なんだか昭和のドラマみたいなタイトルですみません。
タイトルで遊ぼうとする悪い癖です。
ということで、かなり昔のことですが、道を歩いていると突然見知らぬ若者に「あなたの幸せを祈らせてください」と言われたことがあります。
宗教団体の勧誘だったのでしょうね。
一時はよく見られましたが、最近でもやっているのかなあ。
そのとき、俺が考えている幸せがどんなものかわかりもしないのに、どうして祈れるのかと思ったものです。
当然、祈ってもらうのは遠慮しました。
ううむ、心が狭い。
しかし、祈ってもらえばおかしなところに連れて行かれたかも。
本当のことを言えば、私は自分の幸福にあまり興味がありません。
今の状態を聞かれれば主観的には不幸ではないと思います。
人からはとんでもなく不幸に見えるかも知れませんが。
まあ、別にどうでもいいです。
どう考えたところで、現状が変わるわけではないし、変えるつもりもないからです。
係累は息子を除くとまったくいません。
と云うか親戚とは母親が亡くなったのを機に縁を切ったんですね(父親はその数年前に死去)。
ずっとフランスに住んでいて、まったく疎遠だった人達とただ親戚だと云うだけで親しくする気にはなれませんから。
友人も皆無。
息子以外の人間と占いや翻訳の仕事以外で口をきくことはまったくない。
しかし、金銭的にはそれほど困っていないし、毎日呆然とではあるものの無事に過ごせています。
体調はあまり良くないのですが、この話はまた別の機会に。
話はややそれますが、私の敬愛する漫画家 西原理恵子氏の本にあるベトナムの漁師のことが書いてありました。
この漁師は酷い貧乏で一度出稼ぎにいきます。
しかし、帰って来てから「家族にずっと会えなくて本当に淋しかった。借金がなく、家族が健康だから今が一番いい。二度と出稼ぎなんか行かない」と言うんですね。
これはこれで立派な考え方でしょう。
ハードルを上げすぎていないだろうか、原点に戻ろう、シンプルな生活が一番と言った意見をよく聞きます。
しかし、話はそれほど単純ではありません。
人は進歩をプログラムされているからです。
向上心と言い換えてもいいでしょう。
進歩が本当に人にとっていいものかと言った意見に対する反論は、すでに以前のブログに書いているのでそちらをご覧ください。
いずれにしても、向上心があるから人は様々なものを欲し、それを手に入れるために躍起になります。
人間の業とも言えるかも知れません。
今、私にはほとんど欲はありませんが(食欲は残っています)、これは人間として生命力が衰えている証拠でしょう。
ただ、自己顕示欲はあるようです。
そのために翻訳の仕事をし、このブログを書き、占いをしているんですね。
金持ちはみんなロクな死に方しないなんて言われますが、私も金持ちではないものの碌な死に方をしないと思います。
それでも多分、幸せなんじゃないかなあ。
ここから更にずれます。
人は誰でも幸せも求めます。
そして、幸福が長く続くことを願います。
しかし、驚くかも知れませんが、幸せというものはもともと長く続かないものなのです。
人が、幸せ、つまり「完全に満たされた状態」にあれば、何もする必要がなくなってしまいます。
あらゆるモチベーションはなくなり、一切の努力をしなくなるでしょう。
これは非常に危険なことなので、幸福は長く続かないように設計されているのです。
「幸せ」が達成されてしまえば、それを十分に味わわないうちに、何か足りないものを探し始めます。
つまり、わざわざ幸せではない状態に戻り、再び幸せに向かって努力をし始めるわけです。
昔からこうした状態を良くないと考える傾向があります。
たとえば、老子の「足るを知る」という言葉。
要するに、現状に満足しろということですね。
また、仏教でも欲を棄てることにより悟りに至るなどといったことが言われています。
しかし、上にも書いたように、このような境地に達してしまえばそれで人間の進歩は終わってしまうでしょう。
そして、生きがいもなくなり、世の中は面白みのないものになる。
では。