「何もできていない」という焦り
オンラインカウンセリングの画面に映ったサトコさんは、少し疲れた表情をしていた。背景には実家の自室らしき壁が見える。
ダイキ「こんにちは、サトコさん。今日はお時間いただいてありがとうございます。今、どんなお気持ちですか?」
サトコ「......正直、こうやって話すのも、なんだか申し訳ないような気持ちです」
ダイキ「申し訳ない、というのは?」
サトコ「だって、私......何もしてないんです。もう2年半も。毎日家にいて、ただ時間が過ぎていくだけで」
そう言いながら、サトコさんは視線を落とした。
サトコ「友達はみんな働いてて、結婚してる人もいて。SNS見るたびに......なんで私だけこんななんだろうって」
ダイキ「今、『何もしていない』とおっしゃいましたけど、本当に何もしていないんですか?」
サトコ「え?......はい。朝起きて、ご飯食べて、スマホ見て、また寝て。それの繰り返しです」
ダイキ「朝は何時ごろ起きていますか?」
サトコ「......10時とか、11時とか。遅いときは昼過ぎです」
ダイキ「夜は眠れていますか?」
サトコさんは少し間を置いてから、小さく首を横に振った。
サトコ「眠れないんです。布団に入っても、頭の中でぐるぐる考えごとが回って。『明日こそ何かしなきゃ』って思うんですけど......朝になるとまた動けなくて」
過去の自分と、失われた「当たり前」
ダイキ「サトコさん、前のお仕事を辞められたのは、どれくらい前でしたっけ?」
サトコ「2年半くらい前です。正確には......2年7ヶ月くらい」
ダイキ「覚えてらっしゃるんですね」
サトコ「......数えちゃうんです。『もう2年以上無職なんだ』って」
ダイキ「お仕事を辞めたとき、どんな気持ちでしたか?」
サトコさんは少し考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。
サトコ「最初は......ホッとしたんです。やっと解放されたって。毎日残業で、上司からは詰められて、体も心もボロボロだったので」
ダイキ「そうだったんですね」
サトコ「でも、辞めてしばらくしたら......急に不安になってきて。『これでよかったのかな』『次、どうしよう』って。最初の半年くらいは、まだ『少し休んだら転職活動しよう』って思えてたんですけど」
サトコさんの声が少しずつ小さくなっていく。
サトコ「気がついたら1年、2年って経ってて。『こんなに無職期間が長いと、もう雇ってもらえないんじゃないか』って思うようになって......それでますます動けなくなって」
ダイキ「今、『動けなくなって』とおっしゃいましたね」
サトコ「はい......頭では『動かなきゃ』ってわかってるんです。でも、体が......なんていうか、重くて。求人サイトを開こうとすると、すごく疲れるんです。何もしてないのに」
「休んでいる」のではなく「警戒している」
ダイキ「サトコさん、一つ聞いてもいいですか。今、肩とか首とか、凝ってたりしませんか?」
サトコ「え?......あ、はい。すごく凝ってます。朝起きたときから」
ダイキ「頭痛とか、お腹の調子はどうですか?」
サトコ「頭痛は......時々。お腹は、なんか常にもやもやしてる感じです」
ダイキ「それって、『何もしていない』状態だと思いますか?」
サトコさんは戸惑ったような表情になった。
サトコ「でも......家にいるだけですし」
ダイキ「体は、すごくエネルギーを使ってるんじゃないかなって思うんです。肩が凝るのも、眠れないのも、体が常に警戒モードになっているサインかもしれません」
サトコ「警戒......?」
ダイキ「人間の体って、疲れているときほど、周りを警戒するようにできてるんです。動物が怪我をしたとき、敵に襲われないように神経を尖らせるのと同じで」
サトコさんは少し驚いたような顔をした。
ダイキ「今のサトコさんは、『何もしていない』んじゃなくて、体が『今は動かないで』って言ってるのかもしれないですね」
サトコ「......でも、そんなの甘えじゃないですか? みんな働いてるのに」
ダイキ「『みんな』って、誰のことですか?」
サトコ「......友達とか、同級生とか」
ダイキ「その人たちは、サトコさんと同じ状況ですか?」
サトコさんは黙り込んだ。しばらくの沈黙の後、小さな声が聞こえた。
サトコ「......違います」
焦りの正体
ダイキ「サトコさん、今一番怖いことって何ですか?」
サトコ「怖いこと......?」
ダイキ「『このままだとどうなる』って、頭の中で考えていることです」
サトコさんは少し考えてから、言葉にした。
サトコ「......このまま、ずっと無職で。貯金がなくなって、誰からも必要とされなくて......一生、何もできないまま終わるんじゃないかって」
ダイキ「それは、いつから考えるようになりましたか?」
サトコ「退職して......半年くらい経ったころからだと思います。最初は『少し休もう』って思えてたのに、だんだん『早く動かなきゃ』って焦るようになって」
ダイキ「その焦りは、サトコさんを動かしてくれましたか?」
サトコさんはゆっくりと首を横に振った。
サトコ「......逆です。焦れば焦るほど、動けなくなりました」
ダイキ「そうですよね」
サトコ「え?」
ダイキ「焦りって、不安から生まれるものなんです。『失敗したくない』『このままじゃダメだ』っていう恐れが、焦りになる。でも、焦ってる時って、実は冷静な判断ができなくなるんです」
サトコさんは静かに聞いている。
ダイキ「サトコさんが『動けない』のは、体が『今、焦って動いたら失敗する』って止めてくれてるのかもしれないですね」
サトコ「......そんなこと、考えたこともなかったです」
言葉にできなかった「疲れ」
ダイキ「前のお仕事、どれくらいの期間されてたんですか?」
サトコ「5年くらいです」
ダイキ「5年間、どんなお仕事でした?」
サトコ「事務職です。最初は普通だったんですけど、だんだん人が辞めていって。私の仕事が増えて、残業も増えて......最後の2年くらいは、ほとんど毎日終電でした」
ダイキ「毎日終電」
サトコ「はい。土日も、結局家で仕事のことを考えて。休んだ気がしなくて」
ダイキ「それを5年続けたんですね」
サトコ「......はい」
ダイキ「それって、すごいエネルギーを使ったと思いませんか?」
サトコさんは少し驚いたような表情になった。
サトコ「でも......それが仕事だったので」
ダイキ「『仕事だから』って、自分の疲れを認めないようにしていませんでしたか?」
サトコさんの目に、うっすらと涙が浮かんだ。
サトコ「......認めたら、続けられなかったと思います」
ダイキ「そうですよね」
サトコ「『疲れた』って言ったら、甘えてるって思われそうで。周りもみんな頑張ってたし。だから......ずっと我慢してました」
ダイキ「その我慢が、ある日限界を超えたんですね」
サトコさんは静かに頷いた。涙が一筋、頬を伝った。
サトコ「......辞めるって決めたとき、もう本当に限界だったんです。朝、体が動かなくて。会社に行こうとすると、吐き気がして」
ダイキ「それは、体が『もう無理だ』って教えてくれてたんですね」
サトコ「はい......」
「動かない」ことの意味
ダイキ「サトコさん、今まで『動けない自分はダメだ』って思ってましたよね」
サトコ「......はい」
ダイキ「でも、本当は『動かないことで、自分を守ってる』のかもしれないって、思ったことはありますか?」
サトコさんは首を傾げた。
サトコ「動かないことで......守る?」
ダイキ「はい。5年間、ずっと頑張り続けてきた。その疲れは、たぶんサトコさんが思ってるよりずっと深いんです。その状態で無理に動いたら、また同じことになるかもしれない」
サトコ「......」
ダイキ「だから、体が『今は休む時だ』って言ってるんじゃないでしょうか」
サトコさんは、ゆっくりと言葉を探すように話し始めた。
サトコ「でも......いつまで休めばいいんですか? もう2年以上経ってるのに」
ダイキ「『いつまで』って、決まってないんです」
サトコ「え?」
ダイキ「人によって、回復に必要な時間は違います。それに、『完全に回復してから動く』必要もないんです」
サトコさんは不思議そうな顔をした。
ダイキ「今、一つだけでいいんです。『これならできそう』って思えること、何かありますか?」
サトコ「......散歩、とかですか?」
ダイキ「いいですね。どれくらいの散歩ですか?」
サトコ「5分くらいなら......」
ダイキ「じゃあ、5分でいいです。それ以上は頑張らない」
サトコ「え、でも5分って......短すぎませんか?」
ダイキ「短くていいんです。むしろ、短い方がいい」
小さな一歩から
サトコさんは、少し戸惑いながらも、ダイキの言葉を受け止めようとしているようだった。
ダイキ「サトコさん、今まで『もっと頑張らなきゃ』『これじゃ足りない』って、自分に言い続けてきませんでしたか?」
サトコ「......はい」
ダイキ「その考え方が、サトコさんを5年間働かせ続けたんです。そして、限界を超えさせた」
サトコさんは静かに頷いた。
ダイキ「これからは、逆をやってみませんか? 『これくらいでいい』『これで十分』って、自分に言ってあげる」
サトコ「......できるかな」
ダイキ「最初は違和感があると思います。『こんなんじゃダメだ』って、また自分を責めたくなるかもしれない」
サトコ「きっと、そうなると思います」
ダイキ「そのとき、思い出してほしいんです。『動かないことで、自分を守ってきた』って」
サトコさんは、ゆっくりと深呼吸をした。
サトコ「......私、ずっと自分を責めてました。『何でこんなに弱いんだろう』『何で動けないんだろう』って」
ダイキ「それは、自分を守るための体の反応だったんですね」
サトコ「はい......今、少し楽になった気がします」
対話を終えて
カウンセリングの最後に、サトコさんは少しだけ表情が柔らかくなっていた。
サトコ「先生、一つ聞いてもいいですか」
ダイキ「はい、どうぞ」
サトコ「5分の散歩......それを続けたら、私、また働けるようになりますか?」
ダイキ「それは、わからないです」
サトコさんは少し驚いたような顔をした。
ダイキ「でも、一つ言えるのは、『働けるようになるため』に散歩をするんじゃないってことです」
サトコ「......?」
ダイキ「『自分のために』散歩をするんです。自分が気持ちいいと思えることを、少しずつやってみる。それだけです」
サトコ「自分のために......」
ダイキ「『将来のため』『働くため』じゃなくて、『今の自分が少しでも楽になるため』。それが最初の一歩だと思います」
サトコさんは、静かに頷いた。
サトコ「わかりました。まず、明日の朝、5分だけ外に出てみます」
ダイキ「無理はしないでくださいね。できなくても、自分を責めないこと」
サトコ「......はい」
画面越しに見えるサトコさんの表情は、カウンセリングを始めた時よりも、ほんの少しだけ穏やかになっていた。
後日談
サトコさんは、その後も月に一度のペースでカウンセリングを続けている。5分の散歩は、今では15分になり、時々近所のカフェに立ち寄るようにもなった。
「転職活動は、まだ始めていません」とサトコさんは言う。「でも、焦らなくなりました。今は、自分のペースでいいんだって思えるようになって」
変化は、目に見えないところで少しずつ起きている。それが、回復の過程なのかもしれない。