「正社員」という呪文
カウンセリングルームのソファに座ったクライエントは、疲れた表情で鞄からノートパソコンを取り出した。
クライエント「あの...今日も面接がダメだったんです」
画面には、転職サイトの応募履歴がずらりと並んでいた。
ダイキ「何社くらい受けられたんですか?」
クライエント「正確には数えてないですけど...たぶん30社くらいかな。書類で落とされたのが半分以上で、面接まで行けたのが10社くらい。そのうち内定もらったのが3社」
ダイキ「内定、もらえたんですね」
クライエント「...はい。でも、全部断っちゃいました」
そう言って、クライエントは小さく笑った。自嘲するような、どこか諦めたような笑いだった。
ダイキ「断った理由、聞いてもいいですか?」
クライエント「なんか...違うんですよね。給料は前より下がるし、仕事内容も『これがやりたかったことかな?』って思っちゃって」
ダイキ「それは、どんな『違い』でしたか?」
クライエントは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
クライエント「前の会社、辞めたのは...まあいろいろあったんですけど。上司との関係とか、残業の多さとか。でも一番大きかったのは、『このまま続けて、私は幸せなのかな?』って思ったことなんです」
ダイキ「幸せ、ですか」
クライエント「はい。毎日満員電車に揺られて、会議に出て、資料作って、数字追って...それが悪いわけじゃないんですけど。ふと『これ、誰のためにやってるんだろう』って」
少し間があった。クライエントは窓の外を見つめていた。
ダイキ「それで、退職を決めたんですね」
クライエント「そうです。でも...退職してから3ヶ月経つんですけど、結局また同じような求人ばかり見てるんですよね。正社員、正社員、正社員...って」
ダイキ「正社員、ですか」
クライエント「はい。なんか...それしかないような気がして」
椅子取りゲームの中で
ダイキ「正社員じゃないと、どうなると思います?」
クライエント「...え?」
ダイキ「もし正社員じゃなかったら、どんなことが起きると思いますか?」
クライエントは少し考えた。
クライエント「...不安定、ですよね。収入も安定しないし、社会的にも...なんか、ちゃんとしてない感じがする」
ダイキ「ちゃんとしてない」
クライエント「そう...親にも『早く次見つけなさい』って言われるし。友達も、みんな正社員で働いてて。私だけ無職で...なんか、置いていかれてる感じがするんです」
クライエントの声が少し震えていた。
ダイキ「置いていかれてる、んですね」
クライエント「はい...。椅子取りゲームみたいな感じ。音楽が止まったとき、私だけ座る椅子がなくて。焦って探してるんですけど、どの椅子もなんか...しっくりこなくて」
ダイキ「椅子取りゲーム...面白い例えですね」
クライエント「面白くないですよ」と、クライエントは苦笑した。「本当に焦ってるんです。貯金も減ってきてるし」
ダイキ「焦りますよね。でも、ちょっと聞いてもいいですか?」
クライエント「はい」
ダイキ「その椅子取りゲーム、いつから参加してるんでしょう?」
クライエントは、ハッとした表情を見せた。
クライエント「...いつから、ですか?」
ダイキ「ええ。その『正社員の椅子を取らなきゃ』っていうゲーム、いつから始まったんだろうって」
クライエントは黙り込んだ。しばらく考え込んでいた。
音楽が鳴り始めた日
クライエント「...たぶん、大学の就活のときからですね」
ダイキ「就活のとき」
クライエント「はい。周りがみんな『大手企業に行かなきゃ』『正社員にならなきゃ』って言ってて。私もそれが普通だと思ってました」
ダイキ「普通、だったんですね」
クライエント「そうです。で、何とか内定もらって、『やった、椅子に座れた!』って思って。でも...座ってみたら、その椅子、全然座り心地よくなかったんです」
クライエントは、少し自嘲気味に笑った。
クライエント「でも、『座れただけマシだよね』って自分に言い聞かせてました。みんなもそう言ってくれたし」
ダイキ「みんな、ですか」
クライエント「親とか、友達とか。『大手に入れてよかったね』『安定してるね』って。だから私も、『そうだよね、よかったよね』って...でも、心の中ではずっと違和感があったんです」
ダイキ「違和感」
クライエント「はい。『これでいいのかな』『本当にこれがやりたかったことかな』って。でも、そんなこと言えないじゃないですか。せっかく座れた椅子なのに」
クライエントの目に、涙が浮かんでいた。
ダイキ「座れた椅子を、手放すのが怖かった」
クライエント「...はい」
クライエントは小さく頷いた。
クライエント「でも結局、手放しちゃったんですよね。で、また椅子探してる。またゲームに参加してる。でも今度は、もっと大変で...」
ダイキ「大変、ですか」
クライエント「35歳って、転職市場でもう『若手』じゃないんです。求人見ても、『35歳まで』とか書いてあって。ギリギリで。で、やっと面接行っても、『前職の経験を活かして即戦力で』とか言われて...」
クライエントは言葉を詰まらせた。
クライエント「...もう、疲れちゃって。椅子を探すのも、椅子に座るのも、全部疲れちゃって」
ゲームのルールを問い直す
ダイキ「ひとつ、伺ってもいいですか?」
クライエント「はい」
ダイキ「もし...椅子取りゲームから降りたら、どうなると思います?」
クライエントは驚いた顔をした。
クライエント「降りる...? でも、それって...」
ダイキ「ええ、どうなると思いますか?」
クライエント「...負け、ですよね。椅子に座れなかったら、負けじゃないですか」
ダイキ「なるほど。じゃあ、座れたら『勝ち』なんですね」
クライエント「そう...だと思います。少なくとも、世間的には」
ダイキ「世間」
クライエント「はい。親も、友達も、みんな『ちゃんとした会社に勤めてる』ことが大事だって思ってるし」
ダイキは少し間を置いてから、穏やかに尋ねた。
ダイキ「でも、実際、どう思いますか?」
クライエント「...私、ですか?」
ダイキ「ええ。椅子に座ることが『勝ち』ですか?」
クライエントは黙り込んだ。長い沈黙が続いた。
クライエント「...わからないです」
ダイキ「わからない」
クライエント「はい。だって、ずっとそれが『正しい』って思ってきたから。正社員になって、安定した収入を得て、社会的に認められて...それが大人として『ちゃんとしてる』ことだって」
ダイキ「ちゃんとしてる」
クライエント「はい。でも...」
クライエントは言葉を探すように、ゆっくりと続けた。
クライエント「でも、それって本当に私がやりたいことなのかな、って。最近、わからなくなってきて」
ダイキ「わからなくなってきた」
クライエント「そうなんです。だって、前の会社にいたとき、私『ちゃんとしてた』はずなんですよ。正社員で、毎月給料もらって、ボーナスももらって。でも、全然幸せじゃなかった」
クライエントの声が、少し強くなった。
クライエント「毎朝、会社行くのが憂鬱で。週末は疲れて寝るだけで。何のために働いてるのかわからなくて...それでも『正社員だから』って、我慢してたんです」
ダイキ「我慢してた」
クライエント「はい。『みんなそうだよね』『社会人ってこういうものだよね』って。でも...本当にそうなのかな、って」
もうひとつの選択肢
ダイキ「ひとつ質問してもいいですか?」
クライエント「はい」
ダイキ「椅子取りゲームって、誰が始めたんでしょうね?」
クライエントは不思議そうな顔をした。
クライエント「...誰が、ですか?」
ダイキ「ええ。その『正社員の椅子を取り合う』っていうゲーム、誰がルールを決めたんだろうって」
クライエント「...それは、社会...ですよね?」
ダイキ「社会」
クライエント「はい。だって、みんなそうしてるじゃないですか。学校出て、就職して、正社員として働いて...」
ダイキ「みんな、ですか」
クライエント「...あ」
クライエントは、ハッとした表情を見せた。
クライエント「...みんな、じゃないですね。そういえば、友達の一人、フリーランスで働いてるし。別の友達は、パートタイムで働きながら自分の好きなこと続けてるし」
ダイキ「そうですね」
クライエント「でも...それって、特別な人だけじゃないですか? 才能がある人とか、お金に余裕がある人とか」
ダイキ「特別、ですか」
クライエント「...そう、思ってました」
ダイキ「思っていたんですね」
クライエントは、少し考え込んだ。
クライエント「...でも、本当に特別なのかな。その友達、別に最初からうまくいってたわけじゃないし。試行錯誤しながら、少しずつ自分のやり方見つけてたみたいで」
ダイキ「試行錯誤」
クライエント「はい。『最初は不安だったけど、やってみたら意外となんとかなった』って言ってました」
ダイキ「なんとかなった」
クライエント「...そっか。あの人も、椅子取りゲームから降りたんだ」
クライエントは、目を見開いた。
椅子をデザインする
ダイキ「もしかしたらですけど」
クライエント「はい」
ダイキ「椅子取りゲームから降りるって、『負け』じゃないのかもしれませんね」
クライエント「...え?」
ダイキ「みんなが取り合ってる椅子じゃなくて、自分で椅子を作るっていう選択肢もあるんじゃないかって」
クライエントは、しばらく黙っていた。そして、小さく笑った。
クライエント「自分で...椅子を作る、ですか」
ダイキ「ええ。どうでしょう?」
クライエント「...面白いですね。でも、どうやって?」
ダイキ「どうやって、でしょうね。どんな椅子がいいですか?」
クライエントは考え込んだ。
クライエント「...座り心地がいい椅子、かな」
ダイキ「座り心地がいい」
クライエント「はい。前の会社の椅子、全然座り心地よくなかったんで」
クライエントは、少し笑った。
クライエント「あと...自分で『ここに座ろう』って決められる椅子がいいです。誰かに『ここに座りなさい』って言われるんじゃなくて」
ダイキ「自分で決める」
クライエント「はい。そういう椅子だったら、たとえ小さくても、ボロボロでも...いや、ボロボロは嫌ですけど」
クライエントは笑った。今度は、明るい笑顔だった。
クライエント「でも、そういう椅子だったら、座ってみたいかもしれないです」
ダイキ「座ってみたい」
クライエント「はい。でも...どうやって作るんですか? 私、大工仕事とかできないですよ」
ダイキ「まあ、実際に椅子を作るわけじゃないですけどね」
クライエント「じゃあ、何を?」
ダイキ「働き方、かもしれませんね。心地いい働き方を、少しずつ作っていく」
クライエント「働き方...」
ダイキ「ええ。それは、正社員かもしれないし、そうじゃないかもしれない。週5日フルタイムかもしれないし、もっと柔軟な働き方かもしれない」
クライエント「...なるほど」
ダイキ「大事なのは、誰かが決めたルールに合わせるんじゃなくて、『これでいい』って思える形を見つけることなんじゃないでしょうか」
クライエントは、深く頷いた。
小さな一歩から
クライエント「でも...どこから始めたらいいんですか?」
ダイキ「どこから、でしょうね。何か試してみたいことありますか?」
クライエント「試してみたいこと...」
クライエントは少し考えてから、恥ずかしそうに話し始めた。
クライエント「...実は、前からやってみたかったことがあるんです」
ダイキ「どんなことですか?」
クライエント「SNSで、マーケティングのこと発信してみたくて。前の会社でやってた仕事のノウハウとか、もっと多くの人に知ってもらえたらいいなって思ってたんです」
ダイキ「発信、ですか」
クライエント「はい。でも...それって、仕事になるのかなって。趣味でやるならいいけど、それで食べていけるわけじゃないし」
ダイキ「食べていけるかどうか、ですか」
クライエント「そうです。だから、結局『まず正社員にならなきゃ』って思っちゃって。安定してから、趣味でやればいいかなって」
ダイキ「安定してから」
クライエント「はい...。でも」
クライエントは言葉を探すように、ゆっくりと続けた。
クライエント「でも、それって...また椅子取りゲームに戻るってことですよね」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエント「...うーん」
クライエントは考え込んだ。
クライエント「じゃあ、どうしたらいいんですか? 発信を始めても、すぐにお金になるわけじゃないし。貯金も減ってきてるし」
ダイキ「確かに、いきなり全部を変えるのは難しいですよね」
クライエント「はい」
ダイキ「じゃあ、例えばですけど...小さく始めてみるっていうのはどうでしょう?」
クライエント「小さく?」
ダイキ「ええ。たとえば、週に数日だけアルバイトやパートで働いて、残りの時間で発信を続けてみるとか」
クライエント「...あ」
クライエントの表情が、少し明るくなった。
クライエント「それなら...できるかも」
ダイキ「そうですね。最初から完璧な椅子を作ろうとしなくても、まず座れる場所を確保しながら、少しずつ自分の椅子を作っていく」
クライエント「座れる場所を確保しながら...」
ダイキ「ええ。それで、実際に発信を続けてみて、反応があったり、もしかしたら仕事の依頼が来たりしたら、そのときまた考えればいい」
クライエント「そっか...。いきなり『これで食べていく!』って決めなくてもいいんですね」
ダイキ「そうですね。試しながら、少しずつ形を作っていく」
クライエントは、深く頷いた。
「正解」を手放す
クライエント「...なんか、少し楽になりました」
ダイキ「楽に?」
クライエント「はい。ずっと『正社員にならなきゃ』『ちゃんとしなきゃ』って思ってて。それが『正解』だって思い込んでたんですけど」
ダイキ「正解」
クライエント「はい。でも、そもそも正解なんてないのかもしれないですね」
ダイキ「どう思いますか?」
クライエント「...ないんだと思います。だって、私が『正解』だと思って入った会社、全然幸せじゃなかったし。友達が選んだ道も、それぞれ違うけど、みんなそれなりに満足してるみたいだし」
クライエントは、窓の外を見つめながら話した。
クライエント「結局、『自分にとっての正解』を見つけるしかないんですよね」
ダイキ「自分にとっての正解」
クライエント「はい。それが、椅子を自分でデザインするってことなのかな」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエントは、小さく笑った。
クライエント「でも...不安はあります。うまくいくかわからないし」
ダイキ「不安、ありますよね」
クライエント「はい。でも、その不安って...今も同じなんですよね」
ダイキ「今も?」
クライエント「はい。正社員の求人ばかり見てても、全然安心できなかったし。むしろ、『どれを選んでも違う気がする』って、もっと不安だったかも」
ダイキ「なるほど」
クライエント「だったら...自分が『これやってみたい』って思うこと試してみた方が、まだマシかもしれないです」
クライエントの目に、少し光が戻ってきた。
一歩を踏み出す
ダイキ「じゃあ、具体的に何から始めてみますか?」
クライエント「...まず、SNSのアカウント作ります」
ダイキ「アカウント」
クライエント「はい。前からやりたかったけど、『今じゃない』って先延ばしにしてたんで。今週中に作って、まず1本、投稿してみます」
ダイキ「今週中に」
クライエント「はい。あと...求人サイト、一旦見るのやめます」
クライエントは、少し笑った。
クライエント「毎日何時間も見てたんですけど、それやめて、その時間でコンテンツ作ります」
ダイキ「求人サイトを見るのをやめる」
クライエント「はい。もちろん、生活費は必要なので、週3くらいで働けるところは探しますけど。でも、『正社員じゃなきゃダメ』っていう縛りは、もうやめます」
ダイキ「縛りをやめる」
クライエント「そうです。その方が、自分の時間も作れるし。発信も続けられるし」
クライエントは、真剣な表情で話した。
クライエント「最初はうまくいかないかもしれないけど...でも、少なくとも『これじゃない』っていう違和感はないと思うんです」
ダイキ「違和感がない」
クライエント「はい。自分で選んだ道だから。誰かに決められた椅子じゃなくて、自分でデザインした椅子だから」
クライエントの表情は、最初に会ったときとは全く違っていた。疲れた顔ではなく、少し不安そうではあるけれど、前を向いている顔だった。
対話を終えて
カウンセリングルームを出るとき、クライエントは振り返って言った。
クライエント「ありがとうございました。なんか...すっきりしました」
ダイキ「すっきりしましたか」
クライエント「はい。ずっとモヤモヤしてたんですけど、『何がモヤモヤしてたのか』がわかった気がします」
ダイキ「何がモヤモヤしてたんでしょう?」
クライエント「...たぶん、自分の気持ちを無視してたことです。『これが正解』『こうしなきゃ』って、自分に言い聞かせてたけど、心の中では『違うんだけどな』って思ってた」
ダイキ「心の中では」
クライエント「はい。それを、今日やっと認められた気がします。『私、本当は正社員の椅子、そんなに欲しくなかったんだ』って」
クライエントは、晴れやかな笑顔を見せた。
クライエント「じゃあ、次は報告に来ます。自分でデザインした椅子、ちゃんと作れたかどうか」
ダイキ「楽しみにしています」
クライエントは、軽やかな足取りでドアを開けて出て行った。
窓の外では、春の風が吹いていた。