毎日10時間、でも何も残らない
ダイキのカウンセリングルームに入ってきたユイさんは、明らかに疲れた表情をしていた。目の下にはくまができ、肩が丸まっている。椅子に座ると、小さく息を吐いた。
ダイキ「今日はお疲れ様です。どんなことでお話ししたいですか?」
ユイさんは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
ユイ「あの...今、休職中なんです。3ヶ月くらい。それで、毎日勉強してるんですけど...」
ダイキ「勉強を?」
ユイ「はい。資格の勉強です。簿記と、TOEICと、あとITパスポートも。朝9時から夜7時まで、ずっと机に向かってます」
ダイキ「それは...かなりハードなスケジュールですね」
ユイさんは少し顔を上げて、どこか防衛的な口調で言った。
ユイ「でも、何もしないよりはマシだと思って。休職してるのに何もしてないって、それこそダメじゃないですか。だから、せめて資格くらいは取ろうと思って...」
彼女の声には、必死さが滲んでいた。
ダイキ「そうなんですね。それで、今どんな感じですか?」
ユイさんは目を伏せた。
ユイ「...全然、頭に入らないんです。勉強してるはずなのに、気づいたらスマホ見てたり、ぼーっとしてたり。夜になると、『今日も何もできなかった』って思って...」
そう言って、ユイさんは小さく首を振った。
ユイ「私、怠けてるだけなんでしょうか」
「何もしていない」ことへの恐怖
ダイキ「『何もできなかった』って感じるんですね。でも、10時間机に向かっているわけですよね?」
ユイ「...そうなんですけど、でも身についてる感じがしなくて。模試やっても点数全然上がらないし、英単語も覚えられないし...」
ダイキ「ユイさんは、なぜ複数の資格を同時に勉強しようと思ったんですか?」
ユイさんは少し考えた。
ユイ「...わからないんです。でも、『これだけじゃ足りない』って思っちゃって。簿記だけじゃダメ、英語もできないとダメ、ITの知識もないとダメって...」
ダイキ「『ダメ』って言葉がたくさん出てきますね」
ユイさんはハッとした表情を見せた。
ユイ「...そうですね。なんか、全部ダメな気がして」
ダイキ「もし、資格の勉強を全部やめたら、どうなると思います?」
ユイさんは即座に答えた。
ユイ「...怖いです」
ダイキ「怖い?」
ユイ「はい。何もしてない自分が、本当にダメな人間になっちゃう気がして」
ユイさんの目に、涙が浮かんでいた。
過去に刻まれた「価値のある自分」の基準
ダイキ「『何もしていない』と『ダメな人間』がイコールになってる感じがしますね。それって、いつ頃からそう思うようになったんでしょう?」
ユイさんは天井を見上げて、少し考えた。
ユイ「...たぶん、ずっとです。小さい頃から、『頑張らないと』って思ってた気がします」
ダイキ「頑張らないと...?」
ユイ「認めてもらえない、というか。親も厳しかったし、学校でも『ちゃんとしなさい』ってずっと言われてて」
ダイキ「『ちゃんとする』っていうのは、具体的にどういうことだったんですか?」
ユイ「成績がいいこと、習い事をちゃんと続けること、礼儀正しくすること...あと、弱音を吐かないこと」
ユイさんは小さく笑った。でも、その笑顔には寂しさが混じっていた。
ユイ「『頑張ってる自分』じゃないと、価値がないって思ってたんだと思います」
ダイキ「頑張ってる自分じゃないと、価値がない」
ユイ「はい。だから、休職してからも、『せめて何かしないと』って思って。でも...」
ユイさんは言葉を詰まらせた。
「動いていないと不安」という罠
ダイキ「でも...?」
ユイ「でも、全然うまくいかなくて。勉強してるはずなのに、集中できなくて。頭に入らなくて。それで、『やっぱり私ダメなんだ』って思って、もっと焦って...」
ユイさんの声が震えていた。
ダイキ「焦ると、どうなります?」
ユイ「もっと勉強しなきゃって思います。でも、疲れてて...頭が働かなくて...」
そう言って、ユイさんは深く息を吐いた。
ダイキ「ユイさん、今のお話を聞いていて感じたんですけど...もしかして、『動いていないと不安』なんじゃないですか?」
ユイさんはゆっくりと顔を上げた。
ユイ「...そうかもしれないです」
ダイキ「『何もしていない』状態が怖くて、だから何かで埋めようとしている。でも、本当は疲れてて、集中できない。それでも止められない」
ユイさんは黙って頷いた。涙が一筋、頬を伝った。
ユイ「...止めたら、本当に何もない自分になっちゃう気がして」
防衛としての「活動」の意味
ダイキはゆっくりと言葉を選びながら話した。
ダイキ「ユイさん、人は不安を感じると、その不安から逃げようとすることがあります。それ自体は自然なことなんです」
ユイ「...はい」
ダイキ「でも、その『逃げ方』が、実は自分をもっと疲れさせてしまうこともあるんです」
ユイさんは不思議そうな顔をした。
ダイキ「たとえば、心が疲れているときに、じっとしていることが怖くて、何かで埋めようとする。資格の勉強とか、新しいことを始めるとか」
ユイ「...それって、ダメなことなんですか?」
ダイキ「ダメというわけじゃないんです。ただ、『何もしていない不安』から逃げるために動いていると、本当に必要な『休息』が取れなくなってしまう」
ユイさんは少し考えた。
ユイ「でも、休んでたらダメになっちゃうんじゃないですか?」
ダイキ「『休む』ことと『ダメになる』ことは、違うと思いますよ」
ユイ「...違うんですか?」
ダイキ「はい。むしろ、疲れているときに無理に動こうとすると、エネルギーがどんどん減っていってしまう。そうすると、集中できなくなったり、何も頭に入らなくなったりする」
ユイさんは、ハッとした表情を見せた。
ユイ「...それって、今の私じゃないですか」
崩れ落ちる防衛機制
ダイキ「ユイさんは今、『何もしていない不安』から逃げるために、資格の勉強をしているんじゃないでしょうか」
ユイさんは唇を噛んだ。
ユイ「...そうかもしれないです」
ダイキ「でも、その勉強が、実は本当にやりたいことじゃなかったり、今の自分に必要なことじゃなかったりする。だから、身につかない」
ユイさんは俯いた。しばらく沈黙が続いた。そして、小さな声で言った。
ユイ「...怖いんです」
ダイキ「何が怖いんですか?」
ユイ「何もしてない自分が、本当に価値のない人間だって、証明されちゃうのが怖いんです」
ユイさんの声は震えていた。目からは涙がこぼれ落ちていた。
ユイ「だから、何かしてないと...動いてないと...」
ダイキは静かに頷いた。
ダイキ「動いていれば、『少なくとも頑張ってる』って思えるんですね」
ユイ「はい...」
ユイさんは顔を覆って、泣き始めた。しばらくの間、部屋には彼女のすすり泣く声だけが響いた。
ダイキは何も言わず、ただそこに居た。
「何もしない」ことの価値
涙が落ち着いてから、ユイさんはティッシュで目を拭いながら、小さく笑った。
ユイ「...すみません、泣いちゃって」
ダイキ「大丈夫ですよ。でも、今の涙は大事な涙だと思います」
ユイ「...大事な涙?」
ダイキ「はい。ユイさんは今、『何もしない自分は価値がない』っていう思い込みに、ずっと苦しんできたんですよね」
ユイさんは頷いた。
ダイキ「でも、本当にそうでしょうか?」
ユイ「...え?」
ダイキ「人の価値って、『何かをしている』ことで決まるんでしょうか」
ユイさんは答えられなかった。
ダイキ「たとえば、赤ちゃんって、何もできないですよね。でも、誰も赤ちゃんを『価値がない』なんて思わない」
ユイ「...そうですね」
ダイキ「人は、何かをしているから価値があるんじゃなくて、存在しているだけで価値があるんです」
ユイさんの目に、また涙が浮かんだ。でも、今度は違う種類の涙だった。
ユイ「...そうなのかな」
ダイキ「そうですよ。ユイさんは今、心が疲れているんです。だから、本当は休む必要がある。でも、『休むこと』を自分に許せなくて、資格の勉強で埋めようとしている」
ユイ「...はい」
ダイキ「でも、それって、自分をもっと疲れさせてしまうだけなんです」
本当に必要だったもの
ダイキ「ユイさん、もし仮に、資格の勉強を全部やめて、ただ休むだけの時間を作ったら...何をしたいですか?」
ユイさんは少し考えた。
ユイ「...何もしたくないです」
ダイキ「何もしたくない?」
ユイ「はい。ただ、ぼーっとしたいです。何も考えずに」
ダイキ「それって、実はすごく大事なことなんですよ」
ユイさんは不思議そうな顔をした。
ダイキ「心が疲れているときは、『何もしない時間』が一番の回復薬なんです。何も考えず、何も頑張らず、ただ存在する時間」
ユイ「...そんなことしていいんですか?」
ダイキ「いいんですよ。むしろ、そうすることで、エネルギーが回復していく」
ユイさんは目を閉じた。
ユイ「...でも、やっぱり怖いです」
ダイキ「怖いですよね。それは当然だと思います。これまでずっと『動いていないとダメ』って思ってきたわけですから」
ユイ「はい...」
ダイキ「でも、その『怖さ』の先に、本当の休息があるんだと思います」
小さな一歩
ユイさんは深く息を吐いた。
ユイ「...どうしたらいいんでしょう」
ダイキ「まず、資格の勉強を全部やめる必要はないと思います。でも、少しずつ減らしていくことはできますか?」
ユイ「減らす...?」
ダイキ「たとえば、今日は10時間勉強していたとしたら、明日は8時間にしてみる。そして、残りの2時間は、『何もしない時間』にしてみる」
ユイ「何もしない時間...」
ダイキ「はい。ぼーっとするとか、好きな音楽を聴くとか、窓の外を眺めるとか。何も生産的じゃないことをする時間」
ユイさんは少し笑った。
ユイ「それって、なんだか罪悪感がありますね」
ダイキ「罪悪感、ありますよね。でも、その罪悪感と向き合うことも、回復の一部なんです」
ユイ「...そうなんですか」
ダイキ「はい。最初は怖いかもしれません。でも、少しずつ、『何もしない自分』も大丈夫だって、体で感じていけるといいですね」
ユイさんは頷いた。
ユイ「...やってみます」
終わりに
カウンセリングの最後に、ユイさんは少し明るい表情を見せた。
ユイ「今日、話せてよかったです」
ダイキ「ユイさん、よく話してくださいました」
ユイ「なんか、ずっとモヤモヤしてたものが、少しだけクリアになった気がします」
ダイキ「それは良かったです」
ユイさんは立ち上がりながら、小さく笑った。
ユイ「『何もしない』って、こんなに難しいことだったんですね」
ダイキ「そうなんです。でも、それができるようになると、本当の意味で自分を大切にできるようになると思いますよ」
ユイ「...頑張ります」
ダイキ「『頑張る』じゃなくて、『ゆっくりやってみる』くらいでいいと思いますよ」
ユイさんは笑って、部屋を出て行った。その背中は、少しだけ軽くなっているように見えた。
【対話から見えてきたこと】
ユイさんのケースは、「何もしない不安」から逃げるために、資格勉強という形で活動性を高めていた例でした。しかし、その活動は本来の目的ではなく、不安から目を背けるための防衛機制だったのです。
休職してメンタルが疲れているときに本当に必要なのは、エネルギーを使う活動ではなく、エネルギーを回復させる休息です。しかし、多くの人は「何もしていない自分」を許せず、焦って動いてしまいます。
その結果、さらに疲弊し、悪循環に陥ってしまうのです。
「何もしない時間」を自分に許すこと。それは、一見簡単なようで、実はとても難しいことです。でも、その先に、本当の回復があるのかもしれません。