「私の専門は、枕草子ですから」
國學院大学の文学部で中世文学を学んでいた頃から、蒼俊は事あるごとにそう口にしていた。
しかし、彼の周囲にいる人間はみんな知っている。彼が大学の卒業論文として提出した原稿の表紙には、誇らしげに『日本書紀』『古事記』の文字が躍っていたことを。
専攻していた中世文学から離れ、結局は上代の神話の世界に机を向けていたはずの彼が、今でも頑なに「枕草子が専門」と言い張る姿は、どこか微笑ましく、少しだけ奇妙だった。
もちろん、彼が不勉強なわけではない。中世文学の双璧であり、頂点でもある『源氏物語』を、彼は一文字残さず完全に読破している。
しかし、その大作を熱心に読み解けば読み解くほど、彼の足はそこから遠ざかっていったのだという。
「源氏物語は・・・・暗い。嫌い・・・」
あるとき、彼は心底うんざりしたような顔でそう漏らした。
彼に言わせれば、あの絢爛豪華な宮廷絵巻の裏側には、現代のメンタルクリニックも真っ青な「精神の闇」が「これでもか!」と詰め込まれているらしい。
言われてみれば確かにそうだ。彼の解説を聞いていると、華やかな光源氏の周りでは、驚くほど多くの女性たちが精神的に追い詰められて命を落としている。
最愛の地位を脅かされてうつ病のように衰弱死した紫の上。
秘密の恋の罪悪感と恐怖から胸の病を患って33歳で急逝した柏木。
男不信と過度な心労から拒食状態に陥った宇治の大君。
そして、凄絶ないじめのストレスで我が子が3歳のときに世を去った源氏の生母、桐壺更衣。
それだけではない。不義の子を宿した秘密を抱え続けた藤壺の宮の心労や、執着のあまり生霊となって他者を呪い殺した六条御息所の情念。
夕顔や葵の上の突発的な死にいたっては、もはや医学ではなく「物の怪」という超自然的なホラーの世界だ。
「平安時代の男たちは、今にも消え入りそうな儚い女性が好きだった。だから病気で弱っている姿が、光源氏には一番美しく見えたんだろうね」蒼俊は少し冷ややかな目をして、当時の美意識を分析してみせる。
病をきっかけに儚げな魅力を増した女性に、情熱的にアプローチをかける光源氏。
その姿に、彼はロマンスではなく、底知れぬ息苦しさを感じてしまったのだろう。
愛と嫉妬、罪悪感と怨念が渦巻き、人が次々と衰弱していく世界。
それを「最高峰の文学」として真正面から受け止めるには、彼の感性は少し繊細すぎたのかもしれない。だからこそ、彼はすべてを読み終えた上で、そっと『源氏物語』の書物を閉じた。
彼が今も「枕草子が専門です」と笑うとき、私は彼の背後に、あのドロドロとした源氏の世界から必死に逃げ出してきた若き日の姿を幻視する。
そして、清少納言が切り取った「をかし」の世界、あの明るく知的で、鋭い感性が光る瑞々しいエッセイに、彼がどれほど救われたかを感じ取るのだ。
卒論のテーマが何であったかなど、きっと些細な問題なのだろう。今日も彼は、心の中にある『枕草子』の明るい光を頼りに、文学の、そしてこの世界の闇を器用に飛び越えている。