休んでいるのに、休めない
カウンセリングルームに入ってきたクライエントは、少しやつれた様子だった。バッグからノートPCを取り出そうとして、ハッと手を止める。
クライエント「あ、すみません...つい」
ダイキ「PCをよく持ち歩かれるんですか?」
クライエント「はい...休職中なんですけど、なんとなく持ってないと不安で」
そう言いながら、クライエントはまた鞄にPCをしまった。その動作は、まるで何かを手放すのを恐れているようだった。
ダイキ「今日はどんなことでお話ししたいですか?」
クライエント「その...休職して3ヶ月なんですけど、全然休めてないんです」
クライエントの声は小さく、どこか申し訳なさそうだった。
クライエント「医師からは『とにかく休んでください』って言われて。会社も理解してくれて、休職させてもらってます。でも...」
言葉が途切れた。クライエントは膝の上で手を握りしめている。
ダイキ「でも?」
クライエント「休んでるのに、休めないんです。毎日、何かしてないと落ち着かなくて。オンライン講座を受けたり、資格の勉強したり...気づいたら1日8時間くらいPCに向かってる日もあって」
クライエントは小さく笑った。自嘲的な笑いだった。
クライエント「休職してるのに、働いてた頃と変わらない時間、何かしてるんです。で、夜になると『今日も何も休めなかった』って思って...そしたら罪悪感でいっぱいになって、眠れなくて」
罪悪感のループ
ダイキ「罪悪感、ですか」
クライエント「はい。休職してるのに休めてない。医師の指示にも従えてない。会社にも申し訳ない。家族にも心配かけてる...そう思うと、胸が苦しくなって」
クライエントの目に涙が浮かんでいた。
ダイキ「その罪悪感を感じると、どうなりますか?」
クライエント「...もっと、何かしなきゃって思います。『せめて勉強くらいしないと』『この時間を無駄にしちゃいけない』って」
ダイキはしばらく黙って、クライエントの言葉を受け止めた。
ダイキ「なるほど。罪悪感を感じると、さらに何かをしようとする。でも、それをすればするほど、休めない。そしてまた罪悪感が...」
クライエント「...はい。まさにそうなんです」
クライエントは深くうなずいた。自分の状況を言葉にされて、初めてその構造に気づいたような表情だった。
ダイキ「今、体はどんな感じですか?」
クライエント「...疲れてます。すごく。朝起きた時から、もう疲れてる感じで」
ダイキ「夜は眠れていますか?」
クライエント「いえ...3時間とか、4時間とか。眠りも浅くて、何度も目が覚めます」
「休む=怠ける」という刷り込み
ダイキ「休むことについて、どう思われますか?」
クライエント「え?」
ダイキ「『休む』という行為そのものについて、どんなイメージを持っていますか?」
クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「...正直に言うと、『怠けてる』って感じがします」
ダイキ「怠けてる」
クライエント「はい。何もしないで、ただゴロゴロしてる人...みたいな」
そう言って、クライエントは少し顔を赤くした。
クライエント「でも、頭では分かってるんです。休息が必要だって。体が限界だから休職してるんだって。でも...心がついていかないんです」
ダイキ「その感覚は、いつ頃からありますか?」
クライエント「うーん...たぶん、ずっとです」
クライエントは視線を下に落とした。
クライエント「小さい頃から、『頑張ること』が良いことだって教えられて育ったんです。『努力は裏切らない』『継続は力なり』って。休むことは、頑張ってない証拠みたいな...」
言葉を続けようとして、クライエントの声が震えた。
クライエント「仕事でも、ずっとそうでした。『休みます』って言うのが、すごく怖くて。『この人は弱い人だ』って思われるんじゃないかって」
体の声を無視してきた
ダイキ「これまで、体が『休みたい』って言ってきたこと、ありましたか?」
クライエントはハッとした表情になった。
クライエント「...ありました。何度も」
ダイキ「どんな時ですか?」
クライエント「朝、起きられない時とか。頭痛がする時とか。胃が痛くなる時とか...でも、その都度『気合いで乗り切らなきゃ』って思って、無理してました」
クライエントは自分の手を見つめた。
クライエント「体が『もう無理だよ』って言ってたのに、全部無視してたんですね...」
その言葉を口にした瞬間、クライエントの目から涙がこぼれた。
ダイキはティッシュを差し出した。クライエントは小さく「ありがとうございます」と言って、涙を拭いた。
ダイキ「今、涙が出てきましたね」
クライエント「はい...なんだか、自分の体に申し訳なくて」
しばらく沈黙が続いた。クライエントは静かに涙を流し続けていた。
不安とリラックスは同時に存在できない
ダイキ「一つ、お伝えしたいことがあります」
クライエントは顔を上げた。
ダイキ「人間の脳と体には、面白い仕組みがあるんです。『不安な状態』と『リラックスした状態』は、同時には存在できないんです」
クライエント「...同時には?」
ダイキ「はい。どちらか一方しか、その瞬間には存在できません。これを心理学では『逆制止の原理』と呼んでいます」
クライエントは不思議そうな顔をした。
ダイキ「たとえば、深くリラックスしている時に、同時に不安を感じることはできない。逆に、不安でいっぱいの時は、リラックスすることもできない。水と油のように、両立しないんです」
クライエント「確かに...そうかもしれません」
ダイキ「今のあなたは、常に不安や罪悪感を抱えている状態です。『休まなきゃいけない』『でも休むのは怖い』『休んでるのに休めてない』...この不安が、体をずっと緊張させているんです」
クライエントは自分の肩を触った。確かに、カチカチに固まっている。
ダイキ「体が緊張していると、脳も『危険だ』と判断して、休息モードに入れません。だから、どんなに横になっても、眠ろうとしても、体は休めないんです」
クライエント「じゃあ...どうすれば?」
ダイキ「逆に考えてみてください。もし体を物理的にリラックスさせることができたら?」
クライエント「...不安が、減る?」
ダイキ「そうなんです。これが『逆制止の原理』の応用です。体をリラックスさせれば、不安や罪悪感は物理的に存在できなくなる。だから、心を変えようとするより、まず体を変える方が効果的なんです」
クライエントの目が少し輝いた。
クライエント「なるほど...だから、体から?」
体から変えていく
ダイキ「まず、体を物理的にリラックスさせることから始めてみませんか?」
クライエント「体を...?」
ダイキ「はい。『心』や『考え方』を変えようとすると、難しいことが多いんです。でも、『体』は比較的コントロールしやすい。そして、体がリラックスすると、心も自然と落ち着いてくるんです」
クライエントは興味深そうに聞いていた。
ダイキ「たとえば、呼吸です。今、呼吸を意識してみてもらえますか?」
クライエントは目を閉じて、自分の呼吸に意識を向けた。
クライエント「...浅いです。速いです」
ダイキ「そうですね。不安な時、人の呼吸は自然と浅く、速くなります。では、これからゆっくり呼吸してみましょう」
ダイキは一緒に呼吸のリズムを作った。
ダイキ「鼻からゆっくり吸って...1、2、3、4...」
クライエントも一緒に吸う。
ダイキ「そして、ゆっくり吐いて...1、2、3、4、5、6...」
クライエントは目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。
ダイキ「もう一度。吸って...吐いて...」
数回繰り返すうちに、クライエントの肩が少し下がった。表情も穏やかになっている。
ダイキ「今、体の感覚はどうですか?」
クライエント「...さっきより、楽です。肩の力が抜けた感じがします」
ダイキ「そうですね。呼吸をゆっくりするだけで、体は『あ、今は安全なんだ』と判断して、緊張を解いてくれるんです」
5分間の実験
ダイキ「一つ、提案があります」
クライエント「はい」
ダイキ「毎日、たった5分でいいので、『何もしない時間』を作ってみませんか?」
クライエント「何も...しない?」
ダイキ「はい。本当に何もしない。スマホも見ない、PCも開かない、本も読まない。ただ、座って、呼吸に意識を向ける。それだけです」
クライエントは少し戸惑った表情を見せた。
クライエント「それって...瞑想、ですか?」
ダイキ「そうですね、瞑想に近いかもしれません。でも、難しく考えなくて大丈夫です。ただ、座って、呼吸を感じる。それだけで十分です」
クライエント「...5分なら、できるかもしれません」
ダイキ「素晴らしいですね。最初は3分でも大丈夫ですよ」
クライエントは小さく笑った。今度は、少し明るい笑顔だった。
ダイキ「もう一つ、試してみてほしいことがあります」
クライエント「なんですか?」
ダイキ「外に出て、少し歩くこと。できれば、木や草がある場所で」
クライエント「散歩...ですか?」
ダイキ「はい。自然の中を歩くと、それだけでストレスが減って、気分も明るくなることが分かっています。これも5分でいいんです」
クライエント「5分...」
ダイキ「罪悪感が出てきたら、『これも治療の一つ』と思ってください。医師が処方する薬と同じように、『散歩』と『呼吸』も、あなたの体を治すための処方箋なんです」
クライエントの表情が少し明るくなった。
クライエント「そう考えると...少し楽になります」
2週間後のセッション
2週間後、クライエントは少し顔色が良くなっていた。
ダイキ「その後、いかがでしたか?」
クライエント「...実は、最初の3日間は全然できなくて」
ダイキ「そうだったんですね」
クライエント「はい。『5分間何もしない』って決めて座っても、30秒くらいで『あ、メールチェックしなきゃ』とか『あの勉強の続きを』とか考えちゃって」
クライエントは苦笑した。
クライエント「でも、4日目に...不思議なことが起きたんです」
ダイキ「どんなことですか?」
クライエント「朝、いつものように『何もしない5分間』をやろうとして座ったんです。そしたら...泣けてきちゃって」
クライエントの目が少し潤んだ。
クライエント「なんだか、『ああ、私、本当に疲れてたんだな』って。『こんなに体が重かったんだ』って。初めて、自分の疲れを認められた気がして」
ダイキは静かにうなずいた。
クライエント「それから、少しずつできるようになってきました。5分間座って、呼吸に意識を向ける。最初は3分でもきつかったけど、今は10分くらいできる日もあります」
ダイキ「素晴らしいですね。散歩の方はどうですか?」
クライエント「これが...意外と好きになっちゃいました」
クライエントは嬉しそうに笑った。
クライエント「家の近くに小さな公園があって、そこを歩いてるんです。最初は『たった5分でいいんだ』って自分に言い聞かせてたんですけど、今は自然と15分とか20分歩いてます」
体の声が聞こえてきた
ダイキ「他に何か変化はありましたか?」
クライエント「はい...夜、眠れるようになってきました」
クライエントの声は明るかった。
クライエント「まだ完璧じゃないですけど、6時間とか7時間は寝られる日も出てきて。朝起きた時の『もう疲れてる』感じも、少し減ってきた気がします」
ダイキ「それは良かったですね」
クライエント「それと...これが一番びっくりしたんですけど」
クライエントは少し照れくさそうに言った。
クライエント「体の声が、聞こえるようになってきたんです」
ダイキ「体の声?」
クライエント「はい。『あ、今疲れてるな』とか、『今は動きたいな』とか。今までは全部無視してたけど、呼吸に意識を向ける練習をしてたら、自然と体の感覚に敏感になってきて」
クライエントは自分の体を見下ろした。
クライエント「一昨日なんて、『今日は疲れてるから、勉強は休もう』って自分で決められたんです。以前だったら絶対に無理してたのに」
ダイキ「それは大きな変化ですね」
クライエント「はい。で、その日は本当に何もしないで、ずっとゴロゴロしてたんです。そしたら...」
クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「罪悪感が、出てこなかったんです。『今は休む時だ』って、体も心も納得してた感じで」
罪悪感は消えたのか
ダイキ「罪悪感は、完全に消えましたか?」
クライエント「いえ...まだ出てきます」
クライエントは正直に答えた。
クライエント「でも、以前と違うのは、罪悪感が出てきても、それに飲み込まれなくなったことです」
ダイキ「どういうことですか?」
クライエント「罪悪感が出てきたら、『あ、また出てきたな』って気づけるようになりました。そしたら、呼吸に意識を向ける。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」
クライエントは実際にやって見せた。
クライエント「そうすると、不思議なことに、罪悪感が小さくなっていくんです。完全には消えないけど、『ま、いっか』って思えるようになる」
ダイキ「それはすごいことですね」
クライエント「本当ですか?」
ダイキ「はい。体をリラックスさせることで、不安や罪悪感といった感情のコントロールができるようになってきた。これは大きな進歩です」
クライエントは嬉しそうに笑った。
未来への一歩
ダイキ「これから、どんなふうに過ごしていきたいですか?」
クライエント「そうですね...」
クライエントは少し考えた。
クライエント「まずは、しっかり休むこと。『休む』ことが『怠ける』ことじゃなくて、『体を治すこと』『エネルギーを蓄えること』なんだって、本当の意味で理解したいです」
ダイキ「素晴らしい目標ですね」
クライエント「それと...体の声を、もっと大切にしたいです。疲れてる時は休む。動きたい時は動く。そうやって、自分のリズムで生きられるようになりたいです」
クライエントの目は、以前よりずっと輝いていた。
クライエント「いつか仕事に戻る時も、このことを忘れないようにしたいです。『頑張る』ことも大事だけど、『休む』ことも同じくらい大事だって」
ダイキ「そうですね。頑張ることと休むこと、どちらもあなたの人生には必要です」
クライエント「はい...ありがとうございます」
カウンセリングを終えて帰っていくクライエントの背中は、最初の日よりもずっと軽やかだった。