■ 期待に応える人生
「最初に聞きたいんですが...」
クライエントは、ゆっくりと言葉を探すように話し始めた。
「今の仕事、別に嫌いじゃないんです。給料もいいし、周りからは『順調だね』って言われる。でも...なんか、虚しいんですよね」
ダイキは静かにうなずいた。
「虚しい、ですか」
「はい。朝起きて会社に行って、会議して、部下の管理して...それを20年近く続けてきて。気づいたら、『これ、本当に自分がやりたかったことなのかな』って」
クライエントの視線が、窓の外に向けられた。
「どんなときに、そう思うんですか?」
「...ふとした瞬間、ですかね。会議中とか、通勤電車の中とか。『俺、何やってんだろう』って」
ダイキは少し間を置いてから、尋ねた。
「今の仕事を選んだとき、どんな気持ちでしたか?」
クライエントは少し考えてから、答えた。
「親が喜ぶ顔が見たかったんです。『大手に入れて良かったね』って。それに、周りもみんな大企業を目指してたし、自分もそうするのが当然だと思ってた」
■「自分」がどこにもない
「親御さんが喜ぶ顔、見たかったんですね」
「はい...でも、それって、自分の気持ちじゃないですよね」
クライエントは、少し自嘲気味に笑った。
「ずっと、誰かの期待に応えることばかり考えてきた気がします。親、上司、会社...気づいたら、『自分が何をしたいか』っていう感覚が、わからなくなってた」
ダイキは、その言葉をじっくり受け止めた。
「...今、どんな気持ちですか?」
「正直、怖いです」
クライエントの声が、少し震えた。
「これまでの人生、全部無駄だったんじゃないかって。40過ぎて、今さら『自分の人生』なんて言っても...もう遅いんじゃないかって」
沈黙が流れた。ダイキは、クライエントの言葉を急かさずに待った。
「でも同時に...このまま定年まで、ずっとこの虚しさを抱えて生きるのも、耐えられない」
■「やりたいこと」を探す罠
「転職を考えてるって、最初におっしゃいましたよね」
「はい。でも、何がやりたいかわからなくて...自己分析とか、適職診断とか、いろいろやってみたんですけど」
「どうでした?」
「余計に混乱しました」
クライエントは苦笑した。
「診断結果を見ても、『ああ、そうかもね』くらいで。それで人生が変わるわけじゃないし」
ダイキは静かに問いかけた。
「『やりたいこと』を見つけなきゃ、って思ってます?」
「...そうですね。見つけないと、動けないって思ってました」
「なるほど」
ダイキは少し考えてから、言葉を選んで話し始めた。
「多くの人が、『やりたいこと』を探すんですが...実は、それより大事なことがあるんです」
「何ですか?」
「『やりたくないこと』を知ることです」
クライエントは、少し驚いた表情を見せた。
「...やりたくないこと?」
「はい。今の仕事で、『これだけはもう嫌だ』っていうこと、ありますか?」
クライエントは、少し考えてから答えた。
「...毎日、誰かの顔色を伺うことですかね。上司、部下、取引先...常に空気を読んで、期待に応えて。もう、疲れました」
その言葉を口にした瞬間、クライエントの目に涙が浮かんだ。
■ 立ち止まる勇気
「...すみません、なんか...」
クライエントは、慌ててハンカチを取り出した。
「大丈夫ですよ。ゆっくりで」
ダイキの声は、穏やかだった。
しばらくして、クライエントは落ち着きを取り戻した。
「なんか、今まで誰にも言えなかったことを、口にした気がします」
「誰かの期待に応え続けるのは、疲れますよね」
「はい...でも、それをやめたら、自分には何も残らないんじゃないかって」
ダイキは、少し間を置いてから尋ねた。
「今すぐ、何かを決める必要はないと思うんです。むしろ、今必要なのは...」
「何ですか?」
「立ち止まることかもしれません」
「立ち止まる...?」
「はい。ずっと走り続けてきたんですよね。一度、休んでみませんか」
クライエントは、戸惑った表情を見せた。
「でも、休んだら...何もできなくなるんじゃ」
「休むっていうのは、何もしないことじゃないんです。自分の心の声を、ゆっくり聞いてあげる時間です」
■ 小さな選択から
「...具体的には、どうすればいいんですか?」
「まず、日常の小さなことから始めてみませんか」
「小さなこと?」
「例えば、今日の夕食。本当に食べたいものを選んでみる。誰かに合わせるんじゃなくて」
クライエントは、少し拍子抜けした顔をした。
「...そんな簡単なことでいいんですか?」
「簡単に聞こえるかもしれませんが、実は、それができない人が多いんです」
ダイキは、穏やかに微笑んだ。
「ずっと他人軸で生きてきた人は、『自分が何を食べたいか』さえ、わからなくなってることがあります」
クライエントは、ハッとした表情になった。
「...確かに、いつも『みんなが好きそうなもの』を選んでた気がします」
「少しずつでいいんです。自分で選ぶ。自分の感覚を信じてみる。それが、自分軸を取り戻す第一歩です」
■ これからの一歩
カウンセリングの終わりに、クライエントはこう言った。
「今日、ここに来て良かったです。『やりたいこと』を見つけなきゃって、焦ってました」
「焦らなくて大丈夫ですよ」
「はい...まず、立ち止まってみます。自分の心の声を、聞いてみようと思います」
クライエントの表情は、少し柔らかくなっていた。
「次回までに、『自分が選んだこと』を3つ、メモしてきてもらえますか? 小さなことでいいんです」
「わかりました。やってみます」
部屋を出る前、クライエントはふと振り返った。
「あの...『遅すぎる』って思ってたんですけど、そんなことないですかね」
ダイキは、静かに答えた。
「人生に、遅すぎることなんてないと思いますよ」