなわない。無理だ。本当にそうだろうか。「私」は偉大なる先輩たちと同じこだわり、同じ興味を持っていただろうか。違うはずだ。だからこそ、「私」が考える意味がある。「私」の枠組みで考えることが大事なのだ。自分にとって楽しいこと、それが考えることの原点かもしれない。
 Ⅰ:何で考えるかというと頭で考えるわけです。自分の生き方というものが出来ていないと自分の頭を使えと言っても使いようがない。今、自分というのはこういう自分でこういう風に生きているんだから、その自分にとってはどういうことがいいんだろうという時に頭を使うんです。(加藤)
 Ⅱ:色んなものに興味を持っていくと「なぜ」が心の中に沸き起る。興味を持っていくこと自体が考えることにつながる。(福原)
生き方にこだわらないと思考というものはバネのように考えない時点に戻ってしまう。自分の生き方を高めるところから思考を発展させていかないで、ただ Ⅲ:「考えろ」と言っても、またバネを離したら元に戻ってくる。だから、生き方のグレードを高める、人生の質やグレードを常に問うところから思考というものはあるのではないか。そうしながらも、逆に思考というのは可能な限り垣根を取り払うことも大事じゃないか。だから、持続で根気をつける。習慣の力だから、考えるためには根気は必要。生き方に囚われてこそ思考は発展するけれど、それが垣根になると今度は自由な思考を阻害する。押したり引いたりしながら思考をつづけていく。(濤川)
第6章 ウサギとカメ
 ひらめき、創造性は、経験と考えることの積み重ねだと言われる。結果としての失敗、間違いも含めて、過程を大切にするマインドフルな精神なくして、創造性は生まれない。間違い、間違っていない、成功、失敗は、対立概念だろうか。社会の枠組みの中で「失敗」ということでも、本人がそう考えなければ、一つの目的のための経験、材料でしかないのだ。このような人は挫折を知らない。失敗とか間違いとか思っていないのだから。
 Ⅰ:①経験と学習の積み重ね ②情報の収集と戦術 ③理論思考の訓練 ④集中 これら全部が「直感を育む創造」につながる。知識があって経験があってひらめくんです。何も勉強せずに、パッとひらめくことなどない。(加藤)
 Ⅱ:人によってはずっと考えて集中すればするほど、新しいパラダイムの仕組みができる人もいるし、一時的に思考をやめる、思考を人為的に切断することでいいアイデアがひらめく人もいる。アナロジー的なひらめきもあるし、論理の脳ばかり使わないで直感の脳を使ってひらめく人もいるが、直感は蓄積した知と体験が組み合わさった上に出てくるものです。(福原)
 Ⅲ:人間の思考というものは間違うことを抜きにしては、思考の成熟というものはない。間違うことを恐れない思考こそが、現在の思考の資格ではないか。仮説演繹思考、つまり何々ならば何々だろうという仮説を自分で作り、その学習プロセスで考える力が育っていく。間違うことを恐れない思考が好ましい、あえて間違えていく思考こそ、現在最も必要ではないか。(濤川)
 Ⅳ:ウサギとカメの話。早く頂上に着くことを意識したのなら、なぜカメは勝負したのだろう。ウサギの方が速いことは分かっていたはずなのに。カメはウサギという相手を問題にしたのではなく、頂上に着くという目的を大事にしたのではないか。結果、早く着くというレースには勝った。しかし、その早くというルールを外したら・・・頂上にオオカミがいて食われたかもしれない。ここに「考える」ヒントがある。
SNSによって匿名で投稿できることから、意見というよりも誹謗中傷する文言が増え社会問題化していますが、これも自分の頭で考えたことではなく、人の書き込みに刺激されリツイートしたりすることで起きています。結局は物事の本質(見えないところ)を見ず表面だけを見た画一思考です。
自分の頭で考えるということは本当に難しいことです。考えているつもりでも、新聞・テレビなどマスコミや他人の意見に引きずられ、あたかも自分の頭で考えた意見のように錯覚に陥り喋っていることが往々にしてあります。注意しないといけません。
自分の頭で「考える」とはどういうことかを今一度「考える」ために、読むとよい本ではないかと思います。
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