その年の夏休み、山の日の朝。
村の少年・蓮は、父とふたりで山の奥へと歩いていた。
空気はまだ涼しく、葉の上には昨夜の露が光っている。
蝉の声が遠く近くで重なり、時おり鳥の影が木々の間をすり抜けていく。
父が籠を背負い、蓮は小さなお弁当包みを抱えていた。
今日の目的は、山の神様にお礼を届けること。
一年の間、山からいただいた水や木の実、そして静けさに感謝する日だった。
山頂近くの大きな岩の前に着くと、父は深く頭を下げ、
籠の中の果物や花を岩の前に並べていく。
蓮も隣でお弁当包みをそっと置き、手を合わせた。
すると、ふと風がやみ、森全体が息をひそめたように静まりかえった。
耳を澄ますと、遠くから低く、しかし柔らかな声が聞こえてくる。
――「よく来たね。ようこそ、わたしの山へ」
蓮は驚いて父を見るが、父はただ微笑んで頷いた。
声は続く。
――「そのおにぎり、ひと口食べてごらん」
蓮は言われるままに包みを開き、母が握ってくれたおにぎりを口に運んだ。
海苔の香りと白米の甘さが、冷えた山の空気と混ざり合って、胸いっぱいに広がる。
「…おいしいね」
つい小さく呟くと、木々の葉がざわめき、どこかで鳥が高く鳴いた。
風が再び吹き抜け、岩の前の花が揺れる。
山の神はそれ以上何も言わなかったが、
蓮の心には、山そのものが静かに微笑んでいる気配が残っていた。
下山の道すがら、父がぽつりと言った。
「山の神様は、よく『おいしい』って言葉が好きなんだよ」
蓮は少し考えてから、にっこり笑った。
来年の山の日も、きっとまたこの山で、あのおにぎりを食べようと決めた。
――「『おいしい』は、命の言葉。食べるものも、食べる人も、それで元気になる」
その瞬間、森の中で一斉に虫が鳴き、木の葉がざわめいた。