「誰かに気持ちをわかってほしい」って何なのか。その意味と方法

記事
ライフスタイル
誤解、曲解、無理解…。同じ人間なのに、誰も自分の苦しみや悲しみを理解してくれない。なんで私だけ?と悩むことってありますよね。

悲しいのに平静を装っていたら「気楽そう」と思われ、怖いから慎重にしていたら「何考えてるのかわからない」「冷たい」と思われ、人に何かを相談したら軽く扱われたりしますよね。
辛いときに攻撃されることは、手負いのときにさらに傷を受けること。傷が一つから二つになるのは、精神衛生においては単純に二倍の苦労になるだけではありません。
こういう経験が増えれば増えるほど、他人に接する際のリスク回避のために必要な手順や制限が増えてきます。縛りが多くなるほど、心に起きていることが複雑になっていって、さらに誰もわかってくれなくなっていきます。

そんなこんなで、もっと気持ちを他人に理解してほしい!ということになると思います。
そこでこの記事では、まず「気持ちを他人に理解してもらう」というのが実際どういうことなのかを整理した上で、そのためにどうすればいいかを考察します。

自分の気持ちはわかることができる?

まず、自分が自分の気持ちを理解することはできるでしょうか?
たとえば、悲しい時に「私は今悲しいな」と思っていることは、「私は私の気持ちがわかっている」と言えるでしょうか?
これに対して「わかっていない」と言う場合は、自分の今の認識よりもさらに解像度の高い自己理解が念頭に置かれるときだと思います。修練などによってもっと深くわかることができるはずだとか、他人・社会・家庭などの誘導によって曇らされている、とか。より本来的なものがあって、そこから見れば現状の自己理解は不足である、という発想ですね。

ですが、辛い気持ちで生活に一時的〜長期に支障が出ているような場合、「うわ〜辛…」ってなってるときは、本当につらいかどうか(わかっているかどうか)が問題にはならないですよね。
「考え方のクセが悪いかも」「インナーチャイルドが傷ついてるから」等、今の自分が本来的でない様々な理由があるとしても、今辛いことを疑っているわけではないですね。つまり、「私は私が辛いということをわかっている」という態度を自然にとっているということになります。

では、「私は今辛い」ということが自分でわかっているときに、他人が「いやあなたは辛くないよ」と言ってきたら、それでも自分が辛いのだと思えるでしょうか?
たとえば、学校や職場で毎日いじめられていて、両親は毎日喧嘩していて、父親はたまに帰ってきては荒れ、母親は泣いているかヒステリックかで、母親の機嫌をよくできるのはあなたの兄弟だけで、あなたはどこでも嫌われているとします。毎日気分が沈んでいて、何も楽しくなく、夜もよく眠れなくて毎日調子が悪く、常に謎の微熱や体の痛みがあります。怯えることも多すぎて色々なことがうまくできません。悪いことが悪いことを呼び、毎日少しずつ悪くなっていきます。今日を生きても、積み重なるのは辛い記憶だけ。なぜ生きているのかと毎日考えます。
そんなとき、以前病院で受けた検査が大ごとになりました。なんと、あなたはどこかの国が作った極めて精巧なアンドロイドだということが判明したのです。「普通の人間」にはないはずものが無数にあり、あるはずのものが全然ないというのです。そういうアンドロイドが普通の人間に混じって情報を収集していることが最近ひそかに懸念されており、近年検出のための体制が敷かれるようになってきたということでした。検査結果は大問題になり、あなたが「人間」でないということは最先端の科学において証明されました。その内容をあなた自身も理解し、あなたの体の中に機械的なパーツが含まれていることを、肉眼で確かに確認しました。
さて、あなたは「辛い」「悲しい」「誰も私のことが好きじゃない」「いなくなりたい」と思って悩んできたのですが、あなたは機械として扱われることになり、感情なんて当然あるわけがない、感情があるように振舞っているだけ、反応しているだけ、そう造られているだけ、とほとんどの人から思われるようになりました。あなたの感情を認めるのは、昔から石や鉄に心があると信じてきた人たちや、動物の心的機能を主張したい人たちと、一部の哲学者だけです。ちなみに、あなたの気持ちは「お母さんが私を嫌いで悲しい」などだったのですが、この内実まで真に受けてくれる人はさらに少なくなることでしょう。

ここで、「私は私が辛いとわかっている」ということに何か変化はありますでしょうか。ないんですね。世界中の他人にわかってもらえなくなっても、「私がわかっていない」のではなく、「他人がわかっていない」という問題が深刻になったに過ぎないのです。
例が必要以外に長くなってしまいましたが、これほどまで他者からの否定を受けて、科学的・客観的に感情がないことが証明されても、「私が私の気持ちをわかっている」と言えそうなのはなぜでしょうか?
紛れもなく、わかっているからなんですよね。自分の気持ちの経験から出発しているからです。

他人に自分の気持ちがわかるとは?

さて、では他人が私の気持ちを理解してくれるというのがどういうことかについて考えてみましょう。そのために、まずは自分が他人の気持ちを理解する状況を考えてみます。

たとえば、あなたには友人がいるとします。友人は明るくて優しくて思いやりがあり、あなたに対しては周囲に向けるよりも一段上の親愛を持ってくれているようです。そんな友人が、ある日ずっと俯いていて元気がありません。(A)あなたは「え、つらそう。」と思いました。ただならない様子の友人に声をかけて近づき、事情を聞くと、泣きだしてしまいました。しばらくして泣き止んだ友人に「辛い?何かあった?」と聞くと、「ごめんね、泣いたら楽になった。もう大丈夫。ありがとう」と言って、無理のある微笑みを作って事情も離さずに去っていきました。その日の夜、あなたは友人に連絡して、なんとか通話にこぎつけます。そこでようやく、最近友人がストーカーにつきまとわれていて心休まらず、他人に助けを求めるなと脅されてもいることなどを話してくれて、(B)あなたは「なるほど。」と思いました。事情がわかったあなたは、いつもよくしてくれている友人に何をしてあげられるかを考えました。友人を守り支えることが今自分にできる恩返しだと思って、(C)あなたは現実的な協力と、心理的援助を行いました。
(さて、それから数年が経ち、お互いの環境の変化や引っ越しなどもあって、友人とは離れ離れになりました。ある日あなたは教えられていない友人のSNSのアカウントを偶然発見し、友人にはストーカーなどいなかったことが明らかになりました。全てはあなたの気をひくための自作自演だったのです。)

この例で、「私はあの人の気持ちがわかる」と言いたくなる場面は、主にAやBが典型的なものだと思います。Aは振る舞いから気持ちを推測する場面であり、Bはその人の精神状態を因果関係から把握する場面です。これについて、いくつか例をあげましょう。

①Aが間違いでBがあるパターン:
・最初は「怒っているのかな?」と思って(A)、話をよく聞いてみると悲しんでいるんだ、ということが理解できた(B)。
・いつも元気そうで悩みのない人だと思っていたら(A)、接していてすごい悩みを抱えているとわかった(B)。

②Bがないパターン:
いつもいつも悲しんでいるのを見ている(A)。

③Bが一方的なパターン;
悲しんでいるように見える(A)。詳しく話は聞いていないけど、その振る舞いに身に覚えがある(B)ので気持ちがわかる。

④Bの解像度が低いパターン:
・いつもいつも悲しんでいるのを見ている(A)。みんな何かしら悩みがあるからあの人もそうだろうなと思って(B)、「色々あるんでしょ、わかるよ」と思う。

⑤Bが間違いだとわかるパターン:
悲しんでいるようだったので(A)、事情を聞いたら悲しくなるだけの事情があって(B)、本人も悲しいと言っていた。気持ちがわかったと思っていたが、後日、全てでたらめだったとわかった。

これら五つの例を見ると、本当にわかっているかは別として、主観的に「わかっている」と感じるためにBが必要だということがわかります。というのも、Bがない②のパターンだけは「わかっている」状態の前段階と思えるからです。これがわずかにわかっている段階に変化した④は、ほとんどわかってないけど主観的には「わかっている」ということになった例です。
以上、Aが間違いでBがある①の例から、BがあればAは間違っていても「わかっている」と言えることがわかるため、Bがない②が不足であるということと合わせて、Aはわかっていることの条件ではないといえます。
Bが一方的である③と、Bの解像度が低い④も合わせて、少なくとも主観的には少しでも想像できる因果関係の了解(B)があれば「わかっている」ことになることがわかります。
ちなみに、Bが間違いになる⑤の例を見ると、事実や出来事の理解が覆る場合は、「わかった」と思ったことはあとから無効になります。ただ、覆るまでは「わかった」という態度を取れるわけです。

ちなみにCは、「わかってもらう」よりも基礎的な欲求である、「助けてもらう」に関係する場面です。「わかってもらう」と「助けてもらう」のそれぞれの必要性が同時に発生する場合が多いため混同しがちですが、理解(AB)が足りていて援助(C)が足りていない場合は、「わかってもらえない」よりも「助けてもらえない」という気持ちに発展していきます。カウンセラーに話を聞いてもらえるけど現実の問題が展開していかない場合など(カウンセラーさんが悪いとは限りません。信頼できているなら、「助けてほしい」という不安や焦り、思っていることなどを話してわかってもらうのがいいです)。
逆に、明らかにわかってもらえてないけど効果的な薬の処置を医者にしてもらえていたり、家族に暮らしだけは頼っているけど心が通っていない場合が、Cだけ満たされている場合です。

いずれにしても、「私が私の気持ちをわかっている」というものとは全然異なるということがわかります。私には他人の気持ちを直接経験することはできないからですね。直接経験できるものが私だからです。もし他人の感覚・感情が経験できるとしたら、その他人はもはや私の一部ということになるのではないでしょうか?つまり、他人であるということと、直接的に経験できないということは、同じ意味だということになります。
(余談ですが、「私は悲しい」と思うときと、「あの人は悲しいだろう」と思うとき、同じ「悲しい」なのに全く異なる事象を指しているわけです。前者は直接経験、後者は「自分だったら悲しむだろう」とか、「あの人だったら悲しむかな?」という推測が成立する状況を指しています。)
また、他人が私の気持ちを直接的に経験できるかどうかはわかりません。他人が私の気持ちを直接的に経験しているとしても、そのことは基本的には私にはわからないからです。なので、たとえ脳の状態をコピーとか伝達して…みたいなことまでやったとしても、直接経験されたのかどうかは私にはわからないんですね。

余談が過ぎましたが、まとめると、他人が私の気持ちをわかってくれたと言えるためには、他人がわかってくれたと、私がわかる(B)必要があります。


正直「だからなに?」ってなる話が続いたかもしれませんが…ここからはこれを踏まえた上で実践の話に移ります。

ここまでのことを整理すると、
・私が私の気持ちを理解する確実さで他人が私のことを理解できるかどうかは私にはわからない(できないものとして過ごすのが一般的ですね)
・私のことを認識する他人を観察し、他人が私の事情を正しく了解していることに納得できたら、はじめて「わかってもらえた」ことになる
ということでした。

つまり、最終的には相手が自分をわかってくれたことを自分が理解・納得することで完結するわけです。さて、他人の気持ちを理解するためには、その精神状態につながる因果関係への理解(B)が必要であることに先程触れていました。このことから考えると、他人になるべく本心から説明すればするほど、他人が理解を示してくれたときに、本当に理解してくれたかどうかが判断しやすくなる、ということになります。
逆に、自分の隠したいところをなるべく隠して、見栄をはったり、そんなに辛くないように話したりすると、わかってもらえないと感じやすくなります。相手が理解を示してきても、「本音で話してないから、わかるわけないじゃん」となるからですね。その態度で察してほしい、というのも気持ちはすごくわかるのですが、そこで多少察してもらえるとしても、多分それでは自分が満足することはできないです。

でも、他人に本音で話すとか難しすぎますよね。自分の嫌いなところ、本当に悩んでいることを話していいなんてなかなか思えません。
ですので、まずはこのあたりからゆるめていく必要がありますね。そのために、自分で自分に了解を与える過程をご紹介します。心配しなくても、すぐにはゆるまらないので大丈夫です。



自己了解(自己受容・セルフコンパッション)

自己受容とかセルフコンパッションという言葉は、聞いたことのある方も多いかもしれませんね。もしかしたら、役に立たないとか効果がないとか、気持ち悪いという印象のある方も多いかも…。
ですが、今後の実践においては必須の態度になります。一読していただければと思います。

例からいきましょう。
あなたは学校や職場でよく一緒になる友達ができたとします。その人と1、2年仲良くした頃、はじめてその人が幼少から家庭環境で苦しんでいたこと、誰からも浅くしか理解してもらえず孤独で苦しいのだということを知ったとします。
あなたは、次のように言うでしょうか。
「うーん!幼少からの苦しみとかいうけど、とはいえまあ過去のことだしね!いつまでもやってるわけにもいかないし!それより目の前のことをやってみないか!行動しないのはリスクだし!不幸は全部自分で選んでるともいうし!もっとちゃんとすれば好転するかも!成功者はうじうじしないんじゃないかな!」
それとも、「家庭の苦しみは本人にしかわからない部分も多いが、とても辛かっただろうと思う」「そんな扱いを受けたら、苦しいと感じるのも無理もないことだ」「話くらいならいつでも聞くから」と言ったり、普段感謝していることを伝えたり、温かい飲み物をあげたり、気分転換に付き合ったりするでしょうか。

もし逆の立場で、あなたが苦しんでいたら、友人からどっちの態度をされたいでしょうか。私は後者のほうなのですが、ほかの「他人にわかってもらいたい」と悩む多くの人も後者だと思います。
では、自分が自分自身に対してとっている態度はどちらに近いでしょうか?前者は誇張された冗談みたいな例に見えて、よく考えたら普段こういう態度を自分自身に対して実際に取りがちではありませんか?
前者の対応の仕方が了解(B)を完全に無視・拒絶する態度であるのに対して、後者は事情を積極的に考慮・尊重していく了解的な態度です。

この一連の話は、自己受容・セルフコンパッションのほぼ受け売りなのですが、これを抜かした場合、適切な場所・方法で助けを求めたり、自己表現ができなくなるので、他人からわかってもらう観点からも必須になります。
たとえば、いつも家庭環境の記憶に悩んでいるのに、過去のことに苦しんでも仕方ないじゃんと言い聞かせて、目の前のことに取り組めばよいと考えてキャリア相談とかに行くとします。この場合、「気持ちを他人にわかってもらう」という観点からは、キャリア相談より心理カウンセラーに相談する方が明らかに幼少のことをわかってもらえる可能性があります。あるいは、悩んでいる自分がどこかダメだと思っている場合、他人にもそう思われることを危惧して、相談することを避けたり、初めからわかってもらえなさそうな相手を選んだりしてしまうことにも繋がります。
なのでまずは、友人に優しくするように自分に優しくします。「辛いからなんとかしないと」という発想を、「なんか辛いから自分に優しくしよ…」に少しずつ変えていきます。おすすめはホットレモネード、ホットココア、陰ヨガです。気分転換に外を歩くのもおすすめですが、時々もっとゆっくり歩いてみてください。理由は「疲れたから」でお願いします。自分に優しくする感覚がつかめるかも。ゆっくり歩いたり、なんなら止まったり座ったりして、空気感を感じたり風景がよく見えてきて、ルートを外れてでも行きたい方向があればそっちに行ってください。「受け入れられない自分をもっとよくするため」「自己肯定感が低い自分を直すため」「私は大丈夫だと感じるため」ではないです。理由は「座りたいから」とか「行きたいから」にしましょうね。もちろん、ルート通りがよければそうします。「ルート通り行きたいから」です。
少し前に書いたように、自分自身の気持ちは直接理解することができます。「今はこうとしか思えない」ことは、今そう思っていることを尊重しましょう。他人にわかってもらえた場合でも、それ以上に自分でも自分をわかってあげるようにしたいですね。


説明、表現

さて、自分のことを受け入れる下地についてお話したところで、「他人にわかってもらう」ことについて再度考えていきます。

私たちは「他人に気持ちをわかってもらいたい」と思っていて、これは「他人がわかってくれたと、私がわかる」ことなのでした。これは、まず他人がわかってくれることと、私がそれをわかることの二段階の過程から成っています。
わかってもらう手段は色々あるかもしれませんが、話してわかってもらうことに絞って考えていきます。

このとき、次のようなことが必要になるはずです。
・相談相手として適切な相手を見極めること
・話すのに勇気が必要な核心部分を少しでも話すこと
・相手の善意を探す努力をすること
一つずつ見ていきましょう。

相談相手として適切な相手を見極める
探すことと決めることにそれぞれ注意点があります。

<探す>
まず、カウンセラーや相談サービスから探す場合は、なるべくSNSなどで発信していたり人柄がわかる文章などがある人のなかから探しましょう。情報が多いほうが、その人が話を聞いてくれそうかどうかがわかりやすいからです。身近な人に相談する場合は、本当に大丈夫かどうかを一層慎重に考えましょう。

<決める>
多くの人は、カウンセラーでも友人でも、選ぶときには十分慎重にはなると思います。むしろ慎重になりすぎて、みんな疑わしくて、わからなくなってしまって、結局望んでいない雰囲気の相談相手を選んでしまうことになりがちです。セルフコンパッションの意識がない場合、「もっと頑張れるように厳しめの人にしたほうがいいんじゃない?」「優しくしてもらったらダメになるかもしれないから、理解してもらえないほうがいいんじゃない?」といった無意識の誘導に押されてしまうからなんですね。
ここでも自分に優しくすることを第一に、「この人に話したいかどうか」「この人は自分にとって栄養の一種になりそうかどうか」を考え、「この人いいかも」と思った感覚を忘れずに、ちょっと勇気を出して決めることが必要になります。セルフコンパッションに基づく決定や行動は、自分に厳しくすることよりも勇気が必要だったりします。

話すのに勇気が必要な核心部分を少しでも話す
線引きと勇気のバランスについて書きたいと思います。

<線引き>
まず線引きについて注意するのは、特に周囲の人に話すときには先程のABCにおけるCまでを求めてしまうと引かれる場合が増えるということです。「わかってもらって、助けてほしい」という気持ちも本当に本当に…本当に…わかるのですが、話すときには「わかってもらう」ために他人に話すようにします。話の結論は、「だからなんとかしてほしい」ではなく、「〜だから辛い/〜だから悲しい。それで聞いてほしかった」のようにします。もちろんこう言わなくてもいいのですが、そういうつもりでいるようにします。
私はこれができなくて、それから相手を選べなくて、自分で自分の気持ちもねじ曲げようとしたり曲解したりしていて、それで失敗して、かえって人間不信を深めてしまったなと思います。
実際、苦しみがとても深いときには、「わかってほしい」と「助けてほしい」を切り離せるものではないので、これがイメージできなかったり辛そうと感じるときは、話す相手を選んで優しいカウンセラーや相談サービスなどだけに限るほうが事故が少ないです。どうしても周囲の人には、「助けてほしい」を含むメッセージは関係の変化・緊張を思わせやすく、上手く対応できない場合が多いからです。

<勇気>
線引きができたら、わかってもらうためにしっかり本音を説明することになります。本音を自分自身で扱いかねているからこそ葛藤し、悩んでいるので、話すのに勇気が必要なのは当然のことです。でも、ここで「こんなのダメだから隠さないと」と思うと、話せなくなりますね。話さないことを選ぶ場合は、「話してないから、わかるはずがない」パターンに向かうことになります。もちろん、そのとき話したいこと・話せることだけ話せばよく、無理をする必要はないのですが、勇気を出してみたい気持ちがある話題があれば思い切って話してみましょう。
線引きできていれば、さらっと話してみると全然引かれないし大丈夫ってことは想像の5万倍くらいよくあります。私自身、人の相談を受けているときに勇気のあるぶっちゃけ話をしてもらったら、(おお〜!頑張ってる!えらい!すごい!)と思いながら聞いています。苦しんできた人の出す勇気には、本当にリスペクトしかないです。繰り返しになりますが、無理をする必要はありません。これを自分のペースでやります。


相手の善意を探す努力をする
最後に、説教くさい項目で申し訳ありませんが、「他人がわかってくれたと、自分がわかる」ために、相手の善意を探す努力をすることについて書きます。感謝しすぎな人に対しては建前の裏の本音を探す努力をおすすめしますが、人間不信気味な人がもっと「わかってもらう」ためには、善意を探すことをおすすめしたいからです。

人間不信や斜に構えることが板についていると、「他人は絶対私のことがわからない」という前提が身に染みていたりすると思います。この状態だと、共感と思いやりを示してくれた相手に対して「は?適当言うなよ。どうせ優しくすることであなた自身の何らかの目的にとって利益があるだけなんでしょ?」「私が散々苦しんできたおかげであなたは他人に優しくできる人間になれてよかったね!」みたいな気持ちを抱いたりすることになりますよね。
セルフコンパッションによってもう少し気持ちの余裕ができてきたら、相手の粗探しをしたい気持ちを自分の中に見つけて受け入れつつ(友人がそのことで悩んでいたら、どう声をかけますか?あなたがそのことで悩んでいたら、どう声をかけられたいですか?)、理解を示してくれた相手の善意も探してみます。なんだかんだ時間を割いてくれたこと、聞いてくれたこと、ちょっとでもこちらの気持ちに言及したり事情を知ろうとしてくれたこと、などなど…
完全に満足のいく形で対応してもらえることばかりではないはずだし、あなたの全人格を数回の会話に込めることもできませんが、今回どれくらい受け止めてもらえたのかを冷静に、盛ったり引いたりしないように測ってみます。不満だけでなく善意も見つけられるようになることで(多分普通は両方を見つけられます)、「わかってもらう」ことにより近づけると思います。


まとめ

私たちはそもそも、他人にわかってもらいたいということで長年悩んできましたが、わかってもらえていないということだけがわかっていて、何を求めているのかはわかっていなかったりすると思います。
今回の記事では、他人にわかってもらうということを「他人にわかってもらうと、私がわかること」と解釈したうえで、それがよりよく達成できるように考えてみました。
まとまるように書いたので、相談相手選びに失敗した場合や、かえって傷ついた場合については書けませんでした。でも、そういうこともあるし、だからこそ怖いわけですよね。今回は自分でできることばかり書いたのですが、あなたに向き合う努力を怠った他人も確かにいたのかもしれません。無責任ですが、その経験も踏まえて聞いてくれる人が必ずどこかのタイミングで現れるはずだと思います。「理解してもらえなくてつらい」というエピソードは、本来広く理解される感覚のはずだからです。

長くなりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
おすすめは、ホットレモネードとホットココアと陰ヨガです。
あなたの生活と精神がよりよい方向に進みますように。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す