はじまりの違和感
ダイキのカウンセリングルームに、クライエントが少し緊張した表情で入ってきた。椅子に座ると、カバンをぎゅっと握りしめている。
クライエント「あの......今日は、夫婦のことで相談に来ました」
ダイキ「はい、どうぞ。お話ししやすいところから、聞かせてください」
クライエントは少し間をおいて、ゆっくりと話し始めた。
クライエント「結婚して、もうすぐ10年になるんです。夫は優しくて、真面目で......悪い人じゃないんです。でも、最近......」
言葉を選びながら、視線を下に落とす。
クライエント「......夫のことを、好きじゃなくなったのかなって思うんです」
ダイキ「好きじゃなくなった、ですか」
クライエント「変な言い方ですけど......夫が、空気みたいになっちゃったんです。いてもいなくても、同じというか。家に帰ってきても『ああ、帰ってきたんだ』くらいで、別に嬉しくもなんともなくて」
そう言いながら、クライエントは自分の膝を見つめている。
ダイキ「それは、いつ頃から感じるようになりましたか?」
クライエント「......はっきりとは覚えてないんですけど、子どもが生まれてから、少しずつかな。最初は育児で大変で、そんなこと考える余裕もなかったんです。でも、子どもが小学生になって、ふと気づいたら......こんな感じになってました」
ドキドキがなくなった理由
ダイキ「結婚する前、付き合っていた頃は、どんな感じでしたか?」
クライエント「付き合ってた頃は......楽しかったです。デートも楽しみだったし、会えないときは寂しかったし」
少し表情が和らぐ。
クライエント「夫からメールが来るだけで、ドキドキしてました。今思うと、なんであんなにドキドキしてたんだろうって」
ダイキ「今は、ドキドキしないんですね」
クライエント「全然です。もう、家族ですから。家族に対してドキドキなんてしないじゃないですか」
そう言い切ると、クライエントは少し自嘲的に笑った。
ダイキ「『家族だからドキドキしない』って、当たり前のことだと思います?」
クライエント「......え? だって、そうじゃないんですか?」
ダイキ「それは、一つの見方ですね。でも、『なぜドキドキしなくなったのか』を考えてみると、また違う景色が見えてくるかもしれません」
クライエントは少し戸惑ったように、ダイキを見た。
クライエント「ドキドキしなくなったのって......時間が経ったからじゃないんですか?」
ダイキ「時間が経つと、どうしてドキドキしなくなるんでしょうね」
クライエント「......えっと、慣れちゃうから?」
ダイキ「慣れる、というのは、脳の中でどんなことが起きているんでしょう?」
クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「......わからないです。でも、最初は新鮮だったことも、毎日見てたら普通になるじゃないですか」
ダイキ「そうですね。脳は『新しいこと』『予測できないこと』に対して、ドーパミンという物質を出します。これが、ドキドキや高揚感の正体なんです」
クライエント「ドーパミン......聞いたことあります」
ダイキ「付き合っていた頃は、彼の反応や次のデートがどうなるか、予測できないことばかりだったと思います。それが脳を刺激して、ドキドキを生んでいたんです」
クライエント「なるほど......」
ダイキ「でも、結婚して一緒に暮らすようになると、相手の行動がある程度予測できるようになります。『この人は朝、こういう行動をする』『こう言ったら、こう返してくる』って」
クライエントは、ゆっくりと頷いた。
クライエント「確かに......夫が何を考えているか、だいたいわかります。帰ってきたら、まずシャワー浴びて、ビール飲んで、テレビ見る。毎日同じです」
ダイキ「その予測可能性が、安心感を生む一方で、ドキドキを減らしているんです」
「私、悪い妻なんでしょうか」
クライエントは、少し沈黙した。そして、小さな声で言った。
クライエント「じゃあ......私が夫にドキドキしないのは、当たり前のことなんですか?」
ダイキ「当たり前、というか......夫婦の多くが経験することです。でも、それを『仕方ない』と諦めるか、『何かできることがあるかも』と考えるかで、これからが変わってきます」
クライエント「何かできること......」
クライエントは、膝の上で手を組んだ。
クライエント「実は......最近、職場の後輩の男性と話すのが楽しくて」
少し言いにくそうに、言葉を続ける。
クライエント「別に、何かあるわけじゃないんです。ただ、その人と話してると、なんかドキドキするというか......久しぶりに、こういう感覚を味わった気がして」
ダイキ「それで、どう感じましたか?」
クライエント「......嬉しかった反面、罪悪感もあって。私、夫がいるのに、他の男性にドキドキするなんて、悪い妻ですよね」
そう言いながら、クライエントの目に少し涙が浮かんでいた。
ダイキ「悪い妻、と自分を責めているんですね」
クライエント「だって......おかしいじゃないですか。夫のことは何とも思わないのに、他の人にはドキドキするなんて」
ダイキ「その後輩の方と話すとき、何が違うと思いますか?」
クライエント「......えっと、なんだろう。この人、どう思ってるのかなって考えたり、次に何を話そうかなって考えたり......」
ダイキ「予測できないことが多い、ということですね」
クライエントははっとした表情になった。
クライエント「......あ」
ダイキ「その『予測できなさ』が、脳を刺激しているんです。夫に対しては、すでに予測できることが多いから、刺激が少ない。でも、それは夫が悪いわけでも、あなたが悪いわけでもない」
クライエント「じゃあ......私、夫が嫌いになったわけじゃないんですか?」
ダイキ「嫌いになったかどうかは、ご自身が一番わかると思います。ただ、『ドキドキしない=愛がない』とは限らない、ということです」
クライエントは、少しホッとしたような表情を見せた。
過去の自分を振り返る
ダイキ「少し、昔の話を聞いてもいいですか? どんなきっかけで、今のご主人と結婚されたんですか?」
クライエント「......大学時代のサークルで知り合って、卒業してから付き合い始めました。夫は、すごく真面目で優しくて......私がしんどいとき、いつも話を聞いてくれました」
ダイキ「どんなところに惹かれましたか?」
クライエント「安心できるところ、ですかね。夫といると、なんか落ち着くんです。派手じゃないけど、誠実で......この人なら、一緒にいて大丈夫だなって思いました」
少し懐かしそうに微笑む。
クライエント「親も『いい人だね』って言ってくれて。結婚するとき、迷いはなかったです」
ダイキ「今、その『安心できる』という部分は、変わっていますか?」
クライエント「......変わってないです。夫は今でも誠実だし、優しいし。ただ......」
クライエント「安心できるだけで、ドキドキがないんです」
刺激と安心、どちらを選ぶか
ダイキ「『刺激』と『安心』、どちらも大切なものですよね」
クライエント「......はい」
ダイキ「でも、多くの人は、この二つを『どちらか一方しか選べない』と思い込んでいます」
クライエント「え......?」
ダイキ「実は、脳の仕組みを知ることで、『安心』を保ちながら『刺激』を取り戻すことができるんです」
クライエントは、驚いたように目を見開いた。
クライエント「本当ですか? どうやって......?」
ダイキ「先ほど、ドーパミンの話をしましたよね。脳は『予測できないこと』に反応してドーパミンを出します。つまり、夫婦の間に『予測できない要素』を意図的に作ることで、ドキドキを取り戻せる可能性があるんです」
クライエント「予測できない要素......」
ダイキ「例えば、いつもと違うデートをする、普段行かない場所に一緒に行く、新しい趣味を一緒に始める。そういう『いつもと違うこと』が、脳を刺激します」
クライエントは、少し考え込んだ。
クライエント「でも......夫、そういうの好きじゃないかも。いつも『家でゆっくりしたい』って言うんです」
ダイキ「ご主人が、そう言うのは、どうしてだと思いますか?」
クライエント「......仕事で疲れてるから?」
ダイキ「それもあるかもしれませんね。でも、『家でゆっくりしたい』の中身って、具体的に何をすることですか?」
クライエント「えっと......テレビ見たり、スマホ見たり......」
クライエント「......あ、そういえば、最近、夫と会話してないかも」
ダイキは静かに頷いた。
ダイキ「会話がない、というのは、お互いにどんな影響があると思いますか?」
クライエント「......わからないです。でも、なんか寂しい気はします」
小さな一歩から始める
ダイキ「今日のお話を聞いていて、感じたことがあります」
クライエント「......なんですか?」
ダイキ「あなたは、ご主人のことを、まだ大切に思っていますね」
クライエントは、少し驚いたように顔を上げた。
クライエント「......そうなんですかね。でも、ドキドキしないのに」
ダイキ「ドキドキは、恋愛感情の一つの形です。でも、愛情には他にもいろんな形があります。安心感、信頼、尊敬......」
クライエント「......」
ダイキ「もし、ご主人との関係を『もっとこうしたい』と思うなら、まず小さなことから始めてみるのはどうでしょう?」
クライエント「小さなこと......例えば?」
ダイキ「例えば、今週末、いつもと違う場所で食事をしてみる。夫の知らない趣味を教えてもらう。一緒に新しい映画を見に行く。そういう『ちょっとした変化』が、脳に刺激を与えます」
クライエントは、少し考えた後、小さく頷いた。
クライエント「......やってみます。でも、夫が嫌がったら、どうしよう」
ダイキ「嫌がったとき、どう感じると思いますか?」
クライエント「......悲しいかも。やっぱり、夫は私に興味ないんだなって」
ダイキ「もし嫌がられたら、『なぜ嫌なのか』を聞いてみるのもいいかもしれません。もしかしたら、ご主人も何か思っていることがあるかもしれませんから」
クライエントは、ゆっくりと息を吐いた。
クライエント「......そうですね。話してみないと、わからないですよね」
気づきの瞬間
次のセッションで、クライエントは少し明るい表情でやってきた。
クライエント「先週、夫に『今週末、ちょっと遠出しない?』って誘ってみたんです」
ダイキ「どうでしたか?」
クライエント「最初は『え、どこ行くの?』って戸惑ってたんですけど......結局、二人で隣の県の温泉に行ってきました」
少し照れくさそうに笑う。
クライエント「久しぶりに、二人だけでゆっくり話したかも。子どものことや仕事のこと、いろいろ」
ダイキ「話してみて、どうでしたか?」
クライエント「......夫、意外といろいろ考えてたんだなって。私、夫のこと、わかってるつもりでいたけど、全然わかってなかったのかもしれない」
そう言いながら、クライエントは少し涙ぐんだ。
クライエント「温泉で、夫が『最近、お前と話せてなかったな』って言ったんです。『仕事ばっかりで、悪かった』って」
ダイキ「ご主人も、同じように感じていたんですね」
クライエント「そうみたいです。私、夫が私に興味ないんだと思ってたけど......夫も、私とちゃんと向き合いたかったみたいで」
クライエントは、ハンカチで目を拭いた。
クライエント「なんか......バカみたいですよね。ちゃんと話せば、こんなに簡単にわかることだったのに」
ダイキ「簡単、でしたか?」
クライエント「......いや、簡単じゃなかったです。勇気いりました。断られたらどうしようって、すごく怖かった」
ダイキ「その一歩を踏み出せたこと、すごいと思います」
クライエントは、少し照れたように笑った。
脳の仕組みを知る
ダイキ「今回の経験で、何か気づいたことはありますか?」
クライエント「......夫婦って、慣れちゃうと、お互いのことを『知ってる』って思い込むんですね。でも、人って変わるし、知らないこともいっぱいある」
ダイキ「そうですね。脳は『知ってる』と判断したものには、刺激を感じにくくなります。でも、『まだ知らないことがある』と意識すると、また新鮮な気持ちで相手を見られるようになります」
クライエント「それが、ドーパミンを出すってことですか?」
ダイキ「その通りです。相手を『もっと知りたい』と思う気持ちが、脳を刺激するんです」
クライエントは、納得したように頷いた。
クライエント「でも......このドキドキって、ずっと続くんですか? また慣れちゃったら、同じことの繰り返しになりませんか?」
ダイキ「いい質問ですね。実は、脳は『完全に予測できない状態』よりも、『ある程度予測できるけど、時々サプライズがある』状態を好むんです」
クライエント「どういうことですか?」
ダイキ「例えば、ゲームを想像してみてください。ずっと同じパターンだと飽きますよね。でも、完全にランダムで何が起こるかわからないと、不安になる」
クライエント「......確かに」
ダイキ「夫婦も同じです。『基本は安心できる関係』の中に、『時々予測できないこと』を入れる。それが、長続きする秘訣なんです」
新しい習慣を作る
クライエント「具体的には、どんなことをすればいいんですか?」
ダイキ「いくつか、脳を刺激する方法があります。一つは、『新しい経験を一緒にする』こと。二つ目は、『相手の意外な一面を知る』こと。三つ目は、『感謝を言葉にする』ことです」
クライエント「感謝......?」
ダイキ「『ありがとう』『助かった』という言葉は、相手の脳に報酬を与えます。すると、相手は『もっとこの人のために何かしたい』と思うようになる。これが、関係を良くするサイクルを生むんです」
クライエント「なるほど......確かに、私、最近夫に『ありがとう』って言ってなかったかも」
ダイキ「当たり前のことに『ありがとう』を言うのは、最初は照れくさいかもしれません。でも、続けていくと、お互いの見方が変わってきますよ」
クライエントは、メモを取りながら頷いた。
クライエント「他には?」
ダイキ「夫婦で『新しい目標』を持つのもいいですね。例えば、一緒に運動を始める、料理教室に通う、旅行の計画を立てる。共通の目標があると、会話も増えます」
クライエント「それ、いいかも......夫、最近運動不足だって言ってたんです」
ダイキ「それなら、一緒にウォーキングを始めてみるとか」
クライエント「やってみます!」
ドキドキと愛情の違い
ダイキ「一つ、大切なことをお伝えしたいんですが」
クライエント「なんですか?」
ダイキ「『ドキドキする恋愛感情』と『長続きする愛情』は、脳の中で違う仕組みで動いています」
クライエント「......どう違うんですか?」
ダイキ「ドキドキは、ドーパミンという物質が作り出します。これは、『報酬を期待する』ときに出る物質です。一方、長期的な愛情は、オキシトシンという物質が関係しています」
クライエント「オキシトシン?」
ダイキ「『愛情ホルモン』とも呼ばれています。これは、スキンシップや信頼関係を通じて分泌されます。ドキドキとは違う、穏やかで深い幸福感をもたらすんです」
クライエントは、真剣な表情で聞いていた。
クライエント「じゃあ......私が夫に感じている『安心感』も、愛情の一つなんですか?」
ダイキ「そうです。ドキドキがなくなったからといって、愛がなくなったわけじゃない。形が変わっただけです」
クライエントは、ホッとしたように息を吐いた。
クライエント「......そうなんですね。私、ずっと『夫を好きじゃなくなったのかも』って不安だったんです」
ダイキ「その不安、よくわかります。でも、今のあなたは、夫との関係を『もっと良くしたい』と思っている。それも、愛情の形ですよね」
クライエントは、静かに頷いた。
職場の後輩との関係
ダイキ「少し、前回お話しされた『職場の後輩』のことを聞いてもいいですか?」
クライエントは、少し顔を赤らめた。
クライエント「......あの人のことは、もう別にどうとも思ってないです」
ダイキ「何か変化がありましたか?」
クライエント「夫と温泉に行った後、なんか......あの人にドキドキしてたのって、ただ『新鮮だった』だけなのかなって思ったんです」
少し考えてから、続ける。
クライエント「夫と話してて気づいたんですけど、私、夫のことまだ全然知らなかったんです。一緒にいる時間が長いから、知ってるつもりになってただけで」
ダイキ「新鮮さは、外に求めなくても、身近なところにあったんですね」
クライエント「そうなんです。なんか、バカみたいですよね。遠くばっかり見てて、近くにあるものに気づいてなかった」
ダイキ「気づけたことが、大切だと思いますよ」
未来への一歩
ダイキ「これから、夫婦でどんな関係を築いていきたいですか?」
クライエントは、少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
クライエント「......ドキドキだけを求めるんじゃなくて、お互いを『まだ知らない相手』として見られる関係でいたいです」
ダイキ「素敵ですね」
クライエント「それと......感謝の気持ちを、ちゃんと言葉にしたい。夫がしてくれることを、当たり前だと思わないようにしたいです」
ダイキ「そのために、明日から何ができそうですか?」
クライエント「......毎日、一つは『ありがとう』を言う。あと、週に一回は、二人で新しいことをしてみる」
ダイキ「いいですね。無理のない範囲で、続けてみてください」
クライエントは、明るい表情で頷いた。
クライエント「はい。今日、ダイキさんに話を聞いてもらって、すごく楽になりました」
ダイキ「それは良かったです」
クライエント「私、夫のこと、嫌いになったわけじゃなかったんですね。ただ、関係が『当たり前』になりすぎてただけで」
ダイキ「そうですね。『当たり前』を『特別』に変えるのは、あなた次第です」
クライエントは、立ち上がりながら、深く頭を下げた。
クライエント「ありがとうございました。また、何かあったら相談に来てもいいですか?」
ダイキ「もちろんです。いつでもどうぞ」
クライエントは、晴れやかな表情でカウンセリングルームを後にした。
数ヶ月後、クライエントからメールが届いた。
「ダイキさん、ご無沙汰しています。あれから、夫と毎週末、いろんなところに出かけています。先週は、二人で陶芸教室に行ってきました。夫が意外と器用で、びっくりしました(笑)。
最近、夫と話すのが楽しいです。知らないことがたくさんあって、まるで付き合い始めの頃みたいに、夫のことをもっと知りたいって思います。
ドキドキは、確かに前ほどじゃないかもしれません。でも、それでいいんだって、今は思えます。私たちには、ドキドキとは違う、深い信頼と愛情があるから。
ダイキさんに相談して、本当に良かったです。ありがとうございました」