中小企業経営のための情報発信ブログ248:幸之助論

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今日は、ジョン・P・コッター著「幸之助論」(ダイヤモンド社)を紹介します。著者のコッターは、ハーバード・ビジネス・スクール松下幸之助記念講座名誉教授で、リーダーシップ論の世界的権威です。20年間リーダーシップ研究をしてきたコッターは「経営者個人を、リーダーシップの観点から分析した伝記を書きたい」と言い、その結果生まれたのがこの本です。
松下幸之助氏が生きた時代は、世界的な大不況や戦争があり、現代よりもはるかに先が読めない時代でした。幸之助氏は、人前で話すのが苦手で、アイデアがスピーディーにひらめくこともなく、ソニーの盛田昭夫氏のように華やかさもありません。しかも病弱で寝込んでばかりいました。しかし、幸之助氏は、逆境になるたびに危機をチャンスに変え、リーダーとして成長していきます。
松下幸之助氏は「経営の神様」と称賛されますが、コッターは、実践的なリーダー研究の豊富な経験と知識をもとに、コッター流の視点で幸之助の生涯を丹念に調べ上げ、幸之助氏のリーダーシップがどのように育まれてきたかを描いています。
1.生い立ち(0歳~22歳)
 幸之助氏は、1894年に和歌山県海草郡和佐村(現:和歌山市禰宜)で小地主の8人兄弟の3男として生まれます。裕福だった家は、幸之助氏が4歳の時に、父が手を出した米の先物取引で失敗し破産します。幸之助氏は、尋常小学校を4年で中退し、9歳で丁稚奉公に出されます。五代自転車での奉公時代に、サントリーの起源である寿屋の鳥井信治郞氏と出会い、生涯の師と仰ぎます。自転車や奉公時代に、客から煙草を買いに行かされることが度々あり、その際、いちいち買いに行くよりはまとめ買いをした方が手間も省け単価も安くなると考え、これで小銭を貯めます。しかし、同僚の丁稚仲間から反感を買い、まとめ買いは辞めます。この頃から商才を顕すとともに、自分だけが儲けるのは良くないということを学びます。自転車屋での6年間で、原価・客商売・商取引の基本を学びます。
 15歳になった幸之助氏は、当時普及していた電気に将来性を感じ、大阪電燈(現・関西電力)に技師として入社します。大阪電燈での勤務に物足りなさを感じ、健康状態も悪化し結核の初期症状が現れます。両親や兄姉は既に亡くなっており、10人家族のうち残っていたのは幸之助氏を入れて3人だけ、「自分も死ぬのか」という恐怖に悩まされます。そうした中、新しい電灯ソケットを考案して上司に提案しますが却下されてしまいます。当時の電球は自宅に直接電線を引き込む方式で、電球の取り外しも専門知識が必要で危険な作業であったため、幸之助氏は簡単に取り外しできる電球ソケットを考え出したのです。幸之助氏は「会社を辞めて自分で作る」と一念発起します。そうすると不思議と体調も良くなり、大阪電燈を依願退職します。
2.企業家(22歳~37歳)
 独立した幸之助氏は自宅の長屋の2部屋を改造して工場にします。彼にあったのは、貯金100円(当時の給料の5ヶ月分)と4人の仲間(妻・義弟・友人2人)です。
 だれも電球ソケットの作り方を知りません。元同僚にノウハウを聞き出し作りますが、「潰れそうな会社とは取引できない」とほとんど売れません。
 そうした中、取引先から「扇風機の部品を1000個、至急作って欲しい」と依頼され、1日18時間休みなく働き間に合わせ、160円の収入を得ます。その後も継続注文が入り、「松下電気器具製造所」を創立、商売は軌道に乗り始めます。
 この時期に、幸之助氏は事業の基本を徹底的に学びます。競合製品を分析し、それを改良して、徹底的な節約で低コストを実現し従来品よりも安く売り出します。社員を家族の一員として遇し、新製品開発を柔軟・迅速に行なうという基本パターンを確立して会社は急成長します。
 幸之助氏は、病弱でよく寝込み、考えすぎて不眠症になり、血圧も高く健康とは言えません。しかし、仕事で障害に遭うと不思議と体調が回復し思いも掛けないような力を発揮するのです。
 1929年、幸之助氏が体調不良で静養中に、世界大恐慌が勃発します。松下電器の売上も半減します。同業他社が倒産したり人員解雇する中、幸之助氏は元気が湧いてきて、静養先から経営陣に指示を出します。「生産を半減しろ。ただ1人も解雇するな。工場の労働時間を半日にし、全員で在庫を売れ」この方針に、全社員は喝采し、過剰在庫は消え、松下電器は立ち直ります。その後、ラジオや電池などにも参入し、日本最大のシェアを獲得します。大切にされた社員は生産性を高めるべく、懸命に働き、より安く高品質の製品を作り、販売戦略を考え抜いて売ります。こうして松下電器は1000人の社員を抱える大企業へと成長していきます。
 義弟の井植歳男氏(三菱電機創業者)は、幸之助氏について「働く熱意は人並み外れているが才能は平凡」と語っています。
3.独創的なカリスマへ(37歳~52歳)
 あるとき、幸之助氏は、天理教本部を見学に行きます。幸之助氏が見た光景は、そこにいる人々が勤勉・献身的に報酬もないのに幸せそうに働いている姿です。このことから、幸之助氏は「企業も宗教のように、意義ある組織になれば、人々は満たされ、より働くのではないか」と考えるようになります。
 1932年、幸之助氏は役員や社員の前で語ります。「産業人の使命は貧困の克服だ。社会全体を貧しさから救い、富をもたらすことになる」「企業人が目指すべきは、あらゆる製品を水のように無尽蔵に安く生産することだ。これが実現されれば、地球から貧困は撲滅される
 幸之助時は弁舌が得意ではありませんが、常に情熱が溢れ、訴えかけるものがあり、人々の心に響きます。
 幸之助氏は、「松下電器の遵奉すべき7つの精神」をまとめ、毎朝従業員の朗唱させています。
Ⅰ:産業報国の精神・・・質の高い製品とサービスを適正価格で提供し、社会全体の富と幸福に寄与
Ⅱ:公明正大の精神・・・構成と誠実を旨とし、常に先入観のない公平な判断を心がける
Ⅲ:和親一致の精神・・・相互信頼と個人の自主性を尊重し、共通目的を実現する能力と決断力を涵養する
Ⅳ:力闘向上の精神・・・逆行でも企業と個人の能力向上、永続的な平和と繁栄を実現する企業使命を達成すべく努力する
Ⅴ:礼節謙虚の精神・・・常に礼儀正しく謙虚であることを心がけ、他人の権利と要求を尊重することで環境を豊かにし、社会秩序を守る
Ⅵ:順応同化の精神・・・自然の摂理に従い、常に変転する環境条件に合わせて思想と行動を律し、あらゆる努力で徐々に、着実な進歩と成功を収める
Ⅶ:感謝報恩の精神・・・受けた恵みや新設には栄会陰の感謝の気持ちを持ち続け、安らかに喜びと活力を持って暮らし、真の幸福の追求の過程で出会ういかなる困難をも克服する
 この「7つの精神」は社員の心に浸透し、松下電器の行動規範となっています。
 このころ、大幅に権限委譲する事業部制へと大きく組織を変えていきます。幸之助氏は「企業の成長は、市場ではなく、経営人材不足で止まる」と考え権限能力のある人材育成に力を入れます。これは病弱で他人に頼るしかなかったためでもありますが、この結果多くのリーダーが育ちます。
 昭和の時代、高度成長期にあって、大企業の社長は偉そうに社長室にふんぞり返り、部下の重役に指示を出し、部下は右往左往する、という状態でも会社は回り順調に成長していました。そうした時代に、松下幸之助氏は、松下電器を多くの事業部に分け、事業部長に「社長の責任」を負わせ、自らは株主のような立場で指導していました。本当に、事業部長に「経営責任」を負わせるのです。
事業部は、トースターとか炊飯器とか、それくらい細かい商品単位で分かれていて、それぞれの業務は独立採算制になっていました。そこに幸之助氏が回ってきて、経営指導し、業績が悪ければ容赦なく叱責するのです。この叱責が事業部長には怖くて仕方ありません。真っ赤な顔をして怒り、最後には「会社から貸した金を引き上げる」と言うのです。「君の経営にはお金を貸せないので、自分で頭を下げて銀行から借りてきなさい。それができないなら君の事業部は倒産だよ」と言うのです。
「社長が株主で事業部が会社」というのは、当時では画期的な経営手法でした。松下電器を真似る企業もありましたが、実際に事業部長に経営責任を負わせ、金策に走らせるというところはありません。
以前紹介した稲盛和夫氏の「アメーバ経営」では、大きな組織をアメーバと呼ばれる小集団に分け、その小さな集団にリーダーを任命して、共同経営のような形で会社を経営するという手法を採っています。これは松下幸之助氏の経営手法を真似した(参考にした)ものですが、稲盛氏にしても、リーダーに金策に走らせるという経営責任まで負わせるということはしていません。
松下幸之助氏は、「社長がひとり社内でふんぞり返っている会社よりも、何百人もの社長が社内で育っている会社の方が強い」ということが分かっていたのです。松下幸之助氏は、このように社員が育っていく仕組みを作ったのです。
4.総合的リーダーシップ(52歳~66歳)
 第二次世界大戦の終戦時50歳になった幸之助氏はすべてを失います。戦時中は軍需工場となり、終戦時には多額の借金を抱えます。GHQは、松下電器も財閥指定し、解散命令を受けます。幸之助氏は巨額の個人負債とともに会社から追い出され、松下電器は分割されます。しかし、幸之助氏は、ここから驚異的な復活を遂げます。
 終戦翌日、幸之助氏は重役を集め「我々は国家再建の任務を引き受けなければならない。これは単なる使命ではない。我々の責任だ」と語ります。幸之助氏は戦後に結成された労働組合の結成式に参加し「諸君を信じる。経営側と労働組合は、調和して生きられる」と語り、聴衆は歓呼で応じます。幸之助氏がGHQから追放されたと知った労働組合は署名を集め、組合員の93%が「幸之助を社長の座にとどめて欲しい」という嘆願書に署名し商工大臣に提出します。こうして、1950年に、幸之助氏は社長の座に戻ります。
 一方で、終戦後数年間、幸之助氏は「人類はなぜこんな情けない状況になったのか。平和と繁栄を求めながら自ら破滅するのが、人間の本性なのか」と自問し続けます。こうして、強い意志、先見の明、人を鼓舞する力を持つ、傑出した経営者に育っていきます。徹底的に考え続け、勇気と大胆さを身につけ、会社中心のビジョンはより広い社会的目標に置き換わっていきます。
 海外から学ぶ必要を感じた幸之助氏は、56歳で初めて海外出張をし、豊かなアメリカは幸之助氏の旺盛な挑戦意欲を奮い立たせます。フィリップ社と技術提携し海外技術導入を図り、更に、中央研究所を設置、再び松下電器は軌道に乗り成長を始めます。
 松下電器の技術向上とともに海外の評価も高まり、世界企業に成長します。
5.理想のリーダーシップへ(66歳~94歳)
 幸之助氏は、66歳で会長になり、79歳で相談役に退き、会社の日常業務から遠のきます。
 パナソニックの社史に刻まれる一大事件として有名な「熱海会談」が1964年に開催されます。3年前に会長職に退いた松下幸之助氏が号令を掛け、全国の営業所長、販売会社や取引先の社長に「一人残らずお集まりいただきたい」と伝え、熱海のニューフジヤホテルでエンドレスの営業会議を開いたのです。終わりが設定されておらず、この会議は3日間続くことになります。
 1960年代は高度成長期にあり、1964年度はオリンピック景気と呼ばれる好況が続いていました。ところが1964年末から1965年にかけて反動で証券不況と呼ばれる大不況が日本経済を襲い、複数の大企業が倒産し、最後は日銀による金融機関への特別融資で事態が収束するという歴史的大不況がやってきます。 
 こうした前触れの時期に熱海会議が招集されました。招集された時期には、まだオリンピック景気のまっただ中にありましたが、各事業部から上がってくる数字を見て、松下幸之助氏は今後の流れを敏感に察知します。
 当時、松下幸之助が目指す事業部の姿は「無在庫経営」でした。親会社の販売業績は好調そうに見えても、流通の末端に行けば行くほど在庫が積み上がって経営が苦しくなっていたのです。上からの押し込み販売で販売店が苦しんでいたのです。苦境を訴える販売店と「売れないのは販売店の責任」と主張する松下電器の営業所長たち、話し合いは平行線のまま、3日間が過ぎたのです。最後の最後、松下幸之助が「悪いのは松下だ」と宣言し、頭を下げて、会長職から営業本部長に肩書きを変え、幸之助氏の陣頭指揮で、大手メーカーが倒産する中、パナソニックは証券不況を乗り越えます。
 「共存共栄」が松下幸之助の理念でしたが、その理念が実現できていない現実を突きつけられ、自ら頭を下げたところに、松下幸之助の素晴らしさがあります。 
 幸之助氏は、「人間の本質を研究したい」と考え、「繁栄によって、平和と幸福を」の頭文字を取ったPHP研究所で多くの時間を過ごし、46冊の本を書きました。
 また、「政治家たちにビジョンはない。真のリーダーがいない」と考え、松下政経塾を設立し、真のリーダーの育成に力を注ぎます。
 晩年の20年間は、他人が学ぶのを助けることに力を注ぐのです。常に学び続けた幸之助氏の姿勢は亡くなるまで変わりません。
 晩年のエピソードですが、昼食に訪れたレストランでステーキを半分しか食べられなかった幸之助氏は、コックを呼びます。「食欲がないので食べられないが、大変美味しかった。呼んでもらったのは、食べ残したのを見てあなたが気にすると思ったからだ」とコックに告げます。晩年も、周囲に人たちに気を遣い、謙虚で素直な姿勢を貫き通しています。
現代は競争も激しく、激動の時代です。こんな時代だからこそ、松下幸之助氏のように生涯を通じて強い意志を持ち、常に成長し続ける意欲と能力を持った人材が必要です。この本は、謙虚で素直な心があればいくつになっても学び続け成長できることを教えてくれています。
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