最近の私は、香りを大事にしております。
写真の私がなにやってるかというと、本物の香木粉末を用意したので、調香してみてくださいって、言われたのでやってるところ。
とはいえ香り、もともとは全然わかんないタイプなんです。東京にいた時、若い頃ですが、ワインスクールにも通ったことがありました。しかし、実際、何十本飲んだところで、全くワインの香りを聞き分けることができませんでした。(汗)
その後、何年もかけてさらに香りがわからなくなり、ピーク時には灯油やガスの匂い、子供のおむつの匂いすらまったくわからないほど嗅覚を失っていったのです。幸いなことに今年に入ってから、急に少しづつ嗅覚を取り戻していっているのを感じています。
一方で、嗅覚がないのに、ふとあるところで、自分だけが突然匂いを感じるという不思議もあります。
ふわっとお香のような香りが満たされる聖地もあれば、ある空間の一部分で吸う人が誰もいないのに、突然、タバコの匂いにムワッと来たり。ときに、どこからきたんだろうとおもうような生臭さを感じたり。
なにも匂わないよ?と周りの人に言われて、「ああ、これは、そうか。そこにいるんだなぁ」と思って、なんとなく対処してたりしてたんですね。
物理的な匂いは感じないのに、見えない存在の匂いは感じてるって、なんか嗅覚がそっちのほうにすり替わっちゃったんだね、と思って。w
それだけに、最近、普通の生活の匂いがわかるようになってきたというのは、感慨深いことなんです。あらためて子供をだきしめて、くんくんと嗅いでみます。子供の汗と太陽の光をたくさん浴びた独特の赤ちゃんのような匂いとか、花の香り。そして、香炉で焚いた沈香の香り。雨の香り。
失ってわかる。匂いがわかる世界は、本当に豊かなんですよね。
そして、高い階に住んでいることが多かった時って、匂いがあんまりない世界でしたね。地面に近いほど、いろんな匂いがあります。これも大事なことなんだなぁと思いました。
京都はそれとなく、香りが多いところだと思います。季節ごとに空気に漂う香りがある。そして、平安時代は、まさに遊牧文化時代なので、この京都の土地でいろいろ想像します。
平安の夜は月が出ない限りは真っ暗闇だったんです。
だから、通い婚の貴族たちは、暗闇で寝屋に入ってくる夫の姿がわからないほどで、夫かどうかを知るには、夫の香りで判別するんですね。
つまり、平安時代は体臭がそのひとのアイデンティティでもありました。
それで、お香の香りがそれぞれの好みで調合されていました。
フランスの香水文化よりもずっと前に、豊かな香り文化が日本にはあったのです。自国の文化のすばらしさよ!
そして、平安の貴族たちは、知人の香りをなつかしみ、自分の香りとして自分の衣に、体にたきしめたり、時に香を食べていました。
平安恋物語なんかもそう。お互いの顔もわからない暗闇の中にただよってくる香りを察知して「ああ、あの人が来た。」とわかるわけですよね。逆に香り違いで、違う人が忍んできたことを知ることもある。その家々のブレンドがあり、あの人といえば、この香り、というものがあった…。
さて、そんな文化があった京都には、日本有数のお香を売る老舗が何店舗かあります。あるお店では源氏物語にでてくる香りが販売されています。
調合したレシピについて老舗の方に聞いたら、その香りは、九条家の香りのレシピとして代々つたわっていたものを元に作られているものだそう。
だからといって同じ名称の香りでも家によって配合が違ったので、これと実際とはかけはなれたものである可能性もありますよっておっしゃっていました。源氏物語、真剣に読んだことないんですが、でもきっと平安のときに嗅いだ香りと同じ香りを嗅ぐって、すごいインパクトあると思いますよ!
今の子供達は学習に五感をつかわないので、歴史や古典の授業の中で、香りを実際に嗅ぐような教え方をしてもいいんじゃないか、って私は思います。
きっと時代を超えてなお、特定の香りって、その人物について、なにかをイメージさせてくれるはずだから。
そして、香り文化って、精神や宗教とも切り離せないですね。
お香は、僧侶にとっても、切ってもきれない大切なものです。
仏様に捧げるお線香だけではなく、たとえば、僧侶が身につける塗香というのがあります。
この塗香は、密教世界では聖なる宇宙の化身化した気が自分に宿った合図として使われてきました。真言宗のそれも、結界を貼る前とか使いますよ。
宗派によって香りが微妙に違うけど、概して、カレーのスパイスみたいで、まぁ、好みが分かれます。そのインドの香辛料の香りに近いものを、手にすり込むんですね。
そしていったんすりこんだら、なかなかとれない…(笑)
そういうお寺ごとの香りとか、お線香とか、室町時代に発達した香りを聞く、聞香文化の材料を、いまだ京都の香のお店が取り扱ってるんです。
そして、これは自分の肉体を通してじゃないとわからない体験世界です。
私、もともと、とくにそういうお店に興味があったわけではないんですが、お香は結構ご縁があります。
化学物質過敏症だったことがあって、人工香料とかすごく苦手だし、日本のお線香は粉っぽかったり、かえって空気が濁る感じがして、あまり好きではないです。
ところが、チベット密教系で作るお線香の香りは自分にとってはなんだか懐かしい、心地よい香りで、場の浄化の際は、よく愛用してるんですね。そして、このチベット香だけは、自分の嗅覚で捉えることができた。
それもあって、チベット香には特殊な力があると思います。
そして先月、父が「これは家宝級だから、君、日本文化を突っ走ってる感じがするから、もらってもらいたい。」と、薩摩焼の香炉をくれたんですね。
「そんな高いものもらっても、ただもってるだけになっちゃうから、いらないよ」って断ったんですけど、「いやいや、もらってほしい」と押し切られてもらうことに。
「じゃあ、実用につかうよ」といったら、ママンが「そんなことしたら価値がなくなっちゃうじゃない!」と必死に止めるんで、やっぱり飾りとしてもらうことになりました。
そんなもん保持しなくてはならないって、正直、負担感しかない…。
前世が遊牧民の私は、役に立たないもの、実用性のないものってあんまりもちたくないんです。だって移動するときそんなにものがもてないから、もって意味のあるものだけもちたいんです。実用性のない飾りはいらない。
…でも、押し切られてしまった。
で、家宝っていうからには、いったいどんだけ価値があるんだろう?と調べてみたら、メルカリでは、似たようなものから算出しても、ほんの2万円くらいで取引されてる感じなんですよね。
でも買った当時はおそらく20〜30万くらいしたんだろうと思います。そして陶工さんが亡くなったら、価値がすごく上がる、と言われてバブルの時に買ったんだろうと思います。(汗)
親の気持ちを考えると、そんじゃ、使うか、ということにもならず、そこへ顔をつきだしてくる、「わ〜これいいね!いつつかうの?」とイタズラ顔の龍高星の子供の顔をみたら、家宝の香炉でなにかやらかしそうな予感がしたので、事前に似たようなものを購入してそっちの白薩摩の香炉を実用としてつかうことにしました。
白薩摩っていうのは、薩摩藩のお宝のなかでも高級なもので、藩の名品として守られてきたものですが、そんな一級品も、今はそこに価値を見出す層が非常に少ないので、投げ売り状態で取引がされているんですよね…。
あ〜ほんとに、日本人はもっとアートや工芸に興味を持った方がいいです。
とはいえ、香炉って言ったって、そもそもどうやってつかうの?
なににつかうの?
って現代の働き盛りは思うでしょうね。
で、ピカチュウが骨董市で高級な線香を買ってきてくれたんですけど、
私にはやっぱり純化して作られすぎたものには違和感があったんで、首を横に振り、自分で天然の香木を購入して、香炭と灰を揃えて、焚いてみたんですよね。
そしてその豊かさに気が付かされました。
香りの立ち方がすごい良かったんですよ。
思った以上にその香りは、嗅いで気持ちごとフルになる感じがして、よかったんです。安心して眠れる香り。そして、場が豊かに正常化されていく香り。
なにか欠けた感が補われるような、そんな豊かさを感じました。
そしてね、京都で香の文化がこんなに流行ったのは、ここが京都だからだと思いましたね。
京都の夏の湿度は半端ない。香りは、湿度が高い方が強く香るんです。
東南アジアなところが香木の産地でもあったりするためか、湿気を含んだ空気が香木をよりはっきりと香らせるんです。
何も食べなくてもいいくらい、豊かになってしまう香木の香りにすっかり酔いしれてしまいました。
そういえば、父がうまれてまもなく亡くなった祖父は、お香をたく趣味があったと聞いています。日常、なにかがおこると、心落ち着けるため、なにかとお香をたくのだと、亡くなった祖母が言っていました。だから、もしかしたら私を通して、祖父の力が働いているのかもしれません。祖父は車騎星でしたから、私のバックにいるのはおそらく祖父でしょう。
お香の話ついでに、ここで、ちょっとご供養について語らせてもらいます。
実は、亡くなった方にお線香を捧げるのは、直接的にお線香をあげてるのではなくて、お線香を嗅いだ人間が、そこで発するバイブレーションを、霊体が味わい共振するところにポイントがあります。
霊体は肉体を持たないので死ぬと五感を通して、新たになにかを味わうことができません。だから、肉体刺激のなにかをきっかけにして、意識状態を自力で変化させることができません。だから、一旦漂うとなかなか上に上がれない。
生きてる人なら、落ち込んだとしても、そこで美味しいものをたべたり、歯を磨いたり、そんな刺激で気分がリフレッシュすることもできますが、霊体にはそれができないんです。死んだ時の気分のまま、延々と、成仏するまで、天極星・天庫星の世界に居続けます。
だから、成仏してない死人というのは、近くにいる人間の発するバイブレーションに近づき、再体験するために、人のバイブレーションを味わおうとするんですね。
例えば、修験道の修行の中で実践される施餓鬼の風習もそうです。
山の中で餓死した霊のために、自分がお昼を食べる時、3つぶくらい、米粒を道の端に置いてやるんです。餓鬼となった霊体に、お裾分けするんですね。そして自分もお昼をいただく作法です。
今年の春の修験の修行はやばくて、私、胃腸強い方じゃないんで、実際、ほとんど食べない人なんですけど、食事の時、は何杯もおかわりして、猛烈にご飯を食べまくってたんですよね。自分でも止まらなかった。つまり、私を通してご飯をたべて満足したい人たちの影響を受けてしまっていた。同行者が目を丸くしてましたけど、満足したいひとたちにとっては、供養になったのかもしれません。なんかそういうのが、山にはいっぱいいるからなんですね。
肉体がなくなった人で、上に上がらなかった人は、自分の過去の体験の中にある波動と似た波動をもつ人間がいたら、そのひとに近づいて、再体験しようとするんですけど、それがいわゆる憑依とかに見えたりするんですよね。
そのすべてが悪質なものではなくて、ふっとついて、ふっと満足してはなれたり、みたいなことを繰り返してたりする日常が、どの人にもあって、見えない人たちの世界も同時にこの世界にはあるんです。
生きているひとが発する波動は、死んだ人にとって、よりリアルな感覚をくれるから魅力的なんだと思います。ただし、そうなると憑依を受けた人間にとっては、自分の波長だけじゃない波長も一緒に背負うことになるので、共振した部分においての波長が強化されることになります。
すると、その波長から軸をずらすのが難しくなり、物事や価値観の切り替えが難しくなり、そこに固執しやすくなるんですね。やたらポジティブで高い存在となにか共振したならいいんですが、やたらネガティブな波長のまま、死んだ人の波長も一緒に背負ったら、普通なら気分をすぐにきりかえられるところが、外側から波長が強化された分、自分だけでは切り替えがうまくいかなくなってしまう面が出るんです。
それで、その頑なさに、人はあれ?と周りは思います。
大きな問題にならない、そんなプチ憑依は、実は日常レベルでたくさん発生しています。
たまに、それがどんな波長なのか、によっては、非常に厄介です。
とくに死にたいほどのショックを受けた時は、自分の気をちゃんと守らないと!
だから、それを変えられる人のところにいくのも、一つの手なんですけども、(※私は業務範囲外です。)自分でやれることも、いろいろありますね。
それは、おかしいな、と不調を感じたら、すぐに、肉体を通してリフレッシュする仕組みをたくさん使うことですね!
お風呂もそうですし、ちょっとお酒を軽く飲んでよくなる人もいるし、リフレッシュはいろいろですけど、その一つがお香だと思います。
お香をあげた瞬間、ひとになにが起こるかというと、鼻は直接脳に直結しているので、直接的に脳を刺激することになります。ある意味で、匂いというのは強制的に脳の意識状態を変える力を持っているんですよ。
例えば、どんなに綺麗な女性がいても、その人の服が牛小屋や豚舎のような匂いで充満していたら、女性よりも臭いの方に気を取られると思うんですね。
どんなに近づかれても、やっぱり匂いが気になってしまうはず。
それくらい、匂いは、強制的にひとの意識を持っていくものなんですね。
だから昔から、お香は使われてきました。
聖域でひとが悪しき意識に流れないよう、瞑想状態をつくるとき、何教かかわらず、基本的にはどこの寺院もお香をたきます。
昔でいう、ケガレの状態、意識状態が落ち込んでいるところに、お香をささげれば、その人の脳内の意識の状態が強制的にガラッと変わり、多少守ることになるでしょう。
すると、ネガティブな波動に共振してついてきた雑多なものも、瞬間あたらしくなったその人の意識の波長によって、居心地の悪さを感じ、離れていきます。浄化なんですよね。
また、お香で引き上がった瞬間、そのひとと一緒に、ついてきたものも意識を引き上げることになります。死んだものが、なんらかの働きかけによって意識の状態を引き上げられたら、高い意識のお迎えのひとに気がつけるわけなので、お迎えを得て、中間層世界から消えることもある。
だから、お仏壇には安くて臭いお線香じゃなくて、自分が嗅いでここちよくなる香りを捧げてほしいんですね。そして、自分が好きな香りで意識をちょっと引き上げられたら、そのあと、きっとなにかが変わったのを感じると思います。
自分の肉体を通して、なんらかの変化を願って憑いている見えない存在に、こうしたことが変化をもたらすきっかけにもなる。だから除霊アイテムとして、お線香は使われてきたんだと思うんです。
寺や神社で使われてきた浄化アイテムというのは、自分の意識を瞬時にシフトするための導入の呪具みたいなもんなんです。
そういうものをつかって、自分の心の軸を正常な状態に置けるなら、いろいろつかってみたらいいと思います。
23日に秋分がやってきます。
ここでもうひとつの節目を通過しますね。
最近、いろんなことの変化の兆候を感じています。
意識が大きく変わる時には、エネルギーの変化分、現実もシフトします。
逆にいえば、だからシフトしてもおかしくない時を狙って、現実の勝負に出るんです。実学算命学でかじをとる時というのは、気と気の変わり目や切り替わりどきを狙って、そこに計画を意図的に乗せることで気の力の後押しを受けるように取り計います。そして、その流れに十分に乗れる自分の意識波動があれば、ちゃんと成っていく可能性が引き上がります。
今回、今週の自分の手術もそこにのせて、自分で設定しましたが、これは一か八かのところがあるので、どうでるかは、自分の今までの在り方次第かなとおもって腹をくくっています。
そうはいっても、痛い思いはいやだなぁ〜(涙)
と思いながら、今は、東京におります。
でもね、なんかふっとなんとなく訪れたところが、薬師如来だったり、呪術的に重要な場所だったりするので、無意識的に、必要な気を自分でとりに行っているのかもしれません。
良い転換のきっかけになると良いと思っています。