今は梅雨の季節だから尚更なんだけど、京都というのは、とにかく雨が多い。
東京に比べると、なんだかんだで一年中、雨が降っている感じがする。
強い風が吹いてきて、急に気温が変わるし、一年の季節もメリハリがはっきりしている特徴がある。
もうひとつの特色は、京都はシルクロードとのつながりが非常に強い場所で、織田信長がいた時代は、大陸の言葉を教養として日常的に話すセレブが多かったと言っている人もいるくらい異次元だったとか。奈良や京都には、他県民からはわからない、教科書では全くつたわらない日本があって、異世界感がある。
そして、自分は12世紀あたりのユーラシア大陸由来の過去生を強く持って生まれているので、中身はそちらの遊牧民。日本人にはしっくりくるわけじゃないけれど、京都のシルクロードに近い文化土壌や思想は自分に馴染みがよく、京都は日本で一番、自分の魂の故郷に近い場所だとおもう。
だけど辟易するのが、とにかく雨が多いことと、湿気混じりの暑さなんである。モンゴル方面は、雨が少ないので、もともとカラッとしてる。
そして、湿度がないので気温が上がっても、基本、風は爽やか。
7月でもモンゴルは、日差しが強いが、空気はエアコンで除湿した涼しさというか、日本の5月みたいな感じ。
なので、遊牧民的には、この湿度と変化の速さに気分も体も対応できない...。
エアコンつけっぱなしじゃないと、嫌なんですよね。
こんなふうに京都では、1日の中でめまぐるしく環境が変わるので、体のなにがつらいかというと、兎にも角にも自律神経。
老後、京都に住みたいという人はいっぱいいるけど、基本的に、交感神経と副交感神経の入れ替わりがきちんとできていないと、この環境には対応できないですよ。健康でないと京都に住めない。学生さんは若いから京都に住める。
気圧がしょっちゅう変わるので、緩めるべき時に緩め、やる時はやる、その自律神経のメリハリが自分の体にないと、偏頭痛や喘息、眩暈など、自律神経に影響される全ての体調不良が炙り出され、京都盆地の気候の中でやっていくのは難しい。それだけ厳しい環境があると思う。
平安時代の女性が、失恋とかで簡単に死ぬじゃないですか。
関東の温暖な気候基準では、男に愛されないとか失恋で死ぬか?って思うけど、これはマジで京都ではあり得るんじゃないかと思うんだよ。
失恋はストレスが強くかかるわけなんで、自律神経が乱れる。
自律神経が良くない状態のまま、この京都の激しい環境変化にさらされたら、免疫対応できなくなったりして、そりゃ、健康維持できなくなって、衰弱して死んでしまうかも。だから、疫病はよく流行っただろうし、漢方や生活の知恵が発達したんだろうし、その上で、この環境下で何代も生き抜いてきた京都人って、基本どの方も、体がかなり丈夫だったとおもう。
そして、京都の野菜や食べ物が美味しいのは、水が美味しいし、寒暖の差のおかげであり、この気候は、植物向きなんじゃないかと思う。植物は甘やかしの環境よりも、環境が多少厳しい方が強く、栄養豊富に育つ。
同じように京都の人たちは、柔軟でしなやかだけど、基本的に、芯の部分でのメンタルが強い。堅実に成長する草のような人たちだ。
ダメならダメで、自分の創意工夫で伸びていこうとするし、外側からいくら強い風にゆらされたとしても、根っこはしっかり地に足ついてる。
基本、ルールと融通を聞かせるところの見極めをもつ、賢さもある。
一方、そういう部分は、東京人には全くない。
外から強い風が吹けば、そのまんま転がっていく。w
自営業たちは、競争はするけど、協力はしない。客も浮気者、流れもの。良い店を応援する気持ちもない。だから簡単に潰れる。
ルール厳守で、多様性や例外は認めない。全て自助努力のせいにする。創意工夫などせずに、生活に不都合があれば、我慢して潰れるか、黙って去る。
自分の次の代もその土地に住む可能性があるかどうかなんてわからないから、土地に対する貢献も愛着も特にもってない。引っ越し挨拶もなし。
人間関係も移り変わるので、それほど大切にする必要性を感じない。疲れたら、他県にある実家に帰って甘えればいい。
人間関係は使い捨て。突然、裏切られたりもするし、友達だと思って付き合っていても、向こうは便利なツールだと思って使っている場合もあるので警戒しなくてはならない。市役所も教師も医者も自己保身と損得勘定により、自分の仕事を真っ当にしない。東京人は全員が、絆喪失症候群である。
そんなことない、という反論も来るかもしれないが、今回の都知事選は、その東京の実態を世間に確実に露呈したと言えると思う。
投票率は30%だとか。
給食が命綱になっているシングルマザー家庭がいるにも関わらず、税金が無駄遣いされ、企業に貪られ、貴重な歴史的な場所が壊されたりした上、知事のカイロ大学の学歴が嘘、大学で身につけた教養も判断力もないことがしれている。その証人まで現れても、マスコミは黙る。そして、東京の景観をソーラーパネルだらけにしても、現職知事が、第3期当選ができてしまう異常さをみれば、東京人の民度がどれほどなのか、他県民はおして知るべし。
東京人は全員、アホで人でなしである。w
東京は都会人だが、都会は先端社会ではない。教養も知性もない表面だけ。都民の実態は、アホの日本移民(都外からの流れもの)の塊が基本なのだ、ということが今回の選挙で明らかになった。
そういう中で、これからの若い人が安心して生活できるわけがない。普通に暮らしててわかると思うけど、どんどん少子化に向かっているということは、つまり、子供たちにとって、親が一番残さなくてはならないのはなにか、ということである。
それは、たまにしか会わない遠くの親戚や親族ではない。
一人っ子なんて、とくにどうする?
少子化の中で大事なのは、自分の子供たちを自分の仲間と認識してくれる、地域社会とのつながりだ。
親が死んで、子供だけになった時、その地域で手助けしてくれたり、協力してやっていける人間関係、心ごと帰ることができる、生まれ育った故郷なんじゃないかと思う。
子供のときから同じ土地に住むことは、それだけ大事なことだし、その地域のなかに一生付き合える人間関係を育むこと自体が変え難い財産。
少なくとも、京都のひとたちはそう思っているので、地域を大事にし、どの子どもたちをも大事にする。
どのひともそうした信念に従って生きていることがつたわる社会って、本当に感動ものだ。これだけ、大事にしてくれた地域だから、自分たちが大人になっても、地域のために何かしたい、と自然に思える。
東京では、そんなことを思えたことがなかった。東京で助けてくれた人たちも、やはり、東京に住まうけど元は西の出身の方たちだった。
そういえば、京都のワクチン摂取率は、全国でも高めだった。
ワクチンを打つ、打たないの問題で、自分の判断力がないから副作用の多いワクチンを打ったんだ、自分の頭で考えていないから、情報弱者だから、というような揶揄を、Xでよく見ることがある。
でも自分は、そうかな〜と思う。
自分に言わせれば、ワクチンを打っていない人の人間性というのは、率直に言って「天下の変わり者」であることが多いと思う。
自分の頭でものを考えているのだ、ということではなくて、基本的にこういうひとたちは、根っから大衆先導的な情報や権力や社会を信用していない、という人が多い。世界には裏があると考える。
そして、さらにその根っこをたどると親子関係がある。そういうひとたちには、親への信頼が怪しいまま育ったという環境背景がある。
そしてワクチンを打たなかった人には、自己保身が強く、自分がかわいいひとも、また多く混ざっている。悪く言えば、奇人変人不信の人である。
(ちなみに自分もその一人である。)
だから、その人たちが言うように、ワクチンを打たなかったのは、偉いのでも、優れているのでもなんでもないと思うんだよね。
たしかに世界は、今、ワクチンの副作用は世界的な生物兵器級という報道がなされていて、訴訟も起こっているけども、でも打つ打たない、というのは、その人間の知性や貴賤には、まったく関わりのないことだと思う。
スピリチュアルでは、寿命は自分が決めて生まれてきたものだ、と言っている。だから、もしワクチンを打つ打たないによって寿命が決まるのならば、それは、自分が生まれる前からもともと設定してきたことで、えらい偉くないの問題ではないのかもしれないとも思う。打つ人は打つし、打たない人は打たない。それだけなのかもしれないと思う。
京都の人間も、実際、たくさんワクチンを打った。国際都市なのでダイレクトに疫病が入ってくる土地柄でもあるし、それは、京都の人たちを見てて思うに、仕事をまっとうするため、社会の善良さを信頼しているからだったり、仲間のため、という思いが強く働いた面も大きいと思う。
東京でワクチンを打った人たちは、周りに流されて、自分の頭でものを考えなかった人なのかもしれないけど、京都の人たちは自分でものは考えてるけど、周りのため、仲間で助かるため、自らすすんで打った人が、県民性から、比較的多いと思う。秋田なんかもそうだったんじゃないだろうか。
だから一番いけないのは、副作用があると業界で騒がれてるのに、陰謀論だとして、自分たちの仕事をちゃんとしなかった医療関係者たちなんだよね。
すくなくとも、社会のひとたちの健康を守ることが仕事であった人たちが、ほとんど全員、自分の医療知識・医療判断をまともに働かせることがなく、政府の誘導にのってしまい、「それはちがうよ!危険だよ!」と発信するなどして社会のために動こうとしなかった。そっちの方が問題じゃないか。
通っていた京都駅前のインターには世界的な名医と言われる医者の子供も通っていた。その子供から聞いた話だけど、その家族はワクチンを打たなかった。仕事柄海外の情報を手に入れていて、危険性がわかっていたので、家族は打たないことに決めた。そして言わないようにした。しかし患者には打った。その情報は(自分の出世や人間関係に害になるので、)患者や他の人には啓発しなかったという。これってどうなんですかね。あのコロナパニックの時、こう言う医者がたくさんいたんだ、と言うことを私は言いたい。
多くの医者たちが人格的にも医療判断力的にもまともではない人たちだった、ということがはっきりわかったんじゃないかと思う。
もし、あの時、全ての医者が「それは医学的におかしいんじゃないか」と声をあげて、接種拒否をしたら、国民の多くは助かったし、事前に医者に危険性を説明してもらうことができれば、様子見した人たちだっていたはず。
医者は自分の医学知識を総動員して、判断力を使うということをしなかったんだ。偏差値ははかられても、人間性は試験されないからね。
医師の人格成熟度試験も必要なんじゃないですかね。
だから、ワクチン打った打たないというよりも、結果を背負う責任意識もなく、自分の医療知識でまともに判断せず、国の言うまま摂取することで金をもらった医者たちが、国民の一番の裏切り者として責められるべきなんだと思うよ。
京都の人たちのひとへのあたたかさや優しさを知っているから、Xで言われるように、ワクチンを打つ打たないが、そんな単純な区分けのできる問題じゃないんだよ、と言いたくなった。
京都の気候に慣れるのは、まだまだ時間がかかりそうだけど、気候や土地が人間を作るというのは、すごく感じる。
京都にきて、子供たちは、メンタルが強くなった。
東京では、いじめられた、傷つけられた、とシクシク泣くだけだった子供たちが、最近、ちゃんと相手に主張して帰ってくるようになった。
東京では、いじめにあっても、その話し合いをするさきの先生や学校の考え方がサイコなので、まともなことがまともにすすんでいかない。
町田の和光幼稚園の時は、子供がクラスの子供に何度も首を絞められて殺されかけたにも関わらず、その子供はまもられ、うちが園をやめざるをえないところにおいこまれ、事件は園が嘘を言って隠蔽された。子供は当時、ほかの子が先生に暴力を振るわれているのをみた、とそのとき証言していたから、いろんな問題が実際にはあったと思われる。
その時は、こんなことがまかりとおっていいのかと驚愕し、町田市にも相談したが、実際にはまったく対応してくれなかった。
小中学校のインクルーシブの実態がその後マスコミにも取り上げられたが、まさにそのとおりの学園である。
幼稚園児や子供の記憶が曖昧だから、結局なんとでもできる、とわかっている対応マニュアルが先生たちの暗黙の了解の中にあった。
自分たちだけではなく、こんな類の話には東京ではあちこちで、出会った。
東京のモラルは異常性が高い。
一方、京都では、そう言うことがあったら、周りの保護者も教育者も近所の人も「それはおかしい」と立ち上がってくれる信頼感がある。
京都では、当たり前のようにまともなことがまともに取り扱われる、ということに、どれだけほっとしたかしれない。そして、京都の教育現場では、子供の人権意識は、東京より遥かに高い。京都の洛中に住んで、本当にわかったけど、東京人が、ドラマや都市伝説を通して、勝手に作り上げる京都人のイメージは、結局のところ、ありもしない京都人であり、逆に自分たち都会人の心の闇の映し出しなんじゃないかと思う。(ちなみに、そういう京都人は、いたとしても京都のスラムにしか住んでいない。)
おかげで子供たちも、京都の公立の先生たちが、いけないことをいけない、とはっきりと線引きをしてくれたり、言葉の使い方や命に関わるテーマを大事にしてくれたり、社会と自分たちの繋がりをしっかりと教育してくれているその環境から、だんだんと生き方が安定したきたように思う。
ひとはどう生きるべきなのか、というモラル感において、子供たち自身の中に育ってきたものがある。
金がものいう弱肉強食の世界の東京では、もし倫理的に間違ったことがあっても、悲しい思いをしたことがあっても、そのまんま善悪白黒つけずに、なぁなぁで突き進んでいく。そんな東京の教育の中では、子供たちは社会の基本的なモラル感を身につけることができなかった。だから子供達は、主張が無意味であると理解し、つらいとき、自分の中に溜め込み、泣くしかなかった。
でも京都の先生たちは、ささいなことでも子供に辛いことをちゃんと聞いてくれる。そして、どうしたら、全員が気持ち良く過ごせるのかを、関わった全てのこどもとともに一緒に考えようとしてくれる。
そのために時間はいくらでも使う。
そういう京都の先生たちの姿勢に触れて、だんだんとこどもたちは強くなった。他人の思いも自分の思いもいっしょに大事なんだ、と信じられるようになったからだ。
東京人の問題解決は、相手の感情を説得して問題そのものを消失させること。まぁまぁ、と解決したことにすること。
でも京都人の問題解決は、ひとの心の中にしこりを残さないように知恵を使うこと、そして問題を2度と引き起こさないための現実的な手法探りだ。
どちらが賢いのかは、はっきりしている。そういう意味で、ちゃんと仕事をしている京都人は、リスペクトに値する仕事をする。
子供の変化を感じたエピソードとしてこんなことがあった。
下の子供はネイティブ京都人ではないので、京都弁がうまく喋れない。クラスで京都弁ではないおかしな発音をしてしまったことを、「なんやそれ。」とクラスの子供たちに馬鹿にされた娘。
東京だったら、その場に合わせて、涙こらえて帰ってくる。そして家で泣く。でも今回は違っていた。
娘は、その場で英語の文章をもってきて、馬鹿にした友達たちに突きつけたという。「ほな、これよんでみ!あんたら、読めるの?!」
「そして、私は英語のフレーズをサラサラと読んでやった。うまく言えないこと読めないこと、話せないことを馬鹿にするなんて、おかしいことでしょ。」
と帰宅して娘は言った。
ああ、京都っぽくなってきた。w
と私は思った。
京都の人は、どんなに物腰が柔らかくとも、あかんことはあかん、で大切だと思うことは譲らない。信念がある。
暮らしたことがないのでわからないけど、多分、基本、大阪とかもそうなんじゃないかと思うんだけど。
関西人は、基本的に、重要で譲ってはいけないところと、とくにこだわらんでもいいところとの差がわかっていて、そのメリハリはしっかり持っている。
なんでもかんでも額面通り、ルール通りにかっちり従えと圧力をかけてくる関東とは違う。ルールの前に、人を大事にせよ、という基本をわきまえてる。
ムードに流されて曖昧な関東と違い、そういう関西の譲らない部分が、上の子にも下の子にもできてきたような気がして嬉しかった。
そして、その下の子が、この間、学童のバスでやんちゃな男の子に強く腕を引っ張られて、痛い思いをして泣いて帰ってきた時も、「ただ泣いているだけじゃ、物事はうごかない!」「状況を言葉で説明しなければ、大人にはわからないままでしょう!」とひどく私に怒られたのだが、彼女はそこでまた考えたらしく、その後、学童の先生になにがあったかちゃんと主張し、相手にもう、やめてほしいと主張し、
その上で、次にその男の子とバスに乗ったときに、
「あんた、私のママに、私を痛い思いさせたこと、こっぴどく叱られるからね!覚悟しいや。」とバスの中で軽く脅したらしい。w
そして、不当な取り扱いに対して、立ち上がる天南星全開で、
バス降り際に、「ほら、あの子が私に暴力を振るったほにゃららくん!」「ママ、なにか言ってちょうだい!!」と指差してきた。
その子は極まり悪そうに、固まってて、多分、すでにめちゃめちゃ懲りているだろうことが察せられた。
で、私は「この間、バスから降りてきたとき、うちの子泣いてたんやで〜。痛かったんやって。この子はうちの宝物やから、大切に取り扱ってや〜」
と一言、言った。
上の子も含めて、京都の教師たちのおかげで、自己肯定感が上がった子供たちは、泣き寝入りをやめる用になってきた。
関東と違って、人間は話せばわかるし、解決もできるという見通しがついたからだと思う。また、京都の子どもは基本、親の愛情をしっかり受けて育っている子どもたちが多いので、子どもらしい笑える悪さはしても、東京のように、幼稚園児がクラスメイトを殺しにかかるようなサイコなことをしたり、集団リンチをするようなフラストレーションを抱えた子供はいない。東京は、親もおかしいし、子どももおかしい。
最初は京都のこの状況がたまにおこる奇跡的なことかとおもってたけど、住むうちに、京都のこれが当たり前なんだ、ということがわかってますます驚愕した。日本におどろく外国人のような気分である。
つまり、この基本の人間関係の環境が、そもそも東京では本当に存在してなかったのだとも気がついた。東京、やばい。大人も子供もやばい。
子供を育てる上で一番大事なのは、やっぱり、環境だよ、と痛感する。
京都に長く住んでる人に言わせると、滋賀の湖南とか宮崎県とか、福岡とかも人が京都よりもさらにやさしいらしい。うちは学べるものが多い点でも、特に京都が性に合うけど、日本にはまだまだ良い県民がたくさんいて表に出ていないのかもしれない。そんな環境でそだった子供は本当に幸せだと思う。
この間、秦氏の土御門さんが、戦争をなくす秘訣は、豊かにすることだと言ってたのが印象的だった。豊かさが溢れる場所同士のトラブルは、お互いの話し合いで解決できるけど、欠乏したところ同士は、どちらかを殺して奪わなくてはならないと考える。だから、豊かさを増やすように、つくるようにそして話し合いをかさねて、かさねて、秦氏は国をうごかしてきたんだと。
日本人の古来の考え方ってやっぱりそっちだと思うし、秦氏の考え方は京都の考え方とも根底ですごく似てると思った。秦氏の本拠地が京都にあることを考えると、納得がいく。
そういう視点で眺めてみた場合、個人のことで精一杯で、奪い合いの競争の都会というのは、結局のところは、なにかが貧しいし、欠乏の意識の中で生きていることが現れている姿なのかもしれない。
田舎はそこでビジネスとなると、現金収入は少ないけど、自家消費する畑とかすれば、食べるものにとりあえずは困らないので、都会のリモートワークと併用すれば、食べ物も美味しいし、比較的豊かに生きられるんじゃないだろうか。
今後、実質負担率が70%近い、ほぼ税金の奴隷状態になっていくなか、都会から、田舎に向かう人たちも増えてくるとおもう。
東京を出たい方は、旅行がてら、自分たちが暮らしやすい地方都市を探してみてはいかがでしょうか。
昨日、テレビを見かけて、その画面では、東京の人たちがアイスクリームをほうばって、「日頃、仕事ですごく頑張っている自分にご褒美です。」って言ってたのを見た。
そんなに頑張らなくても、好きなアイスクリームを普通にたべられる社会が普通だと思うんだけど、と思ったのは、私だけだろうか。
東京は狂ってます。日本の政治も狂ってます。官僚も政治家もそこに疑問を持たない民衆もサイコ。
まともな人は、まともなところに移住しませんか!