好き=一生懸命?

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コラム
ちょっと前の話になるのですが、あのちゃんがさんま御殿に出演したときのエピソードトーク。(2025/1/21放送)

中学時代にバスケ部だったあのちゃんは練習中、他の部員と共にコーチに集合をかけられる。そこでコーチは部員に檄を飛ばす意図があったのか、「お前ら本当にバスケ好きか」と発破をかけたそう。

他のメンバーが口々に「好きです」と答える中、あのちゃんは「そんなにです」と正直に(?)答えたのだとか。その返事に激昂した監督は「やる気がないなら帰れ」と言い放ち、あのちゃんはそのまま本当に帰ってしまったのだとか。

この話、皆さんはどう思うでしょうか。
あのちゃんはコーチの熱血さに応えるべきだった?
それとも、自分らしさを貫いたあのちゃんを支持?

おそらく世間一般的な感覚では、コーチの肩を持つ意見が多いのではないでしょうか。「部活動っていうのはそういうもの。本当に帰るヤツがいるか」みたいな。
それも分からなくはないのですが、あのちゃんも悪いわけじゃないよね、とも思っており…。

好きならば一生懸命やらなければならないのか。
ただ「好き」なだけじゃダメなのか。
今回はそんなお話。

電話相談とは関係ないですけどネ。
でもこういうことを日頃から考えていると、お客様とお話するときに役立ったりするものです。

好きなんだったら一生懸命やれ。
この言葉は昔からよく聞くように思います。

私も学生時代はそれを当たり前のように受け入れていました。実際、私もバスケ部でしたし、好きで入部したからには一生懸命やるものだとも思っていました。でも今は好きであることと、一生懸命やることは分けて考えています。

社会人になって体を動かすことがめっきりなくなったので、それを補う意味も込めて、たまにジョギングをしています。学生時代はマラソンとか走り込みは大嫌いだったんですけどね。でも多分それは走ることそのものよりも、ゆっくり走ると先生から怒られるだとか、成績に響くだとか、そういった外部的な要因が大きかったんだと思います。

今、私がゆっくり走っても、そして途中で歩いたりコンビニに寄ったりしても、それを咎める人は誰もいません。私が走りたいから走る。歩きたかったら歩く。外部からの強制的な指示はなく、すべて自分の意思。そこで初めて心から走ることと向き合えたからこそ、「自分って走ることが割と好きだったんだな」と気づけたということ。

夕暮れの景色とか、水面に陽の光が反射する綺麗さとか、遠くのほうで聞こえる車の音、ひんやりした風が耳を撫でる感覚、そういったものを感じながら自分のペースで走るのが心地いい。本来走るというのはこういうことなんだと、今になって気付かされます。走ることが好きというのは、少なくとも確か。

じゃあここから一生懸命やることに繋がるかというと、今のところそれはない。
そもそも一生懸命やるというのは、何らかの結果や実績を得るために何かを代償にする行為。
テストで良い結果を出したいから時間を代償にする、試合に勝ちたいから気力と体力を代償にする。つまり何かを得るために何かを支払うということ。

ジョギングならばタイムを縮めるために心肺トレーニングをしたり月間走行距離を決めて走り込んだり、フォームを見直したりがそれに該当します。
しかし今のところ、そういったことをする予定はありません。それは走るという行為が好きではあっても、一生懸命やる対象ではないから。

もちろん好きが高じて小規模なマラソン大会に出るという目標ができるかもしれませんし、そうなったら好きと一生懸命がくっつき始めるでしょう。でも今はまだ、その2つは別個のもの。それをどのタイミングでくっつけるかは自分で決めます。

だから好きと一生懸命はくっつくこともあるし、くっつかないこともある。
それは各人が決めることであって、「好きなんだったら一生懸命やれ」と強制されるものではない。それが現時点での私の考えです。

あのちゃんも多分、私にとってのジョギングと一緒なのではないでしょうか。
バスケ自体は好きだけど、勝利を得るために必死になる対象ではない。でも好きかどうかと問われれば、好き。
良いとか悪いとかではなく、それがただ一つの事実というだけ。だから私は「別にいいんじゃないの?」と思います。

コーチとしては試合に勝たせてあげたい、学生のうちに努力して何かを掴み取る体験をしてほしい…というような親心?先生心?があるのかもしれませんけどね。それも十分に理解できます。ただあのちゃんはそこを素直に受け取るパーソナリティではなかったね、という話です。
だから私の見解は「先生の気持ちも十分わかるけど、ただ好きなだけというあのちゃんを否定できるものでもないよね」となります。つまりどっちも悪くない。

つまるところこの話は「好きなら一生懸命やれ」という根性論が是か非かという話ではなく、「好きであり、なおかつ一生懸命やる」というグループと、「ただ好きなだけ」というグループで整理できればよかったね、という割り振りの話です。
ガチでやる部活動と、楽しくやるサークルや同好会といった区分けができていれば問題はなかった。でも中学校の規模でそれは難しいから、みんな一緒くたになって一つのグループに入れられてしまい、それゆえに起こったトラブルということ。
簡単に言うと「目的ごとにグループ分けできてればよかったね」ということです。

コロナ禍あたりから、子どもの運動不足を解消するために学校外で運動教室みたいなのを見かけることが多くなりました。私の通っているジムでも隣接された施設でちょいちょい目にするのですが、子どもが本当に楽しそうで。
先生は一切怒鳴らないし、どうやったら運動を楽しんでもらえるかに意識を割いているように見えます。できない種目がある子供にも優しい。

好きであることと一生懸命であることは無理にくっつけず、まずは好きになってもらうことから始める。そこから一生懸命やるステージに上がるかは、本人に任せる。これって大切なことだと思います。

一生懸命を強制される世の中は、私はあんまり好きじゃないです。
ピアノの先生が厳しかったからピアノを嫌いになったとか、親や教師が厳しかったから勉強や特定の科目を嫌いになったとか、そういったものは「まずは好きになってもらう」というステップを無視したがゆえ。

好きだからといって一生懸命やる必要はないし、一生懸命やってるからといって、別に好きというわけではない。
それでいいんじゃないかな。そっちのほうが私もジョギングしやすいし。
そんなふうに思うのでした。
(長くない?)
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