「好き」が分からなくなった
カウンセリングルームに入ってきたユキコさんは、少し緊張した様子でソファに腰を下ろした。
ユキコ「あの...なんか、変な相談かもしれないんですけど」
ダイキ「大丈夫ですよ。どんなことでも話してください」
ユキコ「彼氏と3年付き合ってるんです。結婚の話も出てて、周りからも『いいカップルだね』って言われるんですけど...」
ユキコさんは言葉を探すように、しばらく間を置いた。
ユキコ「私、彼のこと好きなのか、よく分からなくなってきて」
ダイキ「分からなくなってきた、ですか」
ユキコ「はい。大切な人だし、一緒にいると安心するんです。でも、なんていうか...恋してるって感じじゃないんですよね」
ユキコさんの表情には、困惑と不安が混ざっていた。
ダイキ「恋してる感じじゃない、というのは?」
ユキコ「付き合い始めた頃は、会いたくて会いたくて仕方なかったんです。メッセージが来るたびにドキドキして。でも今は...なんか、お母さんみたいな気持ちになってる気がして」
「お世話」している自分
ユキコ「最近気づいたんですけど、私、彼のこと『お世話』してるんです」
ダイキ「お世話、ですか」
ユキコ「はい。彼、結構だらしないところがあって。部屋も散らかってるし、食事もちゃんと取らないし。だから私が『ちゃんと食べた?』とか『部屋片付けた?』とか言っちゃうんです」
そう話すユキコさんの声には、少し疲れが滲んでいた。
ユキコ「保育士だからなのか、つい世話焼いちゃうんですよね。でも、恋人にそういうことしてると、なんか違う気がして」
ダイキ「違う気がする、というのは?」
ユキコ「恋人同士って、もっとこう...ドキドキするとか、一緒にいて楽しいとか、そういうのがあるべきじゃないですか? でも私、彼といると『ちゃんとしなきゃ』って思っちゃうんです」
ユキコさんは少し俯いた。
ユキコ「友達に相談したら、『それって母性本能じゃない?』って言われて。でも、母性本能って恋愛感情と同じなんですか?」
ダイキ「それは大事な疑問ですね。ユキコさん自身は、どう思います?」
ユキコ「分からないんです。だって、好きじゃなかったら世話なんてしないですよね? でも、この『好き』って、恋愛の『好き』なのかな、って」
脳の中の二つの「好き」
ダイキ「ユキコさん、実は脳の研究で分かってることがあるんですが」
ユキコ「はい」
ダイキ「母性的な愛情と、恋愛感情って、脳の別々の場所で働いてるんです」
ユキコさんは少し驚いた様子で顔を上げた。
ユキコ「え、別々なんですか? 同じ『好き』なのに?」
ダイキ「はい。恋愛感情は、脳の報酬系という部分が活発になります。ドキドキしたり、相手のことが頭から離れなかったり、会いたくて仕方なくなったり」
ユキコ「付き合い始めた頃の、あの感じですね」
ダイキ「そうですね。一方で、母性的な愛情や世話をする気持ちは、愛着に関わる別の脳の仕組みで働いています。オキシトシンというホルモンが関係していて、これは相手を守りたい、安心させたいという気持ちを生み出します」
ユキコ「オキシトシン...聞いたことあります。幸せホルモンって言われるやつですよね」
ダイキ「そうです。出産や授乳の時に多く分泌されるホルモンで、母親が赤ちゃんを愛おしく思う気持ちに深く関わっています」
ユキコ「じゃあ、私が彼を『お世話』したくなるのも、そのホルモンが関係してるんですか?」
ダイキ「可能性はあります。保育士として日々子どもたちと接していると、そういう回路が活性化しやすくなるかもしれません」
ユキコさんは少し考え込んだ。
ユキコ「でも、恋愛感情も、母性的な愛情も、どっちも『好き』なんですよね?」
ダイキ「はい。どちらも『好き』という感情です。ただ、質が違うんです」
ユキコ「質が違う...」
ダイキ「恋愛感情は、相手と対等な関係を築きたい、一緒に何かを経験したい、という気持ちです。相手を特別な存在として見る。一方、母性的な愛情は、相手を守りたい、支えたい、という気持ち。相手を自分より弱い存在として見ることが多いんです」
ユキコ「...なるほど」
ユキコさんの表情が、少しずつ変わっていった。
ユキコ「じゃあ、私が感じてる『好き』は...」
ダイキ「どちらか一方だけ、ということではないと思います。長く付き合っていると、恋愛感情だけでなく、相手への愛着や安心感も深まっていきます。それ自体は自然なことです」
ユキコ「でも、私の場合は...」
ダイキ「母性的な愛情の方が強くなりすぎて、恋愛感情が薄れてきたのかもしれませんね」
ユキコさんはしばらく考え込んでいた。
ユキコ「そういうこと、あるんですね。脳の中で、別々に働いてるって知ったら、なんか腑に落ちました」
ダイキ「腑に落ちた、ですか」
ユキコ「はい。私、恋愛感情と母性的な気持ちを、全部一緒くたにして『好き』って思ってたんです。でも、それって違うものなんですね」
ダイキ「ええ。区別することで、自分が今どんな気持ちでいるのか、分かりやすくなることもあります」
ユキコ「私、彼に対して恋愛感情を持ちたいのに、母性的な気持ちが強すぎて、バランスが崩れてたんですね」
過去を振り返る
ダイキ「ユキコさん、彼のどういうところに惹かれたんですか? 付き合い始めた頃」
ユキコ「えっと...優しいところです。私、結構せっかちなんですけど、彼はすごくのんびりしてて。一緒にいると落ち着くなって思って」
ダイキ「なるほど」
ユキコ「あと、笑顔がいいんです。彼が笑うと、こっちまで嬉しくなるというか」
そう話すユキコさんの表情は、少し柔らかくなった。
ダイキ「今もそういう気持ちはあります?」
ユキコ「...あります。でも、なんか薄れてきてる気がして」
ダイキ「薄れてきてる、ですか」
ユキコ「はい。最近は彼の笑顔を見ても、『あ、機嫌いいんだな』って思うだけで、ドキドキしないんです」
ユキコさんは少し寂しそうな表情を浮かべた。
ダイキ「いつ頃から、『お世話』するようになったんですか?」
ユキコ「いつ頃...だろう。多分、一緒に住み始めてからです」
ダイキ「一緒に住み始めてから」
ユキコ「はい。同棲して1年くらいになるんですけど、一緒に暮らすと、彼のだらしないところが全部見えちゃって」
ユキコさんは少し苦笑いした。
ユキコ「最初は、『まあ、こういうところもあるよね』って思ってたんです。でも、だんだん気になってきて。『このままじゃダメだ』って思うようになって」
ダイキ「ダメだ、と」
ユキコ「はい。彼、一人暮らしが長かったのに、部屋の片付けとか全然できないんです。洗濯物も溜め込むし、賞味期限切れの食品が冷蔵庫にいっぱいあったり」
ユキコさんの声に、少し疲れが滲んだ。
ユキコ「だから私が、『これは捨てよう』とか『掃除しよう』とか言うようになって。そしたら、彼が『ありがとう、助かる』って言うから、私がやるのが当たり前になっちゃって」
ダイキ「ユキコさんがやるのが当たり前に」
ユキコ「はい。気づいたら、彼のお母さんみたいになってました」
ユキコさんは、自分の手を見つめた。
ユキコ「私、変なんでしょうか。普通、恋人のこと世話したくなるものじゃないんですか?」
ダイキ「ユキコさんは、どう思います?」
ユキコ「...分からないです。でも、こんなに疲れるのは、何か違う気がして」
世話をすることの意味
ダイキ「ユキコさん、彼のこと世話してるとき、どんな気持ちになります?」
ユキコ「どんな気持ち...ですか?」
ダイキ「はい。例えば、嬉しいとか、楽しいとか、それとも...」
ユキコ「うーん...」
ユキコさんは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
ユキコ「正直に言うと、ちょっとイライラすることもあります。『なんで自分でやらないんだろう』『なんで私が言わないとやらないんだろう』って」
ダイキ「イライラする」
ユキコ「はい。でも、それと同時に『私がやらなきゃ』とも思うんです。彼、一人だと本当にダメだから」
ダイキ「ダメだから、ユキコさんがやらなきゃいけない」
ユキコ「...そうです」
ユキコさんは、何かに気づいたような表情を浮かべた。
ユキコ「あ...私、彼のこと信頼してないのかも」
ダイキ「信頼してない?」
ユキコ「はい。『彼は一人じゃダメ』『私がいないとダメ』って思ってるってことは...彼を信頼してないってことですよね」
ダイキ「...」
ユキコ「それに」
ユキコさんは、少し恥ずかしそうに言った。
ユキコ「もしかしたら、彼に『必要とされたい』って気持ちもあるのかもしれません」
ダイキ「必要とされたい」
ユキコ「はい。私が世話することで、彼が『ありがとう、助かる』って言ってくれる。それが嬉しかったのかも」
ユキコさんの声が、少し震えた。
ユキコ「でも、それって...私が彼を依存させてたってことですよね」
ダイキ「依存させてた、ですか」
ユキコ「はい。彼が自分でやらないのも、私が全部やっちゃうからかもしれない。私が彼を『ダメな人』にしちゃってたのかも」
その気づきに、ユキコさん自身が驚いているようだった。
ユキコ「怖いです。私、彼のためにやってると思ってたけど、実は自分のためにやってたのかもしれない」
ダイキ「自分のため、というのは?」
ユキコ「必要とされたい、頼りにされたい、『私がいないとダメ』って思われたい。そういう気持ちが、どこかにあったのかもしれません」
ユキコさんは、自分の手をじっと見つめた。
ユキコ「それって、愛情じゃなくて...支配、ですよね」
気づきの瞬間
しばらく沈黙が続いた。ユキコさんは自分の手を見つめながら、何かを整理しているようだった。カウンセリングルームには、時計の秒針の音だけが静かに響いていた。
ユキコ「ダイキさん...」
声は小さく、震えていた。
ユキコ「私...彼のこと、子どもだと思ってたのかもしれません」
その言葉は、ユキコさん自身にも驚きのようだった。彼女は自分の言葉に戸惑いながらも、続けた。
ダイキ「子どもだと」
ユキコ「はい。保育士だから、つい子どもを見るような目で見ちゃってたのかも。『ちゃんとしなさい』『これはダメ』って...」
ユキコさんの声が詰まった。
ユキコ「保育園の子たちにかける言葉と、同じなんです。全く同じ」
ユキコさんの目に、涙が浮かんだ。
ユキコ「それって...恋人じゃないですよね」
ダイキは静かに待った。ユキコさんが自分の気持ちと向き合う時間が必要だと感じたからだ。
ユキコ「私、彼を対等な大人として見てなかった。尊重してなかった」
涙がひとつ、頬を伝った。続いて、もう一つ。
ユキコ「だから...だから恋愛感情が薄れてきたんだ」
その言葉を口にした瞬間、ユキコさんの体から力が抜けたようだった。まるで、ずっと背負っていた重い荷物を下ろしたように。
ユキコ「恋愛って、対等な関係だから成り立つんですよね。上下関係じゃない。支配する側とされる側じゃない」
ユキコさんは顔を上げ、涙を拭いた。
ユキコ「私、彼を下に見てたから、もう恋愛じゃなくなってたんだ。母親と子どもの関係になってたんだ」
その気づきは、痛みを伴うものだった。しかし同時に、ユキコさんの表情には少しずつ光が戻ってきていた。真実に気づくことの痛みと、同時に訪れる解放感。
ユキコ「ずっとモヤモヤしてた理由が、やっと分かりました」
彼女は深く息を吸った。
ユキコ「このままじゃダメなんですね。このまま結婚しても、幸せになれない」
ダイキ「ユキコさんが、そう感じるなら」
ユキコ「...はい。感じます」
その涙は、もう混乱や不安から来るものではなかった。自分の本当の気持ちに辿り着いた、安堵の涙だった。
本当に求めていたもの
ダイキ「ユキコさん、恋愛に何を求めてますか?」
ユキコ「恋愛に...ですか?」
ダイキ「はい」
ユキコ「うーん...一緒にいて楽しいとか、支え合えるとか」
ダイキ「支え合える、ですか」
ユキコ「はい。私ばっかり支えてるんじゃなくて、お互いに支え合える関係がいいです」
ユキコさんは、少しずつ自分の言葉を見つけていった。
ユキコ「あと...対等でいたいです。どっちが上とか下とかじゃなくて」
ダイキ「今の関係は、対等だと思いますか?」
ユキコ「...思いません。私の方が上にいる気がします」
ダイキ「それは、ユキコさんが望んでる関係ですか?」
ユキコ「いいえ」
その答えは、迷いなく出てきた。
彼への期待
ダイキ「ユキコさん、彼に変わってほしいと思いますか?」
ユキコ「正直、思います。もっとしっかりしてほしいって」
ダイキ「もっとしっかりしてほしい」
ユキコ「はい。自分のことは自分でやってほしいし、私に頼りっぱなしじゃなくて、時には私を頼らせてほしいって思います」
ユキコさんの声には、少しずつ力が戻ってきていた。
ユキコ「でも...それって、彼を変えようとしてることになりますよね」
ダイキ「どう思います?」
ユキコ「難しいですね。彼は彼だし、私の理想を押し付けるのは違う気がする。でも、このままの関係も苦しい」
ダイキ「苦しい、ですか」
ユキコ「はい。だって、私ばっかり頑張ってる感じがして。それで疲れちゃうんです」
自分の役割を手放す
ダイキ「ユキコさん、もし彼のこと『世話』するのをやめたら、どうなると思います?」
ユキコ「えっ...」
その質問に、ユキコさんは戸惑った様子を見せた。
ユキコ「どうなるんだろう...部屋はもっと散らかるだろうし、ちゃんとご飯食べなくなるかも」
ダイキ「それで?」
ユキコ「それで...」
ユキコさんは考え込んだ。
ユキコ「...私、彼が困るのを見たくないんです」
ダイキ「困るのを見たくない」
ユキコ「はい。だから先回りして世話しちゃう。でも、それって...彼の成長を止めてることになるのかも」
ユキコさんは、ハッとした表情を浮かべた。
ユキコ「私、彼を子ども扱いすることで、本当に子どもにしちゃってたのかもしれません」
ダイキ「...」
ユキコ「彼が自分でやる機会を、私が奪ってたんですね」
その気づきは、ユキコさんにとって大きなものだった。
関係性を見つめ直す
ダイキ「今日の話を聞いていて、ユキコさんは二つの『好き』の間で揺れてるように感じました」
ユキコ「二つの『好き』」
ダイキ「はい。一つは、世話をしたい、守ってあげたいという母性的な『好き』。もう一つは、対等な関係を築きたい、一緒に成長したいという恋愛の『好き』」
ユキコ「...そうかもしれません」
ダイキ「どちらも間違いじゃないんです。ただ、今のユキコさんは、どちらの『好き』を大切にしたいですか?」
ユキコさんは、深く息を吸った。
ユキコ「...対等な関係がいいです。恋愛の『好き』を取り戻したい」
ダイキ「そのために、何ができそうですか?」
ユキコ「まず、彼のこと信頼することから始めたいです。世話を焼くのをやめて、彼が自分でやるのを見守る」
ダイキ「見守る、ですか」
ユキコ「はい。最初は不安だと思うけど...彼を信じてみます」
ユキコさんの表情は、少しずつ明るくなっていった。
二つの感情は共存できるのか
ユキコ「ダイキさん、一つ聞いてもいいですか?」
ダイキ「もちろんです」
ユキコ「母性的な『好き』と、恋愛の『好き』って、両方持っちゃダメなんですか?」
ダイキ「ダメだと思いますか?」
ユキコ「いや...ダメじゃない気もするんですけど。でも、混ざっちゃうと今みたいになっちゃうのかなって」
ダイキ「なるほど。ユキコさんの経験から言うと、混ざってしまうと苦しかったということですね」
ユキコ「はい。彼を守りたい気持ちも、対等でいたい気持ちも、両方あるんです。でも、守りたい気持ちが強すぎて、対等じゃなくなっちゃってた」
ユキコさんは、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。
ユキコ「保育園の子どもたちには、全力で母性的な愛情を注げるんです。それは仕事だし、子どもたちは本当に守るべき存在だから」
ダイキ「はい」
ユキコ「でも、彼は大人なんですよね。守るべき存在じゃなくて、一緒に歩いていく存在なのに、私、区別できてなかった」
ダイキ「区別できてなかった」
ユキコ「はい。仕事モードのまま、家でも『先生』になっちゃってたのかもしれません」
ユキコさんは、少し苦笑いした。
ユキコ「保育士って、子どもたちの成長を見守る仕事です。『これができるようになった』『あれができるようになった』って、すごく嬉しいんです」
ダイキ「...」
ユキコ「でも、彼に対しても同じことをしてたんですね。『ちゃんとできるようにならなきゃ』『成長させなきゃ』って」
ダイキ「それは、ユキコさんの役割でしょうか」
ユキコ「...違いますよね。彼は子どもじゃない。私が育てる対象じゃない」
ユキコさんの表情が、少しずつ変わっていった。
ユキコ「パートナーって、育てるものじゃなくて、一緒に育つものなんですよね」
ダイキ「一緒に育つ、ですか」
ユキコ「はい。お互いに影響し合って、一緒に成長していく。どっちかが育てる側、育てられる側じゃなくて」
その言葉には、新しい気づきが込められていた。
ユキコ「だから、母性的な『好き』と恋愛の『好き』、両方あってもいいと思います。でも、バランスが大事なんですね」
ダイキ「その二つのバランスが、確かに大事かもしれませんね」
ユキコ「時には相手を支えることも必要だし、時には対等に向き合うことも必要。時には甘えることも、甘えられることも」
ユキコさんは、自分の考えを整理するように話した。
ユキコ「私、極端になってたんですね。『守らなきゃ』『世話しなきゃ』ばかりで」
ダイキ「極端になってた、と」
ユキコ「はい。でも、本当は彼も私を支えたいって思ってるかもしれない。私が全部やっちゃうから、その機会を奪ってたのかも」
ユキコさんは、少し明るい表情になった。
ユキコ「これから、もっとバランスを考えようと思います。守るべき時は守る。でも、基本は対等に」
彼との対話を決意する
ユキコ「今日気づいたこと、彼にも伝えようと思います」
ダイキ「伝えようと思う、ですか」
ユキコ「はい。私が彼のこと子ども扱いしてたこと。それで苦しくなってたこと。これから対等な関係を築きたいって思ってること」
ユキコさんの声には、決意が感じられた。しかし同時に、不安も滲んでいた。
ユキコ「怖いけど...ちゃんと話さないと、前に進めない気がします」
ダイキ「怖い、というのは?」
ユキコ「もしかしたら、彼は今の関係がいいって思ってるかもしれないから。私が『お母さん』役をやってくれるのが、楽だって思ってるかも」
ユキコさんは、少し俯いた。
ユキコ「私が変わろうとすることで、関係が壊れちゃうんじゃないかって。それが一番怖いです」
ダイキ「...」
ユキコ「でも」
ユキコさんは顔を上げた。
ユキコ「でも、このままじゃ私が壊れちゃいます。彼を恨むようになっちゃうかもしれない。『なんで私ばっかり』って」
その言葉には、強い覚悟が込められていた。
ユキコ「それって、二人とも不幸ですよね」
ダイキ「そうですね」
ユキコ「だから、勇気出して話してみます。本当の気持ちを伝えます」
ユキコさんは、ハンカチで涙を拭いた。
ユキコ「もし彼が、今の楽な関係を続けたいって言ったら...その時は、別れることも考えないといけないかもしれません」
その言葉を口にする時、ユキコさんの声は震えていた。
ユキコ「でも、それでも話さなきゃ。自分に嘘ついたまま結婚しても、絶対うまくいかないって分かりましたから」
ダイキ「大きな決断ですね」
ユキコ「はい。でも、今日ここに来て、自分の気持ちがはっきりしました。このまま彼の『お母さん』でいるのは嫌だって」
ユキコさんは、少し不安そうながらも、前を向いていた。その横顔には、迷いながらも一歩を踏み出そうとする強さがあった。
未来への一歩
ダイキ「ユキコさん、これから先、どんな関係を築いていきたいですか?」
ユキコ「お互いを尊重し合える関係がいいです。頼り頼られる関係じゃなくて、支え合える関係」
ダイキ「支え合える関係」
ユキコ「はい。彼が困ってるときは手を差し伸べるけど、必要以上に世話を焼かない。私が困ってるときは、彼にも頼れる」
ユキコさんは、少しずつ自分の理想を言葉にしていった。
ユキコ「それと...もっと一緒に楽しみたいです。お世話じゃなくて、デートとか、二人で何かするとか」
ダイキ「楽しむこと、大事ですね」
ユキコ「はい。最近全然デートしてなかったんです。いつも『これやらなきゃ』『あれやらなきゃ』って。それも関係を窮屈にしてたのかも」
最後に
カウンセリングの終わりに、ユキコさんは少し照れくさそうに言った。
ユキコ「今日来て良かったです。自分の気持ちがずっとモヤモヤしてたんですけど、少しすっきりしました」
ダイキ「それは良かったです」
ユキコ「母性的な『好き』と恋愛の『好き』が別物だって知れて、すごく腑に落ちました。私、全部一緒くたにして考えてたから、混乱してたんですね」
ダイキ「そうですね。二つの感情を区別できると、自分の気持ちも整理しやすくなります」
ユキコ「はい。これから彼との関係、ちゃんと向き合っていきます」
ユキコさんは立ち上がり、深く頭を下げた。
ユキコ「ありがとうございました」
カウンセリングルームを出ていくユキコさんの後ろ姿は、来たときよりも少し軽やかだった。
あとがき
脳の中の二つの「好き」
恋愛感情と母性的な愛情は、脳の異なる仕組みで働いています。恋愛感情は、脳の報酬系という部分が活発になり、ドーパミンなどの神経伝達物質が放出されます。これにより、相手への強い関心、ドキドキする気持ち、会いたくて仕方ない欲求、一緒にいたいという願望が生まれます。
一方、母性的な愛情や世話をする気持ちは、オキシトシンというホルモンが深く関わっています。オキシトシンは、出産や授乳時に多く分泌されるホルモンで、母親が赤ちゃんを愛おしく思う気持ち、守りたいという欲求、安心感を生み出します。
どちらも「好き」という感情ですが、その質は明確に異なります。恋愛感情は相手を対等な存在として見て、一緒に成長したい、経験を共有したいという気持ちです。母性的な愛情は、相手を自分より弱い存在、守るべき存在として見る傾向があります。
長く付き合うと変化する関係性
交際が長くなると、恋愛感情よりも愛着や母性的な愛情が強くなることは珍しくありません。これは自然な変化です。しかし、もし恋愛関係を続けたいのであれば、対等な関係を保つことが重要です。
相手を子ども扱いすることは、短期的には相手を助けることになるかもしれません。しかし長期的には、相手の成長を妨げ、自立を阻害し、関係を不健全にする可能性があります。また、世話をする側も疲弊し、「なぜ私ばかり」という不満が蓄積していきます。
対等な関係を築くために
もし今、パートナーとの関係で「母親のような気持ち」になっていると感じたら、以下のことを考えてみてください:
相手を信頼しているか 世話を焼きすぎるのは、相手を信頼していないサインかもしれません。相手にも自分のことを管理する能力があると信じることが、対等な関係の第一歩です。
相手の成長を奪っていないか 先回りして世話をすることは、相手が自分で学ぶ機会を奪うことになります。時には相手が失敗する様子を見守ることも必要です。
自分も相手に頼れているか 一方的に世話をする関係ではなく、互いに支え合える関係が健全です。あなたが困っている時、相手に頼れていますか?
恋人として楽しめているか 世話や管理ばかりで、一緒に楽しむ時間が減っていないか振り返ってみましょう。デート、会話、共通の趣味など、対等に楽しめる時間を大切にすることが恋愛関係を保つ鍵です。
対話の大切さ
もし関係性に違和感を感じたら、パートナーとの対話が不可欠です。自分がどう感じているか、どんな関係を築きたいか、正直に伝えることが大切です。
相手の反応が怖いかもしれません。しかし、自分の気持ちに蓋をしたまま関係を続けても、いつか限界が来ます。本音で話し合える関係こそが、長く続く健全な関係の基盤です。
あなたの気持ちを大切にしてください。そして、相手も一人の大人として尊重してください。二人が対等に向き合える関係が、本当の意味での愛情を育んでいきます。