夕暮れの湖畔。
水面は鏡のように静かで、空の赤と紫がゆっくり溶け合っていた。
奈央さんは桟橋に腰を下ろし、足先を水に揺らしながら、自分の心の奥を覗き込むようにしていた。
意識の世界では、毎日が理路整然と並べられた棚のようだ。
やるべきこと、言葉の選び方、微笑みの角度まで整えて生きている。
けれど、その棚の奥には——自分でもよく知らない、暗くて広い部屋がある。
「そこは、無意識の部屋だよ」
声がした。振り向くと、色とりどりの布をまとった道化が、桟橋の手すりに腰かけていた。
片方の靴だけが赤く、もう片方は青い。笑っているのか、泣いているのか、わからない表情だった。
「あなた、誰?」
「僕はトリックスター。境界線の番人。意識と無意識、そのあいだを行ったり来たりして、両方をくすぐる役割さ」
道化は足をぶらぶらさせながら、湖の底を指差した。
そこには、小さな光がゆらゆらと漂っている。
「それ、あなたの無意識の宝物。きちんと見たこと、ある?」
奈央さんは首を振った。怖かったのだ。
無意識には、過去の痛みや抑え込んだ怒りも沈んでいると思っていたから。
道化はくるりと宙返りして、湖面に飛び込んだ。
水しぶきは、虹色に光った。
やがて彼は、両手にその光を抱えて浮かび上がった。
それは意外にも、柔らかく温かい光だった。
触れた瞬間、奈央さんの胸の奥で何かがほどけた。
「ほら、無意識は敵じゃない。君を笑わせたり、泣かせたり、時には驚かせるための泉なんだ」
そう言って道化はウインクをした。
気づくと、彼の姿はもうなかった。
湖面だけが、淡い星明かりを映して揺れていた。
奈央さんは立ち上がり、そっとつぶやいた。
「……また来てね、境界の道化さん」