逢瀬 その10

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小説

※(21) 過去に掲載したものを、改正して再投稿。

【短編集(シリーズ)より】


本文


 美鈴が、物思いに耽っている間に、
床の間の電話が鳴っていた。


先程の仲居の声で、
ご夕食のお飲み物は如何致しますか」との問い合わせであった。

神津は、湯上がりにビールを飲みたがるが、
じきに熱燗に切り替わることを、私は知っている。

部屋の冷蔵庫に、ビールの中瓶が有ったので、
自分も飲みたい気分に誘われ、地酒の熱燗を頼むことにした。
















 いつもより 早めの午後6時に退社した神津は、銀座5丁目の画廊に向かった。

歩いても行ける距離なので、ラッシュの地下鉄を避けて、
慣れないデータ処理で、疲れた頭をビル風に冷やしながら・・
しだれ柳の並木道を30分ほど歩き、外堀通りに面した画廊に、辿り着いた。

裸婦の形をした真鍮の取っ手を引いて、画廊に足を踏み入れる。

入り口脇にしつらえられた受付で記帳し、本田の名刺と祝儀差し出すと、
受付の男は、帳面の社名と本田の名刺を見るや慌てて

会長をお呼びしますか

と尋ねるが、
少し、会長直筆の絵を鑑賞させて頂きたいと申し出ると、
ありがとうございます。会長にお伝えいたしておきます」と慇懃に礼をした。


大理石の落ち着いた室内に、歩を進めながら、
壁に目をやると、油絵による風景画や裸婦像に混じって
数点の水彩の花の絵が、透明な清涼感を放って散見される。

油絵の持つ独特の威圧感が、水彩画によって薄められているかのようだ。

神津は、一点の裸婦像の前で、歩みを止めてしまっていた。

憂い」と題する25号くらいの油絵であった。


全裸の女性が、横向きに置かれた木椅子に、腰掛けて足を組み
上半身は背を向け、両腕を背もたれの上に組み合わせて、
物憂げな横顔を見せている。

肌の白さ
ウェーブの掛かった栗毛色の髪
彫りの深い顔立ち等から見て、
外人女性のモデルらしかったが、外国人特有のバタ臭さがない。
日本女性か…。


突然、後ろから声が掛かった。


〇〇通商の神津君だね


振り向くと、濃紺のカシミヤのジャケットに、
赤いアスコットタイを無造作に撒いた70絡みで、
白髪の恰幅の良い紳士然とした男が、
穏やかな笑みをたたえながら、名刺を手にし立っていた。

後ろに、先程受付にいた男を従えている。

〇〇鉱産の会長 島崎 康三 であった。


 神津は、〇〇鉱産の新年会に招かれた折に、挨拶に立った会長の顔を見知っていた。

神津は一礼してから、

初めてお目に掛かります。〇〇通商の神津と申します。
本来なれば本田が直接伺うべき所、火急の用向きが生じたため
代理として伺わせていただきました。
本田から『 宜しくお伝えする様に 』と申し遣っております。
この度はご盛大な個展のご成功おめでとうございます。

と、一気に まくし立てた。


受付の男は、神津と会長に一礼して受付に戻って行った。


会長は、もう良い。という風に片手で遮りながら、
笑いを含んだ声で。



どうせ本田には絵心がないからな…ほーう…君が本田の懐刀の神津君か。


と言いながら、神津を値踏みするように、頭のてっぺんからからつま先まで眺める。

満足したような様子を浮かべると、すぐに話題を変え、

この絵が気に入ったかね

と尋ねた。

とっさに、神津は
はいっ。愁いを含んだ眼差しが印象的で、
モデルの女性は、日本女性には無い様な不思議な魅力を備えております。
それに、随所に展示された水彩画がとても清涼感があり、
油絵と微妙なバランスを保っていると思います。

と答えてしまってから、筆遣いとか色調とか肝心の創作力を誉めるべきだったと・・
後悔するが、後の祭り・・・。


これには島崎も呆れたらしく、笑いながら。


君は正直でよろしい。だが営業マンならもう少し別の誉め言葉を探すべきだったな

と、見事に胸中を射抜かれてしまっていた。


それでいながら、言葉に少しも嫌みがない。


島崎には、本田と同類の好人物の臭いを感じ始めていた。



※この話はフィクションです
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