「私、何も言えなかったんです」
カウンセリングルームのドアを開けて入ってきた美咲さんは、少し緊張した面持ちで椅子に座った。
美咲「初めてこういうところに来たので、何から話せばいいのか...」
ダイキ「大丈夫ですよ。まずはゆっくり、お話ししたいことから話してみてください」
美咲さんは少し迷ったあと、ゆっくりと口を開いた。
美咲「実は、職場で...上司から、毎日のように怒鳴られるんです。もう3年くらい」
ダイキ「3年間...」
美咲「ええ。最初は『厳しい人なんだな』って思ってたんですけど、だんだんエスカレートして。今は、もう...」
美咲さんの声が少し震えた。
美咲「『お前は本当に使えない』『なんでこんな簡単なこともできないんだ』って。会議の場で、みんなの前で言われることもあって...」
ダイキ「それは、とてもつらい状況ですね」
美咲「はい...。でも、私、一度も言い返せなかったんです。何も言えなくて、ただ黙って、頭を下げて...」
そう言いながら、美咲さんは自分の膝をぎゅっと握りしめた。
沈黙という選択
ダイキ「言い返せなかったこと、それについて、今どう感じていますか?」
美咲「情けないです。なんで私、何も言えないんだろうって。周りの人は、もっと堂々としてるのに」
ダイキ「堂々としてる人たちを見て、どう思いますか?」
美咲「すごいなって...。ああいうふうに、自分の意見をはっきり言えたらって、いつも思ってます」
美咲さんは少し遠くを見つめるような目で続けた。
美咲「でも、実際その場になると、体が固まっちゃって。頭の中が真っ白になって、何も言えなくなるんです」
ダイキ「体が固まる...」
美咲「はい。心臓がバクバクして、声が出なくなって。あとから『ああ言えばよかった』『こう反論すればよかった』って考えるんですけど、その時は本当に何もできなくて」
ダイキ「その瞬間、体が固まってしまう。それは、どんな感じですか?」
美咲「...怖いんです。すごく」
小さな声だった。美咲さんは自分でも驚いたように、少し目を見開いた。
美咲「あ...今、初めて口に出して言ったかもしれません。怖いって」
「いい子」でいなければ
ダイキ「怖いと感じるのは、どんなことが起こると思っているからでしょうか?」
美咲「......もっとひどいことを言われるんじゃないかって」
美咲さんは少し考えてから続けた。
美咲「実は、昔から...子供の頃から、怒られるのがすごく苦手で」
ダイキ「子供の頃?」
美咲「はい。うちの親、特に母親が厳しい人で。いつも『いい子でいなさい』『人に迷惑をかけちゃダメ』って言われて育ったんです」
美咲さんの表情が、少し幼くなったように見えた。
美咲「それで、なるべく目立たないように、怒られないように、っていつも気をつけてて。学校でも、先生の言うことは絶対で、反論なんてとんでもないって」
ダイキ「ずっと、怒られないように生きてきたんですね」
美咲「そうなんです...。だから、職場でも同じで。上司に怒られたら、『私が悪いんだ』ってまず思っちゃうんです」
ダイキ「本当にそうでしょうか? 美咲さんが悪いんでしょうか?」
美咲「......わからないです。でも、怒られるってことは、何か悪いことしたんじゃないかって」
美咲さんは俯いた。その肩が少し震えているのが見えた。
パターンの発見
ダイキ「美咲さん、ちょっと振り返ってみてもいいですか。子供の頃、怒られないようにしていた時、実際に何か悪いことをしていましたか?」
美咲「え...?」
ダイキ「たとえば、誰かを傷つけたとか、ルールを破ったとか」
美咲「いえ...そういうことはなかったと思います。ただ、母の機嫌を損ねるのが怖くて」
美咲さんはハッとしたような表情を浮かべた。
美咲「あ...機嫌を損ねるのが怖かった...」
ダイキ「今の職場でも、同じかもしれませんね」
美咲「......そうかもしれません」
少し間があった。美咲さんは自分の両手を見つめている。
美咲「上司の機嫌が悪いと、誰かが標的になるんです。それが私になることが多くて。理不尽だとは思うんですけど、でも、やっぱり怖くて」
ダイキ「その恐怖、どこからくると思いますか?」
美咲「......見捨てられるのが怖いのかもしれません」
美咲さんの目に涙が浮かんだ。
美咲「子供の頃、母に逆らったら『あなたなんかいらない』って言われたことがあって。それがすごく怖くて...。今でも、誰かに嫌われたり、拒絶されたりするのが、本当に怖いんです」
防衛のメカニズム
ダイキ「美咲さん、一つ聞いてもいいですか。これまで、上司に言い返せなかったこと、それは美咲さんの弱さだと思っていましたか?」
美咲「はい...ずっとそう思ってました。私が弱いから、臆病だから、って」
ダイキ「でも、もしかしたら違うかもしれません」
美咲「え?」
ダイキ「美咲さんは、沈黙することで、自分を守ってきたんじゃないでしょうか」
美咲さんは目を見開いた。
ダイキ「子供の頃、反論したら『いらない』と言われた。その経験から、美咲さんの心は『反論すること=危険』と学習したんです。だから、大人になっても、似たような状況になると、体が自動的に『沈黙モード』に入る」
美咲「沈黙モード...」
ダイキ「それは、弱さじゃなくて、生き延びるための戦略だったんですよ」
美咲さんは、しばらく何も言えなかった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
美咲「生き延びるための...戦略...」
ダイキ「そうです。美咲さんは、自分を守るために、最善の方法を選んできた。それは、決して悪いことじゃありません」
美咲「でも...それじゃ、このまま...」
ダイキ「このままでいいとは言っていません。ただ、まず知ってほしいんです。美咲さんが『言い返せなかった』のは、心が自分を守ろうとしていたからだって」
美咲さんは、ハンカチで涙を拭いながら、何度もうなずいた。
自己防衛から自己主張へ
ダイキ「美咲さん、もう一つ聞いてもいいですか。今、どうなりたいと思っていますか?」
美咲「......言い返せるようになりたい、というか...」
美咲さんは少し考えてから続けた。
美咲「嫌なことは嫌だって、言えるようになりたいです。理不尽なことに、ちゃんとNOって言えるように」
ダイキ「それは、とても大切な一歩ですね」
美咲「でも、どうすれば...? ずっとこうやって生きてきたのに」
ダイキ「まず、理解することから始めましょう。美咲さんの体が『沈黙モード』に入るとき、何が起こっているか」
美咲「心臓がバクバクして、頭が真っ白になって...」
ダイキ「それは、美咲さんの体が『危険だ!』と感じているサインです。でも、今の職場は、子供の頃の家とは違います」
美咲「違う...?」
ダイキ「上司に反論したからって、美咲さんの存在が否定されるわけじゃありません。もちろん、上司は不快に思うかもしれません。でも、それと美咲さんの価値は、別のものです」
美咲さんは、ゆっくりとうなずいた。
ダイキ「それに、沈黙することで得られていた『安全』。それは、本当に安全でしょうか?」
美咲「......いいえ。むしろ、どんどん苦しくなってます」
ダイキ「そうですね。だから今、新しい方法を学ぶ時期に来ているのかもしれません」
小さな一歩から
美咲「でも、いきなり上司に反論なんて、絶対無理です...」
ダイキ「もちろん、いきなりは難しいですよね。だから、小さなことから始めましょう」
美咲「小さなこと?」
ダイキ「たとえば、日常生活の中で。コンビニで店員さんがコーヒーのサイズを間違えたとき、『すみません、これ違います』って言えますか?」
美咲「......それは、言えると思います」
ダイキ「それも、立派な自己主張です。まずは、リスクの低い場面で練習してみる。それを繰り返していくと、だんだん『あ、言っても大丈夫なんだ』って、体が学習していきます」
美咲「体が、学習する...」
ダイキ「そうです。今の美咲さんの体は『反論=危険』と記憶しています。でも、小さな成功体験を積み重ねることで『反論しても大丈夫』と、少しずつ書き換えていけるんです」
美咲さんは、少し希望が見えたような表情になった。
美咲「じゃあ、たとえば...友達と食事に行って、苦手な料理が出てきたとき、『これ苦手なんだ』って言うとか?」
ダイキ「いいですね! それも立派な一歩です」
美咲「でも、職場では...」
ダイキ「職場では、まだハードルが高いかもしれませんね。でも、いつか、準備ができたと感じたとき、試してみることができます」
ダイキは少し前のめりになった。
ダイキ「たとえば、こんなふうに言ってみるのはどうでしょう。『その言い方は、少し傷つきます』って」
美咲「......そんなこと、言えるんでしょうか」
ダイキ「言えるかどうかは、今はわかりません。でも、言える準備を、今から少しずつしていくことはできます」
自分を守る新しい方法
美咲「先生、一つ聞いてもいいですか」
ダイキ「どうぞ」
美咲「もし、言い返して、さらにひどいことになったら、どうすればいいんでしょう」
ダイキ「それは、大切な質問ですね。実は、自己主張には段階があるんです」
美咲「段階?」
ダイキ「まず、自分の中で『これは理不尽だ』と認識すること。次に、信頼できる人に相談すること。そして、その次に、相手に伝えること。もし、伝えても改善されないなら、環境を変えることも選択肢です」
美咲「環境を変える...つまり、辞めるってことですか?」
ダイキ「それも一つの方法です。ただ、辞める前に、できることもあります」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「たとえば、人事部に相談する。労働組合があれば相談する。第三者を入れて、状況を改善してもらう」
美咲「でも、それって...告げ口みたいで」
ダイキ「告げ口じゃありません。自分を守る行動です」
美咲さんは少し驚いたような顔をした。
ダイキ「美咲さん、もう一度聞きますね。子供の頃、美咲さんには、自分を守る手段がありましたか?」
美咲「......いいえ。沈黙することしか」
ダイキ「そうですね。でも、今は違います。美咲さんは大人で、選択肢があります。沈黙以外の方法で、自分を守ることができるんです」
美咲さんの目に、また涙が浮かんだ。でも、今度は違った。少し、希望が混じったような涙だった。
怒りという感情
ダイキ「美咲さん、上司に対して、怒りを感じたことはありますか?」
美咲「怒り...?」
美咲さんは少し戸惑ったようだった。
美咲「わからないです。怖いとか、悲しいとか、情けないとかは感じるんですけど...怒りって」
ダイキ「もしかしたら、怒りを感じることを、自分に許していないのかもしれませんね」
美咲「許してない...?」
ダイキ「怒ることは、悪いことだって思っていませんか?」
美咲さんはハッとした表情になった。
美咲「......そうかもしれません。母から、『女の子が怒ってる顔なんて見苦しい』ってよく言われてて」
ダイキ「なるほど。じゃあ、美咲さんの中には、怒ってはいけないというルールがあるんですね」
美咲「はい...たぶん」
ダイキ「でも、怒りは自然な感情です。理不尽なことをされたら、怒っていいんです」
美咲「......怒っていい」
ダイキ「そうです。怒りは、『これは間違っている』『私は尊重されるべきだ』という、自分を守るための大切なサインなんです」
美咲さんは、少し俯いて考え込んだ。
美咲「じゃあ、もしかして...私、本当は怒ってるのかもしれません。上司に」
ダイキ「どんなふうに?」
美咲「......理不尽だって。なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだって」
美咲さんの声に、少し力が入った。
美咲「毎日毎日、人格否定されて。でも、私、何も悪いことしてないのに」
ダイキ「そうですね。美咲さんは何も悪くない」
美咲「なのに、なんで...!」
美咲さんは、拳を握りしめた。その目には、涙と同時に、少し強さが宿っていた。
これから
ダイキ「美咲さん、今日、たくさん話してくれてありがとうございました」
美咲「いえ...こちらこそ。なんか、すごくたくさん気づいたことがあって」
ダイキ「どんなことに気づきましたか?」
美咲「まず、私が言い返せなかったのは、弱いからじゃなくて、自分を守ろうとしてたんだって」
美咲さんは、少し落ち着いた表情で続けた。
美咲「それから、怒っていいんだって。理不尽なことに、ちゃんと怒っていいんだって」
ダイキ「大切な気づきですね」
美咲「はい...。それで、これから、小さいことから始めてみようと思います」
ダイキ「具体的には?」
美咲「まず、友達と話すとき、自分の意見を言ってみます。『私はこう思う』って。それから、苦手なものを無理に食べないとか」
美咲さんは少し笑った。
美咲「なんか、すごく小さいことですけど」
ダイキ「小さいことが大切なんです。その積み重ねが、美咲さんを変えていきます」
美咲「ありがとうございます...。あと、職場のことは、もう少し考えてみます」
ダイキ「焦らなくていいですよ。美咲さんのペースで」
美咲「はい。でも、一つだけ決めたことがあります」
ダイキ「何でしょう?」
美咲「もし、体が限界だって感じたら、逃げてもいいって、自分に許可することにしました」
ダイキ「それは、とても大切な決断ですね」
美咲「今までは、『逃げちゃダメだ』『我慢しなきゃ』って思ってたんです。でも、それで体を壊したら意味ないですよね」
ダイキ「その通りです」
美咲さんは、カウンセリングルームを出るとき、入ってきたときよりも、少し背筋が伸びているように見えた。
それから
その後、美咲さんは月に一度、カウンセリングを続けた。
最初の数ヶ月は、日常生活での小さな自己主張を練習した。コンビニで間違った商品を渡されたとき、「すみません、これ違います」と言えた。友達とランチに行ったとき、「私、和食がいいな」と自分の希望を伝えられた。
少しずつ、少しずつ、美咲さんの中で何かが変わっていった。
そして、半年後。
美咲「先生、報告があります」
ダイキ「どうぞ」
美咲「人事部に、相談してきました。上司のパワハラのこと」
ダイキ「そうですか...」
美咲「すごく怖かったです。でも、言えました。『この状況は改善されるべきだ』って」
美咲さんの目は、以前よりもずっと強かった。
美咲「人事の人は、真剣に聞いてくれて。今、調査が始まってるそうです」
ダイキ「大きな一歩ですね」
美咲「はい...。でも、結果がどうなるかはわかりません。もしかしたら、何も変わらないかもしれない」
ダイキ「それでも?」
美咲「それでも、私、言えたんです。沈黙しなかったんです」
美咲さんは、少し誇らしげに笑った。
美咲「それだけで、もう違うんです。私、自分のこと、ちゃんと守れたんだって」
ダイキ「素晴らしいですね、美咲さん」
美咲「ありがとうございます。ここに来て、本当によかったです」
美咲さんは、もう、入口で震えていた人ではなかった。
おわりに
美咲さんのケースは、多くの人が抱える問題を象徴しています。
パワハラや理不尽な状況に対して「言い返せない」自分を責める人は少なくありません。でも、その「言い返せなさ」は、決して弱さではないかもしれません。
それは、過去の経験から学習した、自己防衛のメカニズムかもしれないのです。
大切なのは、自分を責めることではなく、理解すること。そして、新しい方法を、少しずつ学んでいくこと。
誰にでも、変わる権利があります。 そして、変わるためには、まず今の自分を受け入れることから始まります。