切り札としてジャッジ

切り札としてジャッジ

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コラム
世間には「わかった」と言っている人たちがいます。

それは何かわかったんでしょう。



でも、それを「わかった」と思うことで、

周りにいる人たちを違う世界の人たちのように見たり、

むしろ下に見ているような態度を感じることもあります。



私がどんな時に感じるかといえば、

「ワクチンを打たないことが正しい」

「まだTVを信じるなんて」

といった、どこか見下すような発言を目にした時です。



「わかっているなら、ジャッジは必要?

上から目線になんでなれるんだろう」



そんなふうに感じてしまうのです。



この世の真実を知って、

「やっぱりね」「ほらね」と満足しているように見えること。



私は、わかったなら、ただ好きに生きればいいだけなんじゃないかと思います。

なぜそれを言いたいのか、

それを知らないまま言葉を発しているように感じます。



以前、スピリチュアル界隈では

アセンションや覚醒のブームのようなものがありました。



「波動が軽い人が素晴らしい」

「あの人は波動が重いから」



そんな話が出てくると、

「その思考こそ波動が重いのでは?」と思ってしまいます。





ジャッジという言葉



「ジャッジしている」という言葉にも、私は違和感を覚えます。

「あなたはジャッジしている」と言って、何も言わせなくする空気。



でも、私も当然「判断」はします。

誰と合うか、どの話題が心地良いか、

それは個性の違いで自然に起こりますよね。



「この人とはここが合う、でもここは合わない」



そうやって関わることもあるし、離れることもある。

それは善悪ではなく、自分の感覚による判断です。



本来、ジャッジとは「合う・合わない」を知って心地よく過ごすためのもので、

相手を否定することではありません。



本質を見失わないために



たとえ大切な人が絶対間違っていると思えても、

それを無理やり違う方向を向けるのは、コントロールの欲求です。



それこそが、ジャッジされてしまう在り方です。
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