京都は今、さまざまな種類の桜が咲きほこって、ボリューム満点のソメイヨシノはもう散り始めています。
淡路島に遠征に行ったたまちゃんに、そこでもらってきた風邪をうつされ、私はつい3日前も、急激な体調悪化で、病院で点滴を受けてきたばかりなんですけどね、そのせいか、何て言うんですかね、また地元で新たな変人(特殊技能者)に会っちゃいました…。
そして、そのひとにsuper natural(源)とエネルギーを繋ぐ手助けをもらったことがきっかけだったのか、急に色々な思いが溢れてきたんですよね。
それまでの私は疲弊してて、この虚弱体質なので、あと健康とかを考えてもせいぜい寿命は15年くらいで、あとはもうできるだけ静かに余生を送るだけ、みたいな想像しかできない感じだったんですけど。
で、じゃあ残された時間でなにをしたいのか、なにができるのか、って、なんとなく悶々と考えていたんですよね。
お釈迦様によると、人生に特に意味はなし。聖者たちもみんな、人生には意味がない、ただ壮大な暇つぶしの時間が広がっている、って口を揃えていうし、私もそうだと思ってる。w 人間は自分の人生に意味を見出したい機能がついているマシーンみたいなものだという人もいた。
数年前は、それがお酒だった。
たくさん飲むのではないけど、それが楽しみだった。
ところが年齢と共に、ほとんどそれももう飲めなくなったから、人生、酔えるものがない。w
もう酔えなくなったから、なにか欲しい。
人間の思い(思い込み)って、面白いことに人をエネルギッシュにしてしまうことがあるでしょう。
一番わかりやすいのは、恋ですかな。
もうそんな気分も古い時代のことなので、懐かしいんだけど、好きな人にどう思われるかを気にしてかっこつけたり、相手の反応で悶えたり、普段はやらないようなことに時間をかけてみたり、なんか妄想だけでつっぱしれる力がありますよね。若者には特に!
それはいわゆる煩悩という。
でも、煩悩には、人をエネルギッシュにさせる不思議な力が備わっている。
煩悩というと、すごくいけないもののように感じるかもしれない。
たしかに基本的に煩悩は、自分を破滅させる悪酔いする酒のような存在感である。しかし、仏教は最終形態に至るなかで、煩悩のちがう側面にも気がついていくことになる。
わかりやすくいうと、仏教(仏道)には、三段階の進化がある。
最初は、上座部仏教といって、釈迦がひらいたさとりの第一歩として、まずは自分の内側を見る、という心を徹底追求していく。生存本能によって動かされっぱなしの自分をみつめる冷静な自分を見つけていく。
その瞑想の修行のなかで、ひとは、自分の煩悩と煩悩に囚われていない本来の自分との境界線に気がついていく訓練をしていき、釈迦の悟りに近づこうとする。このスタイルは、タイみたいな東南アジアの方面に残る仏道修行のスタイルである。現代の物欲につながるような持ち物はすべて捨てて修行に入る。
次の段階は、いわゆる大乗仏教といって、上座部仏教の基本修行を通して、自分の意識に被せられたフィルターの存在に気がついたその先の世界。
大乗仏教は、この世界は自分の意識の延長線上にある、世界と自分とが相互にかかわりあっているという関連性の実態を理解し始める段階。
全ては縁起にあって、今現在の自分の直接的な因果応報だけでなく、認知の限界を超えた因果によって現在の現象がおきていることや、自分の意識は自分だけで作られておらず、肉体からの刺激や胎児期からの環境による刺激や日頃何を考えているか次第で、ものの捉え方、世界の見え方が全く変わってしまうことに気がついていく。釈迦が伝えた般若心経の世界観が外部との関わりの中で、身を持ってわかってくる。
だから、厄介な相手、腹立つ相手…自分の意識を変えるために、自分の外側にあると思っていた他者は、実は自分とエネルギー的なご縁を持ちあって、対応している存在であることに気がつくようになる。
外側と戦うのではなくて、自分の内側と向き合いながら、外に対処していく。すると、対になることで、新たな視点を得るという結果につながっていく。例えば、もう一人の自分=他人を手助けする中で、助けられる相手の視点と助ける自分の視点とが両方揃った時、物事の見え方に新しい視点が生まれてきたりすることだ。
ある日、突然ハッと気がつく。瞬間、おちいっていた自分の思考の癖、行き詰まりなどがとれて、違う次元世界、価値観世界に到達するような成長を遂げるようになる。
上座部仏教のような自分のための隠遁生活をでて、大乗仏教は社会との関わり合い、その組織的な関わり合いを通して、自分自身の意識世界を見つめ、そこでわきおこる反応性から、細かく自分を修正していくことで、自分の意識をストイックにクリティカルに検討し、また他者には慈愛と知恵をもって、高い意識に上り詰めようとした。
そして第三段階目が、いわゆる密教。
密教は特殊な背景がある。それは、仏教がイスラム教、他宗教に侵略されていく時代背景の過程で生まれてきた。平和な社会だったら、釈迦の言うように自分の内観や苦しみの解放へ向けた修行だけをしていけばいい。
でも密教が成立した時の、仏教徒の時代背景はそんな平穏なものではなくて、仏教は戦わねばならなかった。仏教以外の宗教との対立があり、絵空事(きれいごと)ばかりいう仏教からは離れようとする信徒勢力にたいして、何か回答を提示しなくてはならなかった。
ここへきて、仏教は釈迦が始めた教えに沿って生きる結果、精神世界と物質世界の二つの現実を両方ともが、仏教をとおして、まかなわれると、結果で証明しなくてはならなくなっていった。
そして、現実に精神追求と物質追求とのバランスが、そのときの仏教徒の生存に必要だったから、もともと大陸の土着の風習の中にあった考え方や「儀礼」「呪術」と言うものが、仏教に取り込まれ、祈祷やそのほか実利的な技術や知識がとりこまれていった。
そもそも、宗教というのは、常に時の権力者に保護されなければ、生き延びることができない。だから権力者に、「これは有益だ。」「信じるに値するすごい宗教だ。」と思わせることが大事だった。
それは古代中華大陸の国々でもおんなじだったし、京都の平安京においてもそうだった。奈良仏教にこりごりだった天皇が、再び仏教を京都においてもいい、と思ったきっかけは、比叡山の最澄が遣唐使でもってきた密教だった。そしてその後、空海が本格的に密教の教えをもってかえってくることになる。
すでに、密教のあれこれをマスターしていた空海がなぜ遣唐使船に乗る必要があったのか、というのは諸説あるけど、わたしは灌頂をもらってくることが第一義だったのではないかと思っている。
仏教というのは、実はすべての人は師僧から灌頂というのをいただく。
スピリチュアル的な言い方をすると、灌頂というのは、仏(宇宙のさまざまのエネルギー)とのつながりを開くルートを開くことと同じ。
釈迦はそれをもっていて、だから釈迦の弟子は、釈迦から受け継いだそのルートを代々、自分の弟子に伝授することで、その釈迦がひらいたエネルギー的なルートを世界に継承して行った。
チベット密教などは、そこはかなり厳格で、上座部から大乗仏教、さらに一部のエリートはそのまま密教へとすすみ、すべてのルートを子供の頃から修行で経験させて、僧侶を名乗る。
そんなふうに釈迦からずっと伝授が続いているわけなので、僧侶の存在意義は、時代を超えた壮大な伝言ゲームをつづけること、と教授が表現することがあるくらい。
ダライ・ラマをはじめチベットの僧侶が尊いのは、そのルートをねずみ算式に守り続けてきたからだし、京都の禅寺、大徳寺や仁和寺などもそういうわけだから、どのルートで灌頂が伝授されたのか、師僧は誰なのか、ということがとても重要で、そのルートがない人が、頭を丸めたからといって、今日から勝手に手を上げて、僧侶をやることができない世界なんですよね。
(※だから、ある意味で組織から離れた「単立」の寺は、どういうエネルギーを繋いできているのかがわからないので、スピリチュアル的には危ないし、偽坊主が勝手に僧侶をやっている可能性もあるので、真言宗なら真言宗、比叡山なら比叡山、それぞれ本部があるんで、そこでしっかり資格や身元については聞いた方が良いと思われる。)
で、話の続き。精神的な魂の向上とともに、現世利益という物質世界でもしっかりと結果を出していかねばならない、となった時、密教は気がついたわけ。
「あれ、これまで、煩悩があることをなんとか振り払ってきたけど、生来、備わっている煩悩は、煩悩なりに実は役割があるんじゃないか?」って。
人間はこれに価値がある、これが欲しい、と執着したり、思い込んだりすると、間違いも犯しやすいけど、逆にそう思い込む力は、自分の肉体や気持ちをエネルギッシュにして、普通の人が達成できないことも楽に達成させてしまう時がある。つまり、煩悩は、たくさん用いれば毒薬だけど、適量使う分には薬としてカンフル剤的に上手く使えるんじゃないか?
って、思うようになったんですね。
密教は、人間の無尽蔵の力とも言えるイマジネーションと念の力をつかって、便利な技術は活用して、現実世界を変えていこうじゃないか、そして、精神世界も物質社会もバランス良く発展させていこう。というようなところがあった。
だから、これまでの仏道とは違うやり方をする密教にであって、仏教不信だった天皇は、再び仏教への希望を感じて、空海とのやりとりを通して、平安京は密教を取り入れながら統治することに決めた。
そして、空海の密教はとくに他の宗教を排除することなく、そこにこれまでの神道や山岳修行から生まれた呪術、道教的な呪術、陰陽道などをも取り込んだりして、修験道や神道と共にコラボレーションして国の発展に寄与しようとしたという感じ。その痕跡が、京都にはまだあちこち残っていて、そういうのをみて回って、大学関係者からオタクや土地や宗教分野の専門家から話を聞いて、独自探求してるのが今の私であるわけ。
でもさ、自分で想定してあと15年の寿命だとするじゃん。
するとこの探究の意味ってなんやろな?って、自問自答するわけですよ。
でもね、ただ、面白い、惹かれる、としか説明しようがないですが、それをやってると、知識の扉が次から次へと開いていく。
あたらしい変人たちとも出会っていく。w
算命学の元の元の源泉には、インドからヒマラヤ、ペルシャ、ユーラシア大陸の土着の価値観が大きくかかわっていて、古代中華の国に入り込んだそういう多様な価値観もこの成立を手伝っている。
密教も京都に残っている古代中華大陸の文化も全部関わり合っている。
例えば、インドの聖者は、「人間の生体磁場には全ての情報が書かれている。その情報は胎児期から始まっている。」といっていた。
この胎児期に全てのこの世でのスペックが決まる話は、ドイツやフランス、手技を使う自然系波動系医療の世界でも知られていて、知っている人は知っている。
それに重なるように算命学も、天報星という時期から、この世の始まりを計算していく。天報星は胎児の星としてよく知られているけど、まだ生まれてない。お腹の中にいる。この世に出ていない。そんな人間の段階。
算命学では天極星、天庫星、天馳星になるともうあの世の星だけど、お腹の中にいる時点の胎児は、ただの細胞の段階でさえ、すでにこの世の次元にいる存在として分類される。
胎児は受精後、自分の本質的な自分である魂が、この世と交信しはじめて、自分の生体磁場にブループリントを作り上げていく。母親の生体磁場につつまれながら、父母の細胞が発する情報と自分本来の魂の情報を交流させながら、自分の磁場を形成させていく。
そして、生まれた後にその磁場が意識の最初の型を作り、その意識の型に自然界や宇宙といった外部環境のエネルギーがはいりこんでさまざまな体験をつくりあげ、ある程度の年齢を過ぎると、その人間が生まれた先にでくわす3次元リアリティを決めてしまうのだ。だから、天報星は不安定な時期でありながら、この世の始まりとして最重要な存在なのである。
そのような意識の仕組みを、気の法則に従って読んでいるのが私である。
しかし、自分的にはこれを読んでいく時には、無意識に相手の磁場に自分の磁場が入り込ませていることがある。生体磁場がガタガタになるのは、そこで、やっぱり自分と相手との間の境界線というものが、いまだしっかりとひききれていない部分があるからなのだろうと個人的には思ってる。
もともと体が弱い特質があってそういう微細な世界に触れることができる反面、自分も外部環境に振り回される。
そういうところで、きちんとした対処法をマスターしない限り、健康寿命が削られていく学問かもしれない。知り合いの算命学の鑑定士が早くに亡くなったこともあって、それは常に頭にあった。
陰陽師や仏教者は、その筋の人に聞いてるけど、基本的にある修行を経由して灌頂をいただくことによって、仏教的な存在が象徴する宇宙とルートが繋がるので、自然な結界が働いて、わりと心身が削られることは少ないらしい。
今やっている茶道もそれをちゃんと意識していて、結界と祓いの儀礼がたくさん含まれている世界。私的には、茶道の世界に多くのヒントがあると思っている。
例えば先日、師匠に聞かれたことがあって、「Jemmyさん、さぁ、わたしがこの茶室に最初にしている結界は、なんでしょう。」
「これ、子供の方が気がつくの早いんだよねぇ〜w」って笑って言われたんですよ。
「む〜・・・わかりません。」といったら、
「香りがしたでしょ。僕、いつも、お香焚きしめてるでしょ。茶道にとって、最初の結界は、お香だからね。」って正解を教えてくれました。
あ、そういうことか。と
寺でも、ヒマラヤでもチベットでもヒンズーでもあちこち、香りってある。
(神社だけがない…?でも子供に言わせれば、榊の匂いがそれなのだそう。)
でも、この香りは脳に血中からダイレクトに入ってくるので、脳波を瞬時に変える。だから、それまで「自分じゃないもの」をくっつけてきた客人は、そこで波長をかえ、自分を乗り物にしてきた存在たちを振り落とすことができる。
私がクライエントさんに、質の良いお香をお勧めするのも同じ理由。
とにかく、茶室にはすごい秘技がいっぱい含まれている。これらの仕組みを深くわかっていたとしか思えないひとたちが作り上げた、秘技がたくさん定型の中に組み込まれている。
茶道の先生は、いってた。
「おにって言ったんですよ。昔。鬼を払う必要があってこういうことを設定したんです。」
おに、っていうのは、文字通り鬼じゃなく、隠仁(おに)のことを指していた。隠仁というのは、目に見えない存在全てを漠然と指していたことばで、そのなかに煩悩や迷いといったエネルギーもあるし、里山の世界の神や死霊、生き霊なども指していて、生命のない世界全般をおに、といっていたらしい。
なぜ、茶道がこれほどまでに結界をつくり、はらうことを意識しているかというと、これまた私は大胆にこんな仮説を主張したいと思う。
千利休は、霊能者であった可能性がある。
というのも、実は千利休は今年、年男で、壬午年の生まれであったと言われている。壬午は霊感の日干で、それが年干支にあったとしても、そのような要素を持つ。おりにつけ、たまに視えたひとであった可能性がある。
戦場は生き死にの世界。
その間で、陣中で茶を立てていた利休が、おにに出会わなかったはずがない。昨日一緒に茶をのんだ武将が、命を落としたあと、目の前に現れるなんてことだって、絶対にあるはずだ。
だから、茶道には、霊的な世界をむしろあるべきものとして肯定する儀礼がたくさん存在する。
利休には、人を迷わせるもとになるものが見えていたんじゃないか…?
そう思っているなかでたまたま出会った、医療系の特殊技能者は、「訓練すると、邪気がちゃんと意識できるようになる。」と言った。
おもたかった気が軽くなったのを感じて、突っ込んで聞いてみた。
「邪気は確実に存在するよ。そして、それを感知して避けるか、帯びてしまった時の対処訓練をしっかりしたり、方法をもっておくかしないと、他者の生体磁場にアクセスする僕らのような職業は長生きできない。」とその人は言っていた。
「瞑想によって、脳波を自律する訓練をすることによって、もっと深くて宇宙の摂理とも言えるものに繋がれる。まぁ、こんなこと言っても、あやしいやつって言われるから、普段はそんな話は、人にいえんけどね。今だって、聞かれたから答えただけだから。w」
散発的になにかヒントが転がってる!とその時思ったんですよね。
自分が気が付かないだけで、おそらく生体磁場の世界、気の世界、波動情報の世界、そういうものについて誰かが秩序に沿った体系を残してくれているんだなぁ、とおもったんですよ。そして、それぞれ領域は違うけど、根底で繋がる同じものを何か掴んでいる!って思ったから、そのひとに質問を重ねて食いついてしまった。
不可解な顔をする相手に自分の探究の情熱を相手に語ってた。
そして、語りながら気がついたことがあったんだよね。
なぜ、私はこんなことがやりたいのか。
それは、「ひとが自分で自分を幸せにする技術を確立したいから」だったんだって。私は東京で暮らしていた小学五年生の時、毎日、人生に生きている意味がみつからなくて、死にたくて、学校から帰るたびに、遺書を書いて、引き出しにためておくような子供だったんだよね。その時は、いろいろと言語化できない苦しみがあった。
でも、あの時、もし、自分の人生をどうやったら、苦しみ少なく、充実を感じていきいきと生きていけるか、そういう方法や道筋を示してくれる精神的に厚みのある大人がそばにいたら、その後の40年は全然違うものになったはずだたとおもう。
でも、子供の自分に、本物の人生哲学や知恵をさずけてくれるような昭和の大人は全くいなかった。実際に、精神的に未熟な大人たちが多かったのが、昭和の親。そして彼らは高度成長期を通して、物質世界に強く関心を傾けていた。
令和になった今は、そんな子供時代の自分のような子供が確実に増えている。小学生の自殺数が最大級に増えて、その記録を塗り替え続けている。
いまのこどもたちは、生まれても生きる意味を見出せない…。
具体的な個人的な家庭の事情はいろいろあると思う。しかし、そんな家庭の事情は、江戸時代だってあった。明治にだってあった。
でも科学が発達しても豊かでもなお死を選ぶというのは、その時代よりも、子供たちの未来を開発してくれる大人、手を貸してくれる大人が、あまりに幼稚化して、能力的にも物質的にも、極端に減ったというのが、一番の理由なんじゃないかと思う。
だからセーフティネットも働かない。
役所で働いている人間も、カウンセラーも人間の心理、意識、人の道、倫理世界といった深い世界がわからない人が多くなっていて、深い問いにこたえられる人材がいない。だから、生きるてがかりを提供できないんじゃないかと思う。
そこに答えられるのは、今、率直に言って、仏道だと私は思う。
自分的にはクリスチャンなんだけど、超心理学と言えるものが、仏道にはある。体験して、知恵を伝えていく、面授という技術がある。
ただし、今の僧侶は面倒なことに巻き込まれるのが嫌なので、それをしたがらないだけ。社会に役割を果たさない寺は、当然、檀家も離れていくんだけど、それでも僧侶はやりたがらない。本気でひとのこころに向き合っても、大変なだけだから。過去の僧侶は、それぞれ自分のメソッドとして確立しようとしてきたと思う。だけど、今の僧侶はそれをやらない。
禅の最高峰にある、大徳寺の管長にいつか一回会ってみたいって個人的には思っている。僧侶のトップは、いまの衆生をどう捉えているんだろうって。
もう一度、日本人の社会の基盤を作った仏道という、超心理学世界をわかりやすく、体得していく仕組みが寺にあったら、この国の子供たちは救われるんじゃないかって、そう思うし、それはいまやっている茶道を通しても一般に対してできることなんじゃないかって、だから、その技術を確立したい。
気がついたら、そんなことを特殊技能者に話していた。
「いま、一番イキイキしてたよ…」と聞いている方は唖然としてたけど、自分としては一生懸命話してて、「ああそうか、残り寿命が15年だとして、この世界でやりたいことって、こういうことだったのか」と、気がついて…。
算命学は人の意識を探る学問。心理学のプロファイリング技術の一つだと思う。知るという目的を達成するだけなら、十分だが、本来は、人生、開運にいたらなくてはならない。だから、その先にある技術の確立に到達したい。
アメリカではそれを作り上げて独自のメソッドにしている組織はあちこちある。一介の市民にそれができるかわからないけど、今関わっている領域から、ヒントを得て、研究したい。テクノロジーを取り出したい。
そんなことを思った最近。
もうろくしてんのに、またなんか壮大なことを言い出した自分に自分で呆れつつもなんだけど。気分は80代な自分なのに、残りの寿命でどこまで到達するかわからないけど、寿命が尽きるその時まで、京都で模索し続けようと思った。日本の子供達の心の深いところに、希望を残したい。生きる意味を残したい。それが私がこの人生でやりたいこと。
バカみたいな綺麗事かもしれないけど、素直に書けばそういうことで、嘘つきも多い世の中だから、ポーズだけ取るくらいなら、言わないほうがいいんだけど、桜の開花とともに、自分の中にひらいた花の姿を残しておきたいと思って、今、書き残した次第。